第98話
*森林
イラーザは大男の腕に本気で嚙みついた。
毛がびっしりと生え、ぬらぬらと汗で光り、臭いを放ちそうな腕に、委細構わず噛り付いた。
ぎりぎりと、嚙み千切らんばかりに力をこめる。顎の筋肉に全精力を傾ける。触感や、塩気を感じる隙間すらなかった。
「うぐあっ、ああー!」
大男はたまらずイラーザを突き飛ばした。
彼女は、大男に力任せに背を突かれても、顎に集中していた力をまるで緩めなかった。彼女の鋭い犬歯が刃物のように男の腕を切り裂く。
男は咄嗟に裂けた腕を押さえるが、鮮血がほとばしり、押さえた指の間からぽたぽたと垂れる。
「こ…こんの女―!」
突き飛ばされて、地面にうつ伏せに倒れたイラーザは、その姿勢のまま何事かを呟いていた。くぐもった声が山賊達に聞こえる。
小男は、呪文を唱えている事を悟った。だが、彼女がどこから魔法を放つかわからなかった。間合いに入れず戸惑う。
相手の無抵抗を確信していればそうではないが、倒れたままの人間は意外と攻撃しづらいものなのだ。
魔法使いが術を放つ手元に注意を払い、距離を取って様子を見ると。イラーザは上半身を起こした。足は乱れているが、正座するような形になる。
地面にまともに打ったのだろう。真っすぐに切り揃えられた前髪の下、丸い額と鼻を紅く染め、鼻の片方から血をぽたぽたと垂らしていた。
その口元には大男の物か、血がたらりと垂れている。イラーザは不思議と、怒りに囚われた風でもなく平然とした様子だった。
それよりも山賊たちが驚いたのは、彼女が両手に魔法を構築していたからだ。
ぼんやりと光を放つ、マナの揺らぎが煌めいている。
山賊たちは息を飲んだ。
先程はできなかったのに、何故だ?
この世界の魔法は、地霊や精霊を呼び出し行使させるものではない。大気中にある魔法の根源、マナを変化させ、現象を改変させる数式を打ち込む。それを装置として自らの魔力を注ぎ込むのだ。イメージを持って構築するのだ。
だから、人によって呪文の文言が違う。
当人がマナの構成をイメージできれば良い。そのイメージの仕方も、正しいとされる原型があるだけで、多数のオリジナルがあり得る。
マナ操作し、イメージ通り魔力を注入すればよい。
マナの一つ一つを、より事細かく、より効率よく、綿密に構成できるのが上級者の呪文である。
イラーザはこれまで、上級魔法使いが操る二重詠唱を使えたわけではない。今までは出来なかった。
この時の彼女の怒りが、神の如き集中がもたらした結果だろう。
二つ同時に作り出す事を求めた。この時の彼女は、素早く正しく同時にイメージできたのだ。
脅威に感じた二人は、イラーザを中心に前後に位置取った。小男が腰からナイフを抜き取る。
「ひっひっ、やめとけお嬢ちゃん…これ以上は命の取り合いになるぜ?
金目のもの頂いて、おまえさんにちょっと悪戯するだけだって。
こっちも、命まで取る気はねーんだわ?」
呪文を放つ前に投げるというのだろう。男はナイフを持った手を軽くあげ、揺らしながら構える。
血にまみれた片腕を気にしながらも、大男は手斧をかざし、忌々しげにイラーザを睨みつける。
「その薄っすい胸板に突き立てんぞ、ゴラーー!」
イラーザは片膝を立て、ゆっくりと立ち上がる。
耳の前に垂らした髪の束が風を巻き、優雅に流れる。彼女は、鼻血も、口元を濡らす血も、ぬぐおうとしなかった。
「変態野郎が、テメーらの股間から消し炭にしてやる!」
足を踏み出す。砂利を飛ばし大きくスタンスを取り、両手を翳す。彼女の瞳は冷静な怒りに燃えている。そして、人里離れた森林に声を響かせる。
「万が一にも生き残れたら、私の死体を抱きな‼︎」
小男の額に汗が浮かぶ。
この女…本気だ。死地に対峙した奴の目だ。
殺るか殺られるかの勝負をする気だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます