第80話
俺は、アリアーデを見つめる。銀の娘、光の乙女と呼ばれる、煌びやかな少女を正面から見つめる。
この世のものと思えない美しい姿にたじろぐ。本当に大丈夫か。
心が折れそうになる。そういえば俺は女子に告白をした事がない。
大きく息を吸った。これが俺の告白だ。
「じゃあ、一発やらせてくれ」
「じゃあ、一発やらせてくれ」
時が止まった。
俺が吹き飛ばしたせいか、この辺りは虫の音も聞こえない。熱で結晶化したのか、岩に反響し、言葉は響きを持っていた。
大切な事だから、二度言ったんだ。
言い直すのが嫌で、二度言っておいたんだ。
はっきりと聞き取れたはずだが、アリアーデの心が否定したのだろう。
彼女は止まっている。
下品極まりない言葉だが、俺にはこれしかなかった。
君が欲しいとか、君が抱きたいとか、君と一夜の夢を見たいとか、貴族の息女に好きと告白するとか、そういうのはとてもできそうになかった。
下品だからこそ言えた。
「え?」
ずいぶん経ってから、彼女は聞き直した。
「一回だけで、いいんだ」
俺は用意していた二言目を吐いた。これも言えた。俺は随分強くなっている。
風が枯れ草を揺らす音が、かすかに聞こえていた。
"一回だけでいいんだ"
この言葉。自分で吐き出しておいてよくわからない。惨めったらしいような、厚かましい物言いだ。
なんだよこれ?昔から俺は謎の言葉だと思っていた。
わかってる、わかってるさ。言いたくはなかった。
どうやら聞き間違いではないと、そういう事を言っているのだと、アリアーデも認識したようだ。
もともと情緒を感じさせない。人形のように感情が見えないアリアーデだが、まるで表情が消えた。陶器のように揺るぎがなくなった。
そのなかで、神々しさを見せる白銀色の髪の毛だけが、風に揺らされていた。
後悔はしていない。決断したんだ。
嫌われても、疎まれても、本音をぶつけてみようと思ったんだ。
これが本音だというのは、人としてあまりにも情けないが、男として、突き詰めるとこれではないか。そう思ったんだ。
どうせ逃げる気なんだ。こんなに正体を知られては、留まれない。
下品な事を言った下郎がいた。
そんな記憶でもいい。嘘じゃない情動が、俺にあった事を彼女に伝えたかった。
だが、アリアーデが返事をしない。
ガラス箱に入ったフランス人形のように遠く感じる。ガラスの厚さがとても厚い。水族館のアクリルより厚いかも知れない。
正対して立ち尽くし、無言の時間は、もう十分は過ぎている。わずかな風の囁き、遠くの動物の鳴き声だけが、鼓膜を震わせていた。
実は経過時間は正確にはわからない。俺にはそう感じられる。
じゃあいいよ。そう言って立ち去る選択肢が、頭に浮かぶ。
この選択肢だけが残ってしまった。
あほか、まだ早い。あと一分ぐらいは頑張るべきだ。逃げてどうする。きっと後悔する。後で何を言ったのかわからなくなるくらい、精一杯やろう。
「大丈夫、おまえとした事は、死んでも忘れないけど、誰にも言わず墓場に持っていくから、誰にもバレないよ?」
少しだけ、彼女の表情が動いた。
そうだ、貴族なんだから、自らの、家の利益を追求しろ。面子を、対面を重んじろ。正味を考えろ。これは損失のない取引のはずだ。
ここで俺はカードを切る。
「大丈夫、俺、回復魔法が使えるから、純潔だって偽装できるよ?」
まずい、失敗したようだ。アリアーデの鉄面皮に、変化が見える。
眉間にしわが寄り、眦が吊り上がる。不機嫌なオーラが迸る。メドゥーサだ。メドゥーサのような気配がする。怖い。
彼女は、醜く顔を歪めているわけではない。目を見開いた真顔だ。それが何故か怖い。あの時も、こんな顔をしていたのか。美人が怒ると怖い。
なんでだ、全く、お得な条件のはずなのに?
おまえの鏡を貸してくれ、後で返す。全く変わりないものを返すから。借りた事も言わないよ。お礼はそれで良い。
みたいな、損失ゼロの破格な取引だと思ったんだが…。
それで約束は果たされる。しつこいストーキングもない。
そのあと、お姫様と王子様は、お城で幸せに暮らしましたとさ。だよね?
沈黙が続く。俺の耳にはもう、自分の鼓動の音しか聞こえなかった。
静時では、あり得ない速さで血流を送り出している。
じゃあいいよ。
とは絶対に言いたくなかった俺の脳は、猛烈にビートの効いた血流に押され、まとまりのない考えを、口から吐き出してしまう。
「俺は怖いんだ。なんか、おまえが特別な人間に見えて来てるんだ。
おまえはその辺にいる、ただ、奇麗なだけの高慢ちきな女であって欲しいんだ。
やっちまえば、きっと勘違いだったって気付ける。
俺は嫌なんだよ、妙に大切に思うなんて!」
彼女の怒りが消えた。
突然空気が軽くなった。そんな風に感じた。
「………お前は、本当に…度し難い男だな」
アリアーデがやっと口をきいてくれた。
嬉しかった。このまま彼女に踵を返されたら、山に籠り、きっと仙人として誰にも会わず、百年暮らすところだった。
「だが、お前の発言には、私も感じるものがあった。良かろう。お前の要求を受け入れよう」
ええ…?
「どこでだ、ここでか?」
そう述べた彼女の顔には、照れとか焦りとか、一切なかった。
いつもの淡々とした様子だった。
でも怖くなかった。
なにか彼女にしては優しい感じがしていた。
よく見ると口が小さく弧を描いている。
彼女は何故か笑顔だったんだ。
銀髪銀眼の美しい容姿。童話に出演して然るべき彼女が、優しく見つめているのは俺だった。その銀の瞳が俺を捉えて離さない。
森の妖精が、道に迷った旅人を褥に誘う。
「そうだ、この先に狩りの時に使う小屋がある。そこに行くか?」
彼女は足をそちらに向け、俺を覗き込むように首を傾けた。手を伸ばす。ゆったりとした白のブラウスから少し、白く細い手首が覗く。薄く青く血管が見える。
スカートが翻り、長い裾から細い足首が見え隠れする。
「アリアーデ…」
「どうした、トキオ。付いて来ないのか?」
岬の断崖の上に、緑の濃い丘があった。小さな花が咲き、蝶が舞い飛ぶ。
少し沖を見ると、海に突き出た雄々しい黒い岩に波が当たって砕けた。
うねりを伴った大きな波が次々と押し寄せる。
何度も何度も寄せては返し、その度に白波が砕けた。
やがて夕凪が迫り、波は穏やかさを取り戻す。
海は空を映す鏡面のように薙いでいった。
銀髪の少女が宵闇の街道を、スカートを揺るがせ歩いて行く。
民家を過ぎ、小さな城下町を抜けると、辺りには無数の松明が焚かれ、城は朱に染まって夜空に浮かんでいた。
「アリアーデーー様!よくぞご無事で!」
「どうしたエナン、松明なぞこんなに燃やして。モンスターでも出たのか?」
「なにをおっしゃる、アリアーデ様。貴方様が攫われたではないですか?」
「ああ、あの腰抜けの事か。口ばかりの魔物は去ったぞ」
話が理解できず、エナンは戸惑う。アリアーデはそれ以上語らず、歩き出した。
線の細い、可憐な後姿が城に向かって小さくなって行く。
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