第169話
*居室
明るく大きな部屋。客間だろうか、窓は天井まで続いている。ガラスの大きな窓はこの世界では大変贅沢である。
窓ガラスの外は闇に沈み、今はふくよかな男の後姿を映していた。
マントルピースの上には、とても大きな絵画が飾られていた。壮大な海原の絵だが、嵐の海に対峙する商船が描かれている。
マルーンの細君が、嫁入り道具として持参した物だった。何でも彼女の先祖はこの海を乗り越え、この地に渡って来たのだとか。
マルーンはこの絵に、今までまるで興味がなかった。どうでもいい他人事だったのだ。
だが、気付くと紅茶のカップとソーサーを手に持ち、その絵をしげしげと眺めていた。
「その頃海はモンスターに支配されていなかったのだろうか。彼らは死を覚悟していたのだろうか。どんな思いでいたのか…」
マルーンは、今までと違う自分を感じていた。
私に、こんな心が芽生えるとは。私は変わった。いや、こんな壮絶な絵に何も感じないなんて、今までの私がどうかしていたな。
客間の、両開きの扉は大きく開け放たれていた。マルーンの細君が姿を現した。
「貴方、オランジェと娘の件、いかがでして?」
彼女は貴族らしく、静々と歩いて来る。小太りのマルーンと違い、肩の骨が突き出て見えるほど彼女は痩せている。
「ルイゼ、まだ起きていたのか。マカン公に頼まれた件だね。あれは上手くいったよ」
「それはそれは!娘は!どんな様子でした?」
「ああ、なんか、オランジェの時ははっきりしていたんだが、どうもライムの時は眠くてね、ぼんやりしてしまった」
「貴方…なんてつまらない事を。父に捨てられた娘なんて最高のご馳走じゃなくって?」
「そうなのだけどな…ああ、思い出した!生意気言うから、こう叩いてやったのだ。それでベッドに放り込んでな」
「まあ、ベッドに。貴方、手をおつけに?」
「いや、やってないよ。振りだ。
娘が起きた頃にだ。私がこう、背を向けて服を整えてな。いかにも事が済んだ様子を見せてやったわけだ。
あの娘!ププッ!この世の終わりみたいな顔していたよ!
財界では、緑の天使みたいに言われておったが、不細工な泣き顔でなあ!私は、腹を抱えて笑ってしまったよ!」
「まあ!まあ!まあ!やだ、それ私も見たかったわー!
貴方、実際にお手付になっても、良いんじゃなくて?私、見たいわ!あの清廉ぶった小娘が堕ちる瞬間を!」
「それはいけない。マカン公に引き渡す約束だ」
振り返り、毅然とした様子で彼女を嗜めるマルーンに、ルイゼは目を見張った。
あの娘の言った通りだわ。この人は変わった。私に、ここまではっきり意見できる人じゃなかったもの。
「…それにしても、あなた。素敵よ。あのオランジェをやり込めるなんて。
マカン公の提案という事でしたけど、私はちょっと難しいかと、思っていたのですわ。
あの男は融通が効かなくて、私達、十代貴族に敬意が足りないところがあったでしょう?」
「ふふふ、何のことはない。実は小者さ。貴族に逆らう気概はなかった。彼は泣きながらうち震えていたよ」
「まあ!まあ!まあなんて酷い!呼んでくださいまし。貴方ったら、どうしてお一人でご覧になったの?あの生意気な男が、娘を取られて、泣いて引き下がるなんて…」
「私は、今までの私とは違う…」
「貴方…」
「マカン公の七十パーセントなら、この域内ナンバーワンの魔法使いだろう。ノワールなど比ではないわ!」
「貴方、魔法をお見せになったの?」
「見せるものか。私は、そんな安っぽいことはしない。が…やはり内面から何か滲み出る物があるのだろうな?」
マルーンは白い頬を膨らませ、正真正銘のどや顔をみせる。これ以上ない正統的な、驕り高ぶった表情であった。
ルイゼはそれに、何の反発もなくそれを受け入れた。彼女も喜びをもって感じていたのだろう。自分の夫の変貌ぶりに。
「でしょうね。私も先程から何かひしひしと感じましてよ。どうやら白金貨百枚、支払った甲斐がありますわね」
「それだが、ルイゼ。マカン公はイラーザとライムを引き渡せば、白金貨二百枚支払うと言って来ているのだ」
「まあ!まあ!まあ!マカン公、なんて豪胆なお方かしら!
隠れた才ある者を救済するとか言って、結局はお金目当てなんじゃないかしら。と、勘ぐった私が恥ずかしいですわ。
貴方、どうか、しっかりやってくださいませ!」
「任せておけ。私はもう以前とは違う。生まれ変わったのだ!」
「…素敵!貴方、後光が射してましてよ!」
「ハッハッハ!」
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