第165話


 

*閉ざされた部屋

 

全体的に窓から煌々と明かりが溢れる館の中に、一つ明かりの乏しい部屋があった。

 

マルーンは窓辺にライムを立たせ、背後に立つ。彼女の細い肩に、ふくよかな手を乗せる。

 

「そら、ライム。見てごらん、馬車が行ってしまうぞ」


 

「…うそ」

 

「おまえの父は、おまえを諦めた。さっき言った通りだろう?」

「お父様…うそ、そんな…」

 

 

身体はイラーザより少し大きいとはいえ、十二歳の少女である。父親に見捨てられたと告げられる、その後ろ姿はあまりにも儚く頼りない。

 

その絶望が作り出す、細かな震えを、マルーンは触れた手指から感じているようだ。


 

「恨んではならんぞ。彼はな、お前の母親、兄弟、祖母、祖父、親戚、家人、友人、その全てとお前を、秤に乗せたのだ。


どちらが重いか、どちらを選ぶかは決まっていよう?」

 


ライムは、父親の馬車が、非情にも自分を置いて走り去る様子を見ても、取り乱して泣いたりはしなかった。

 

イラーザに誓った、この少女の敬意は伊達ではなかったようだ。


マルーンだが、彼女の父親のオランジェといた時のやる気ない様子と大分変わっていた。


前のめりである。少女の肩越しに、横から、時に首を伸ばし前から、ライムの表情を舐るように覗っていた。

 

ライムの口元が僅かに歪み、震え、今にも零れ落ちそうな涙が目元に光る様を、大きな目で食い入るように見つめる。

 

その目付きは爬虫類を感じさせるものだった。口元にはあまり弧を作らない、わずかな笑みが張り付いていた。

 

 

「お前は、然る方に選ばれたのだ。謀略を持って虜となった。

それを幸運と思うのだ。

その方の権力は偉大だ、逆らうすべはない。早々に諦めろ。それが人生というものだぞ」


 

ライムは、両肩を捕まえ嘗め回すように自身を見つめるマルーンに対し、一切の反応を見せなかった。

 

ただ、父親の馬車が消え去った闇を見ていた。まだ遠く微かに、馬車の魔石灯の照らす光が見えているようだ。

 

「父親を見ただろう。お前のために命懸けで戦ってくれる、その筆頭が諦めたのだぞ?」


 

マルーンの短い指がいやらしく蠢きながら首元から鎖骨を撫でる。

彼の突き出した腹部はライムの薄い背を押し、その白く膨らんだ顔は彼女の頬に触れんばかりに近寄っていた。


 

この部屋には他に誰もいなかった。

 

誰の目もない。マルーンとライムの二人きりである。彼女を監禁するために用意された部屋だ。灯は少なく、ベッドが一つあるだけだった。

 


「十二歳にしては発育が良いな…お前は野盗の手籠めにはされていないのだよな?」

 

 

ライムの目から大粒の涙がこぼれた。


だが、それはぽろりと溢れたわけではなかった。

飛び散ったのだ。

 


ライムは激しく動いた。振り向くと同時に腕を振り、マルーンの手を弾いた。

 

「触るんじゃねーよ、少女恋野郎!わたしが抱きたいなら死体を抱きな!」

 

 

マルーンは手を弾かれ、のけぞったままの姿勢で固まった。


ライムはその間合いから逃げもしなかった。両目を正面から合わせて炎のように睨みつける。緑の髪が揺れた。


 

マルーンの口がすぼめられる。

 

「ホッホッ!」

 

おかしな笑い声が、ベッド以外に何もない閑散とした部屋に響く。

 

「ホッホッ、これはこれは面白い娘だ!

