第14話

 ミドウ領の山岳地帯、雲がぷかぷかと浮かんでのどかな風景だった。


 「下がれ、下郎!」


 鞭を持った白い手が伸ばされた。

 一度も、仕事をしたことがないと思われる、くすみのない貴族の女の手だ。


 どこまでも白く、手の甲には、薄っすらと青く見える血管が透けていた。


 鞭先を眼前に向けられ、それを防ぐように上げられたのは男の手だ。

 日に焼け、節くれだち、皮の厚くなった中年男の手だった。


 この村人は、この先の崖沿いの小道が、危険な状態であることを知らせるために彼女の前に飛び出していた。


 突然、物陰から飛び出した男に、馬が驚き立ち上がったが、貴族のお嬢様は卓越した技術を見せ、落馬を逃れた。

 お嬢様は、馬を降り、首を撫でて黒馬を落ち着かせると、顔を怒りに染めて振り返り、男に乗馬鞭を向けたんだ。


 いや、怒りに染まっていると思ったのは俺の間違いだった。

 そうだろうと思って描写したがそうじゃなかった。彼女は冷静だった。人形のように感情なく男を見据えていた。


 白に近い銀色の髪、同じく白に近い銀色の眼、この世のものと思えない神聖な迫力が、彼女にはあった。

 およそ、人の心があるものに見えない銀色の瞳が、己を汚した不信心者を視線で射殺そうとしている。そんな風に見えた。


 村人の男は、一瞬で飲まれてしまったようだ。竦んでしまって言葉も出ない。



 『だから放っておけと言ったのに…』

 俺はその場所から、少し上がった丘で腹ばいに寝そべり様子を覗いていた。

 ここで一人ランチしていたのだ。

 見晴らし良く、下草が生い茂り、いい感じだったからだ。


 そこへ、通りかかった気の良い村人が、話しかけて来たんだ。

 旅人さんかい、珍しいなー。この先、だいぶ路肩が弱くなっているさー。さっきも路面が崩れ落ちたさ。通るなら気いつけてなー。

 なんてことを言っていた。

 現世でも前世でもよくいた、毒のない普通のおっさんだった。


 そこに馬が駆けて来た。乗っていた人物の服装は、コントラストの高い物だった。それで貴族だとわかった。

 この世界の住民の服装は。大概茶色だ。白い服も黒い服も、少し薄汚れて茶色く見える。コントラストが曖昧だ。


 彼女の護衛の兵士が追いつき馬を降りる。そいつは金髪が風に踊る、若いイケメンだった。絵に描いたような奴だ。

 その後も続々と彼女の従者が追いつき、小道に続く崖の小さなテラスは馬と人で一杯になった。

 側面は山、もう片方は谷底。間口が狭いので、後続の従者たちは後ろから三人を見ているしかなかった。


 「アリアーデ様、ご無事ですか。だからあまり先行されないようにと…」


 お嬢様はアリアーデ様というらしい。

 金髪イケメン兵士が、おっさんとアリアーデ様の間に入ろうとするが、アリアーデは手で遮り、視線を向けそれを防いだ。


 「エナン、私を小娘と一緒にするな。私がこのくらいの不埒者の対処もできないとでも?」


 アリアーデ様は一八、一九といった年頃。

 髪は肩にかからないぐらい。少し癖がありウエーブがかかっている。首が時々見えるくらいの長さのプラチナブロンドだ。


 前述の通り、人形のように感情が見えないが、美人ではあると思う。

 話し方にも感情がなく、まるで抑揚がない。おっさんを脅した時も、エナンをたしなめた時も同じ調子だ。


 アリアーデ様は、まるでこの世に恐れるものなどないように、一歩二歩と進み、村人のおっさんの鼻先に乗馬鞭を突きつける。


 気の良いおっさんは、状況にすっかり怯えてしまっているようで、未だに声が出ない。アリアーデ様に気圧され、なにをか口籠もりながら、崖のほうに追い詰められる。


 「私をアリアーデ・リュミエール・ディランドと知っての狼藉か。

 それとも、たまたま馬に乗っていた、そこらの小娘とでも思ったか。

 なにが目的か。お前が、なにをしたかったのか。

 さあ、やりたかった事を続けてみよ」


 あまり口を開けない静かで淡々とした口調だが、澄み切ったその声は不思議なくらい良く通った。隠れた俺の所にもはっきり聞こえる。


 私の馬を脅かした貴様を死刑に処す。申し開きはあるか。

 最後に言葉を聞いてやろう。

 俺には、何故かそんな最後通牒に聞こえていた。全然違うのだが。


 銀色の睫毛に縁どられた、銀の瞳に射殺されたおっさんが、辛うじて声をひねり出す。

 「いや…あのう…」


 その時、おっさんの足元で、岩がごっそり剥がれ、谷底に落ちた。

 谷は深い。奈落に落ちていくように音がなかった。それは、近くだったおっさんか、上から見ていた俺でなければ気づかなかっただろう。


 気の良いおっさんは鞭先を恐れず、アリアーデに襲いかかった。

 うん、俺以外にはどう見てもそう見えただろう。


 きっと彼は、アリアーデ様が危ないとでも思ったのだろう。

 自分より彼女を心配したのだろう。

 大分、贔屓目で見てやれば。


 アリアーデ様は素早く身をかわすが、彼女を危険から遠ざけようとする、そんな力を持ったおっさんの手は、彼女の太腿をかすめてしまった。

 

 黒い乗馬服に、土でつけられた手の跡が、しっかりとついていた。それを見たアリアーデ様は切れた。


 目標を見失い、倒れていたおっさんを、乗馬鞭で滅多打ちにする。右に左に、鞭先を交差させ、無数のXを刻み、おっさんの首や背中を打ち据える。救いは気の良いおっさんが一瞬で気絶した事だろう。


 『だから言ったのに…』

 仕方ない、後で治癒を奢ってやろう。俺は彼女らの視界に、決して入らないように地に伏せた。本当に貴族に関わるのは面倒だ。


 「汚らわしい、この下郎が」

 言葉は荒々しいが、彼女の表情は変わってなかった。声の様子も変わらない。人形のままだ。この娘、心をどこに置いてきたんだろう。

 従者達はドン引きなのか、いつものことなのか、皆一歩も動かない。いや、エナンとかいうイケメン兵士が近づいてきた。

 「この下司が!アリアーデ様に一体、何をしようとした!」


 厚い革製のブーツでおっさんの腹を蹴り上げる。

 腹はよせよ。死にじゃうだろ。

 

 ドカ、ボス、ガス、ドス…ドカ……。

 イケメンは執拗だった。


 おいおい…。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る