第122話
*山岳
暗闇の魔法が効いている内に彼らのデスゾーンを抜け出す。
イラーザは必死に駆けた。
暗闇の呪文は行動の遮音、認識阻害。難敵から逃げ出すのには最高の呪文だ。今なら、洞窟のモンスターにさえ気づかれず通過出来るのだが、彼女は敢えてその道を避けた。
洞窟方面には逃げなかった。彼らより先に到達し、通過してしまえる足を持っていなかった。
逃げ道はそこしかない。彼らには必ず先回りされるとみたのだ。
亜翼竜が暴れたおかげで地面は荒れている。追跡される可能性は低い。
私は失敗できない。
小さなピークでイラーザは一息ついた。
男達からは大分距離を稼いでいた。暗闇の効果が消え、これからは慎重に進まなければいけない。
彼女は山を越えようと考えていた。洞窟を通れなければ山を越えるしかないのだ。困難を伴うルートと聞いているが軽装ならいける。
そう思い込むしかなかった。他に道はない。
目が慣れると月明りで僅かながら地形は見えるようになった。
変な形の岩ですね。
彼女は深く考えずに近寄ってしまった、それは亜翼竜だった。突然動いた岩から首が伸び、黄色い目が光る。
そこから新たな逃走劇が始まった。
逃げても逃げても亜翼竜はしつこく追いかけて来た。勿論、翼竜が万全であれば追いかけっこにはならないのだが、この亜翼竜も傷ついていた。
「ハア、ハア…」
こんな、何で、ここで…こいつが。これじゃ彼らに見つかってしまう。
イラーザは、なんとか戦わずやり過ごそうと必死で走った。
だが、亜翼竜の追跡は執拗だった。
良く見えぬ暗がりに足首を捻り、飛び出た枝に目を打たれ、根に足を掛けられ、転ぶ度に立ち上がっては走った。
振り切るため、あまり前も見ずに駆けていたイラーザは、小さな崖を見逃がして落ちてしまう。
いきなり地面がなかった。
叫び声を上げたかったが、それすらも押し殺した。斜面に落下し転がっていく。
「ふっ、ぐっ、うっ…」
なんとか呻き声に抑え込んだ。
身体をあちこち打って転がり落ち、大地に投げ出された。
段差のある斜面から、木の葉や小石がバラバラと顔に落ちて来る。
イラーザの意識は朦朧としていた。
だめだ…ここで気を失っちゃ。彼女は体を無理矢理に起こし、ガニ股になりながらも這いずって逃げる。膝に小石がすれ、小枝が頬に刺さるが気にせず進む。
ズドドーーーン!
激しい振動でイラーザの体が一瞬浮いた。
すぐそこに亜翼竜の身体が落ちて来たのだ。あのままいたら圧し潰されて絶命していただろう。
それだけはだめ、死ねない。
今だけは死ねないのだ。絶対に。
イラーザはここまで生に執着したことは無かった。
真逆の行動の方が多かった。怒りに身を任せ、命を捨ててがむしゃらに敵に向かったことは一回や二回じゃない。
死ぬ時はクールに死ぬ。それが彼女の美学だった。
じゃあ、お先に!後は頑張ってください。
必死に生にしがみつく連中にはこう言ってやるのを夢見ていた。
でも、今だけは生き残りたかった。
生きて街に、あの門まで辿りつきたかった。
息を殺しながら整える。力を貯める。そして願った、亜翼竜に。
もう死んでいてください。
願いは叶わなかった。
背中を向けて横臥していた亜翼竜の首が持ち上がり、目が光る。
亜翼竜には、この暗がりで正確に獲物を捉える視力がある。目が合うと同時にイラーザは立ち上がって駆けた。
死ねない。死んでたまるか。
亜翼竜が体を起こし、追跡し始めた気配を背後に感じる。
着実に夜明けは近付いていている。空に青みが射してきていたが、未だ地上は真っ暗だった。
小さなイラーザでなくても、木々の間を駆け抜ける事はできるが、亜翼竜には難しかった。突然、背後で生々しい音がする。
大木に押され、斜めに育った木に亜翼竜が阻まれた音だった。
耳元と言っていいほど、イラーザの近くで発生した音だった。