ヒットだ!ホッホッホッ!なんてすばらしい台詞だ!ホッホッホッ!」


 

ライムは、これに対応できなかった。

そこまでは、イラーザの真似をしただけだったからだ。いきなり笑い出したマルーンにどう返すか迷ってしまう。

 

そこで、ライムの視界からマルーンが消えた。彼女には、本当に消えたようにしか見えなかった。


体型からは、想像つかない速さで背後に立ったマルーンは、ライムの首元に手刀を入れる。

 

 

ライムが気付くと彼女は一人ベッドに寝ていた。


周りを見るとマルーンがベルトをカチャカチャと鳴らし、身なりを整えていた。跳ね起きたライムに視線を投げ、満足げな表情を向ける。


「えっ!」


やられてしまった。私は気を失ってるうちに、この男にやられてしまったの?

 ライムは絶望した。


ライムは十二歳の子供だが、十六歳で大人とされる世界だ。好奇心旺盛な性質もあり、そういう知識はしっかりと持っていた。


 

「ヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッヒ!!」

マルーンは笑い出した。のけぞり、戻り、体を揺すって、膨らんだ腹を抱え大きく笑う。

 

「ヒャッヒャッ…大口は、実力を伴ってから、吐きなさい」

 

ライムは子供の泣き顔をしていた。悪くないのに親から叩かれたような顔だった。最早、先程の威勢の良さはまるでない。


 

「あー面白かった。本当にヒットだった。冗談ですよ。然る方がお気に入りになりそうだから、手を付けてはいません。安心なさい」

 

 

ライムは何が何だかわからなかった。慌てて調べるが着衣に乱れはなく、自分の身体にも違和感はなかった。


冗談って?


 

マルーンは背を向け歩き出す。

見ると、いつの間にかドアの前に一人の少女が立っていた。


 マルーンは、笑いを残した声で呟く。

「ああ、腹筋が痛い。これは鍛え方がまるで足りないな……後は任せたぞ、ファナ」


ファナと場所を入れ替えたマルーンは、振りむき、ライムに投げキッスを飛ばし、部屋から出て行った。

 

ドアは閉じられ、ファナだけが部屋に残った。


 

「あなたは?」


ライムはベッドで身を起こしたままの体勢でいた。歩んで来る少女に対して構え、布団を引き寄せる。

 

「私はファナ。あなたと同じく、然る方の虜です」

 

両手を前で揃え、メイドのように姿勢よく話す彼女には、虜という哀れさはない。落ち着きはらっていた。


ライムは戸惑う。

仲間なの?この娘もわたしみたいに捕まえられたのかしら。


「…逃げましょう。逃げ…ないんですか?」

 

「もう、私にはそんな元気はありません」

ファナは、首を少しだけ傾け、ほんのり笑顔を作る。達観した様があった。

 

ライムは、見た目の年齢を、はるかに越える大きさをファナに見た。

見た目は十六、七歳といったところだが、彼女にはそんな風には見えなかった。母親のような風格を感じたのだ。

 

目を閉じたような、瞳の見えない優しい目元に安心感を覚える。

 


「あの…わたし、あの人にいやらしい事されたんですか?」

 

「私が呼ばれて、ドアを開けたのは、あなたが気絶してからですね。

あの方はあなたを抱き上げていたわ。

 

ベッドにあなたを降ろすと、自分のシャツのボタンを外し、ベルトを緩めたわね。


そしてあなたに、治療の魔法をかけたわ。

 

あの方の治療魔法は、首が胴から離れても治せるものだから、もしかすると、あなたは死にかけていたかも知れませんね」

 

ライムはゾッとして青ざめる。


あの男は、自分の目の前から忽然と消え失せた。後ろに気配を感じたところで意識を飛ばされてしまったのだ。

 


「その後ね。ずっと待ってたわ。その場で、あなたが目覚めるのをね」

「ええ?」


「立って待っていたわ。動かず、そこでね。その場所が、ベストポジションだと思っていたのでしょう」


「ええ…え?ずっと…待って?」



「あの人はね、とても気持ち悪い人なの」

「…ええ」



「そして、あなたが目覚めた時に、身なりを整え出したのよ。

ベルトをカチャカチャ鳴らしてね」

 

「…えええ」

 


「ね、本当に気持ち悪い人でしょ?」

「なにが…したいの?」

 

「ベッドであなたが驚く、絶望の顔が見たかったのだと思うわね」


「…そんな人、います?」

 


「現に、いたでしょう」

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