第33話
アリアーデ様は、いつの間にか俺に視線を向けていた。
「だが、私は…運よく手篭めにはされずに済んだ。
彼が私の服を脱がせ、首の辺りに手をかけた時、従者がドアを激しく叩いたんだ。
リッチランの軍が、留守中の彼の城を攻めてきたと言う。
それどころじゃなくなった。
慌てて戻った彼はその戦闘で、重傷を負った。
…彼も気まずかったのか、もう城を訪ねてはこなかった。
皆は言った。
ほら、神様は見ていてくださった。
本当に良かったね。
助かったね。
君は幸運なんだ。きっとこれからも上手く行くよ、我が姫。
皆に…言われた。
ずっとそれから…違和感を持って生きてきた。
私もそうだが、なるように、倣うようにしか動かない人々に」
俺は、アリアーデ様の回顧録を神妙な気持ちで聞いていた。
わからなかったんだ。
なんで俺にこんな事を話すのか。
「そして…お前を見つけた」
それは、今まで見せていた人形のような固い表情ではなかった。どこか少女のようなはにかみが在った。造られた顔ではなかった。
「お前はどこから来た?」
二度同じ言葉を問いたその口から、真っ赤な血がこぼれた。それは水音がするほど大量だった。
それでも彼女は言葉を紡いだ。
「…きっと自由で…素晴らしい…所なのだろう」
磔にされてはいるが、いきなりの事に俺は何もできなかった。
そこまで言うと不意にアリアーデ様は崩れ落ち、膝をついた。銀の鎧が軋み、不快な金属音を立てる。
アリアーデ様は俯き目を伏せ、こぼれ出た血を拭った。
なんとか身を起こそうとして、俺の膝の辺りを掴んだ。
「お前は…あの村人を助けるために出て…きた。そうだろ……。
…あんな…キテレツな方法で人を助ける奴は、この世界には…いない」
俺に、美しい笑顔を向けるが、アリアーデ様は力を失っていた。彼女はもう立ち上がることができなかった。グラグラと揺れ、地に伏せてしまわない為に両手を地面についた。
身体を大きく震わせ、呼吸を整えている。
この娘の身体に、一体何が起きているのか。
「…おい?」
彼女は地に手をついたまま上を向いた。何かが終わってしまった。そんな諦めの微笑を見せた。そして体をひねる。
左手に体重をかけ、右手を背に回した。
戻った手には、抜き身の小さなナイフが握られていた。
その腕を一杯に伸ばすと、柵と繋がっていた俺の右手の縄を切った。
「道連れは…冗談だ。このまま私が死ぬと、冗談にならない…からな」
俺は、柄を向けられたナイフを彼女から受け取った。
やっぱり、これの為に帰って来たんだ。
アリアーデ様の、座り込んだ辺りの土は大きく色を変えていた。血だ。どうやらこの娘は、重傷を負っている。
俺はここでは躊躇しなかった。
素早く左手の縄を切り、異次元収納からポーションを三本取り出す。手持ちはこれで全部だ。栓を抜いてアリアーデ様に振りかけた。
驚いた顔で、見上げるアリアーデ様に構わず、全量かけた。
ポーションは傷薬ではなく、治療魔法だ。異常箇所に再生の奇跡が起きる。辺りから光が集まるように癒しが始まる。
だが、アリアーデ様はあまり光らなかった。
ただ水分だけが蒸発し、空中に消えていく。魔法の効果が散って行く。もう遅い、遅かったようだ。
致命の一撃を受けているのだろう。
彼女の身体に再生を阻むものがある。身体の破壊が致命的だったり、失われている場合、この程度のポーションでは治らない。
「無駄にさせたな…この怪我を負った時から効かなかった。私はもう…助からない」
少し驚いた表情を残したまま、彼女は呟いた。
彼女は、左の脇のあたりを抑える。鎧が酷く破壊されている所だ。
自分が助からないとわかっていたのか。だからエナンを行かせたんだ。ポーションも無駄にさせずに。
「しかし、わからないな。お前は私を随分と…憎んでくれていたのではないか?」
俺は何も答えなかった。こいつは死ぬ。間違いなくもう少しで。