その瞬間に身体は竦んだが、彼女の足は止まらなかった。前に進んだ。振り返る事すらしなかった。
早く、ただ早く。敵を引き離す事だけに集中していた。
イラーザは、暗闇の世界をかける。ほんの少しだけの濃淡が、彼女に物体の存在を教えてくれる。
眼前に大きな黒が迫って来た。少しだけ速力を落とし確認する。それは大きな岩山だった。
実体を示した岩山を、彼女は撫でるように進み、背後に回った。
亜翼竜の発生させる物音とは、大分距離が開いていた。
ゴツゴツと尖った岩肌に背を預け、イラーザは息を整える。
敵に気配を気取られぬよう、息を潜めている。
肩を揺らして体全体を使って呼吸しても、酸素はまるで足りていない状態なのに、無理矢理に息を押し殺していた。
自殺行為の浅い呼吸に、反発するように心臓は跳ねる。視界が狭まり、目眩を引き起こすが、背を岩に預けているので問題は起きなかった。
お願いだからここで見失ってください。
だが、亜翼竜の足音は着実にイラーザに迫ってきた。音が近づいて来る。
足が震える。身体が悲鳴を上げていた。もう限界だ。しかし今の彼女に諦める選択肢はない。
私はこんな所で死なない。
背を岩から離し、進もうとする。
途端に膝が抜け、倒れそうになった。両手で膝を掴み、歯を食いしばって進んだ。
手で膝を持ち上げるようにして、一歩一歩進んだ。
亜翼竜の足音が背後に迫るが、イラーザは前だけを見ていた。
確実に私の匂いを捉えている。隠れてやり過ごすのは不可能です。
これは、倒す…しかない。
でも今は、そんなの無理だ。逃げなきゃ。早く。このままだと…後十五秒で背中を鉤爪で掴まれる。
もう無理だ。
後十三秒。
ザッザッ…。
絶望している間にもイラーザの足は進んでいた。
五歩くらい進んだから、一秒は稼げたはず。
「ふっふ…」
バカだな。これが無駄な足搔きってヤツ。意味ない。恰好悪い。
みっともないな。
心は諦めを口にしていたが、足は歩みを止めなかった。
イラーザは、前方の岩山に隙間を発見する。
地下に続くかに見える、縦に裂けたひび割れ。真っ暗な穴だ。
どこにそんな力があったのか?
彼女自身が、不思議に思う程の力が足に生まれ、巨人に蹴り飛ばされた勢いでイラーザは飛んだ。
刹那、彼女の上を鉤爪が通り過ぎる。
肩や頭を岩肌にぶつけたが、彼女の全身は裂け目に収まった。
しかし、それ以上はなかなか進めなかった。奥が狭いのだ。頭を挟まれ、腕を削り、顔を変形させながらも、なんとか奥へ入り込もうともがく。
亜翼竜はブレスを持たない。器用な手もない。翼に二つの鉤爪がついているだけだ。奥に入ってしまえば難を逃れられるはず。
イラーザはそう考えたのだ。
最後の狭路に背中を削られた時、人からしてはいけないような音がしたが、彼女はなんとか亜翼竜の手の届かぬところに入り込めた。
『ギャアアアアアァァ…』
隙間に、なんとか収まったイラーザは声を上げず叫んだ。
体のあちこちが、擦れ裂けた疼痛にイラーザは、顔を歪める。
何故、魔法使いは治癒系の呪文を扱えないのでしょうか。
トキオさんなら…。
岩窟の入り口から荒い呼吸音が聞こえる。勢い余って通り過ぎてしまった亜翼竜が戻って来たようだ。
闇に染まる洞穴を黄色く光る眼が覗く。
中の様子を確認したのか、目が消えると鉤爪が伸びて来る。
一体どういう体勢で鉤爪を伸ばしているのか、彼女の視界からは見えなかったが、想像より深く鉤爪は岩窟に入って来た。
幸運なことに、イラーザの縮めたつま先にそれは僅かに届かなかった。
しつこくチャレンジしてから鉤爪は引っ込んで行った。外から亜翼竜の怒りの叫びが聞こえる。
「私が…何をしたって言う……」
イラーザは意識を失ってしまった。
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