第36話
*湖畔の宿屋
湖の畔にその宿屋はある。土台部分は石造り、その上は木材と漆喰で工作されている。小さめの宿だが堅牢なつくりで、二階にテラスがあるのが自慢の宿だった。
この辺りは、遠く北側の山脈の連なりが水面越しに見え、眺めが良い。同じような宿屋や商店が点在していた。
宿の反対側は隣の領へ続く街道になっていて、人の往来はそれなりにあった。
一階の食堂には血の匂いが充満していた。
テーブルの形は長方形だった。長辺に宿屋の老夫婦が、短い部分に男女が対面で座っていた。
少し離れた戸口辺りには死体が横たわっている。そこにもう一人、がっしりとした体躯の男が立っていた。
夫婦を挟んで座っている男の名はタイカ。先程殺された農夫が、振り返った時に真ん中に立っていた男だ。
室内でもフードを被り、窓からの薄明かりにわずかに照らされた顔は青白く、眼光だけが鋭かった。肩が尖って見えるほど痩せていて、病的な印象である。
その反対側にいる女の名はパナメー。目尻の下がった優し気な目元をしている。
開くと割と大きな目をしているが、彼女の目は大概閉じている。下向きの睫毛に覆われ、瞳の色も見えない程だ。
彼女のスタイルは抜群に良い。
おかげで男達が、彼女に持つ印象は凄い身体した女だ。エロい体の女である。誰も顔の事は言わない。
彼らはイースセプテン帝国、リッチラン領から工作に来ていた。つまり敵国である。
湖のそばの小さな宿屋に押し入って、人質を取り、操って工作を始めて二日経っていた。
死体の所に立っていた男が四人に近づく。男の名はドルツ。リッチランの軍人である。
「タイカ、なぜ彼を殺した!」
「彼も無理そうでした。無駄と分かっていてやるほど暇じゃない」
ドルツには、鼻の下に少しだけ髭がある。口の端まで届かない程だ。その口を大きく開け怒鳴る。
「マカン様はここまでやれとは言ってないだろう。おまえの勝手は許されんぞ!」
「マカン様はパナメーと私に、好きにやれと言われた。口を出さないでください」
「それは作戦成功のために、手段を選ぶ必要はないという事だろう。
こんな残酷で無法を許したわけではない!
おまえのやっている事は、どちらかというと計画を難しくしている!
噂を発信するはずの宿屋の従業員を皆殺しにしてどうするのか?」
「皆殺しじゃないでしょう。まだそこに二人残ってるじゃないですか」
タイカは膝を組み替える。彼は先程から爪にやすりをかけていた。柔らかい布で拭き上げ、息をかけうっとり見つめる。
「私は魔法を見せる必要があるでしょう。だから見せてあげたんですよ。私の魔法を。高位の魔法使いがサウザンレイクにいる。そういう役どころなんでしょ。なら見せるのが早いじゃないですか」
タイカは、戸口近くの切り裂かれた死体に目を向ける。
それから宿屋の主人に目を向ける。
「魔法、見たでしょう?」
「は、はい!」
続いて視線を向けられた奥方も体を震わせながらうなずく。
なにやら声は出ているが返事にはなっていなかった。
「タイカ。ノワールは、このガンドル王国で知られた魔女だ。
男ではない。実力も人柄も、この大陸に並ぶものがないと称される、非常に優れた恩恵に恵まれたお方だ。
それがサウザンレイクに滞在している。そんな噂を伝播させる。
それだけの仕事だった。何故こうなる」
「その、ノワールの名を借りるってのが、気にくわないんですよ。
私はマカン様より、魔道を受け継いだ。大魔道士ですよ。覚醒者だ。神に選ばれた存在です。最高の才を手にした人間ですよ。
それなのになぜこの私が、誰かのふりをしなければいけないのか?
やらせてもらえば、そのノワールにだって負けはしない」
「タイカ、おまえはつい先日、才を手に入れたばかりだろう。彼の方は、魔女と呼ばれる超越者だぞ。よくもそこまで図に乗ったな」
タイカは、少し俯いたままの姿勢でドルツを軽く睨む。口元には笑みが浮かんだ。
「ククク」
タイカは爪とぎを再開した。歪な笑みを張り付かせたまま語りかける。
「ドルツさん、ひがんでいるのかな、この私が選ばれたこと? 」
「私は武人、そのような能力を望んではおらん」
「あれ、マカン様の魔道をばかにするのですか?」
「無礼な!マカン様の魔道は本物だ。おまえのような小物と一緒にするな!」
ドルツからは一際大きな声が出ていた。額に青筋が経っている。
「なるほどね。ぽっと出の私が、あなたの上に、いきなり立つのが気に入らないってわけですね?」
「調子に乗るなタイカ!
私はおまえの下に配置されたわけではない!
おまえを手伝うよう命じられただけだ!」
「ばかですか、同じことですよ」
血管を浮き立たせ、歯を食いしばり、怒りに耐えるドルツ。
先程から宿屋の夫婦は正しすぎる姿勢を貫いている。耐えかねた頬や首筋が時おり痙攣していた。
パナメーは素知らぬ顔で、ワインボトルを傾けグラスに注ぐ。
毒のない、優し気な顔つきに、この場の緊張感はない。花に水やりをしているかのようだった。
窓の外からは、風光明媚な町の喧騒が遠く聞こえているが、貸し切りの札を下げ、固く扉を閉ざされたこの宿屋の中には、外とは隔絶した空気があった。
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