「しかし、それがお前の秘めた力か、一体どこから取り出した…初めて見たぞ。
やはり…只者ではなかったな。顔色が…いいわけだ。おまえはなんで…」
俺は、未だにどうしていいのかわからなかった。
屈むか、座るかの決断さえできず、中途半端な姿勢でいた。
アリアーデ様は俺を見上げ、彼女らしい僅かな笑顔を見せるが、首に、背中に込められた力が徐々に抜けていくのか、下を向いてしまった。
手をつき、そのまま地面に倒れた。
いや、倒れはしなかった。彼女はもう一度体を起こした。
もう立ち上がれはしなかったが、手放していた爆砕石を拾うと柵に背を預け、足を投げ出し上を向いた。
「私は……お前に…奔放なお前の自由に…憧れてしまった」
「アリアーデ…」
「お前の無礼を許そう。もう…行くがいい」
アリアーデが左手を挙げて、方向を指し示した。剥き出しの白い肌は気づけば血で真っ赤に染まっていた。
「あの木の下まで…逃げろ。
私が、マカンを見事吹き飛ばすのを…見ておれ。
もし、気が向いたら、エナンたちに、私の領民たちに…様子を語ってやってくれ」
助力を乞う様は、まるでなかった。彼女は決然としている。もはや何の迷いもない。絵本の中に存在して然るべき乙女に、そんな瞳を見せられてしまった。
ここで俺にできる事は何もない。未だに気を張っているだろう、この気高く、気丈な娘の言う通りにしようと思う。
俺は足を踏み出した。
「そうだ、お前の名を…聞いておこう」
「トキオだ」
「トキオ、さらばだ」
俺は、なるべく振り向かないように丘を降りた。
大木の根元まで行ってアリアーデを振り返る。目が霞んでしまって、うまくその姿が見えなかった。
気づくと遠く土煙が上がっていた。城に迫る大群がある。
足並みを揃えて進行する、その行軍は誰が見ても勝者のものだった。
目の前に立てば踏みつぶされるだろう。だが、誰も止める者はいない。下卑た嬌声をあげるでもなく、彼らは粛々と近づいて来る。
西から東から、馬群は集まり重なって向かって来た。畑を縦断し。草原を踏みつけ城に迫る。
その数は百を優に越えていた。
俺ならこの不愉快な行軍を、彼らを一撃で消し去る手がある。
だが俺は彼女を待った。
でも、彼女はうまく出来なかった。
途中で力尽きたか、込めるはずの生命力がまるで足りなかったのだろう。
敵兵団の一部が列を離れ、あのまま柵にもたれている彼女を見つけて取り囲んだ。
あの石を握っているだろう右手は、もう上がらなかった。
馬を降りて、彼女の鎧を剥ぎ取ろうとする奴がいる。寄って集って、次々に馬を降り、その作業に手を貸す兵隊達。
俺がたまらず木陰から飛び出すと。騎馬が側方から飛び出して来て、追い抜いていった。灰色のブチ馬だ。彼は抜剣して叫びを上げる。
「アリアーデ様―――――!」
エナンだった。
控えていたリッチランの兵士が気付き、迎え撃つ陣形をとる。
エナン…残念な奴のくせに…。金髪騎士を乗せた白馬が姫の危機に駆けて行く。
これ以上、おまえの恰好いい所は見たくないし、アリアーデの命が少しでも残っているうちに…。
俺は、俺の持つ究極の呪文を発動した。
『リバース!』
ごっそりと魔力が吸い込まれ、瞬間に暗転する。俺の全てが暗闇に包まれた。
時の回廊に入る。自分の存在が小さくなったり、大きくなったり、塵になって消えていくように感じる。
そして、印象的な時の断片が虚空に砕け散っていく。もう二度と会えないかもしれない、思い出のかけらだ。
鞭を差し向けるアリアーデ。
舞い降りるカラス。
行商の手伝いの女の子。
顎が梅干になったエナン。
隣に肩を並べたアリアーデ。
何もかもが光の粒に変わり、闇に小さく消え去り、真の暗闇と化した回廊の中で、最後に彼女の声だけが残った。
『お前はどこから来た』
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