第105話
*お屋敷
イラーザ的には、長い、長い廊下を歩き、やっと姿勢の良い紳士の前に着いた。
「こん…にちは…」
「イラーザ様、ようこそいらっしゃいました」
イラーザは既に自分の異変に気がついていた。なにか様子がおかしい。先程から妙に息苦しいのだ。
どうしたんでしょうか。私は怖いもの知らずの冒険者じゃないですか。どうしてこんなに不安なのでしょう。
「ウエハスさん、ただいま!」
「おかえりなさい、お嬢さま」
ライムは、彼に飛びつくような笑顔で挨拶し、イラーザの方を向いた。
「ウエハスさんはね、お父様の執事をしてくれているの。あのね、私のオムツを替えたこともあるんだって!」
バカですかおまえは!それは、自慢気に話すことじゃないでしょう!
ライムの、あまりのおバカなセリフに、きっちり心の突っ込みは入れたが、イラーザの身体は異常をきたしていた。視界が揺れ、心臓の鼓動がばらつくような感じだ。
顔色が悪くなっていくのが自分でもわかる。頬に手を当てると、汗ばみ、そしてひどく冷たくなっていた。
無理です。もう…怖い。
彼女は思い出した。貴族が嫌いなことを。
嫌いというより、恐れ怯えているのだ。彼らの理不尽な暴力に恐怖していた。
イラーザは、貴族を恐れるに足る経験を幾つかしてきていた。この世界ではなんの不思議もない、よくある話だ。
彼女は、貴族すら恐れない冒険者ではなく、貴族を恐れたくないから冒険者になった。それを今思い出したのだ。
自身が、まだそれには至っていないと気づいてしまった。
あまりにも恐れていたので、関わらないよう考えないよう避け続け、そして忘却してしまっていたのだ。
イラーザは、主人が待つ居室に向かう廊下の途中で、唐突に回れ右をした。
「ええ?」
ライムの戸惑いを背後に聞き、イラーザは出口に向かって歩きながらに告げる。
「すみません、やっぱり帰ります」
「ええ、イラーザお姉ちゃん。なんで!」
「私は貴族とは関わらない事にしていたんです。思い出しました!」
「ええ、待って!うちは貴族じゃないよー」
「貴族みたいなものなら、貴族の一員です!」
「ええー、ちょっと、待ってよー!」
「ごめんなさい。どうか勘弁してください」
「ええ、ちょ、待ってよー。お願い」
そこで、執事のウエハスが回り込み、イラーザの行く手を塞いだ。歳を取ってはいるようだが、背は高く、筋肉質な体つきをしている。身のこなしも良かった。
イラーザは足を止め、目を見開いた。身を守るように腕で抱く。その姿勢は冒険者のそれではなかった。
ウエハスは、イラーザのその真っ白に青ざめた顔を見て、即座に彼女の怯えを見てとった。
彼は、すぐに身を低くして屈む。
大きな男が身を屈めたので、イラーザの恐怖感は少しだけ下がる。何をする気だろうか。そう、考える余裕が生まれた。
ウエハスはゆっくりと床に座る。そして緩慢な動きで足を伸ばすと、大の字になって床に寝転がった。なにやらシュールだった。
「えええー!」
「おまえが驚くんか!」
イラーザはライムにツッコミを入れた。あまりの展開に、調子が悪いのも忘れて素早く突っ込んでしまった。
自分の目の前に広がる光景の意味がわからない。これは一体どういう状況なのか。
ライムが驚くということは、家族ルール。この家独特の習慣というわけではない。そのくらいの事しかイラーザにはわからなかった。
改めて見る。清掃が行き届いた、ツヤツヤのフローリングに立派な服装の紳士が大の字で寝ている。彼は天井を見上げたまま何も言わない。
「…………」
ライムは先程の突っ込みが効いたのか、どういう心持ちなのかわからないが、鳥のような口をして止まっている。
何も語りそうにない。仕方ないので、イラーザが口を開いた。
「えーっと…どうしました?どういう事でしょうか?」
ウエハスは、大の字になったまま述べる。
「腹を、見せているのです」
「えっ?」
「イラーザ様は冒険者であられると聞いております。私のような老体では、とても捕まえられない。降参を示しているのです」
「はあ…」
「どうか、お嬢さまの話を聞いて頂けないでしょうか」
「………………」
イラーザは気づいた。自分が恐慌から抜け出している事に。
このじじい…。
そこで、ライムがイラーザを覗きこむ。
「わからない、イラーザお姉ちゃん?ウエハスさんはね、貴族にはこんな人いないでしょうって。そういうのを見せてるんだよ?」
「おまえには説明されたくない!」
「ひゃん」
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