第一章 残酷な冬⑤

               *


 額を二針縫い終えたころには、日付が変わろうとしていた。

「お父さんがお迎えに来られるそうですので、受付前でお待ちください」

 薄暗い待合室の椅子に腰を下ろし、雪音は外を見やる。ロビーはガラス張りで、鏡のように自分の姿を映し出していた。

(頭に包帯、頰にガーゼ、服はジャージ……なんだか体育祭みたいだな)

 無理やり楽しそうなことを考えてみるけれど、くすりとも笑えなかった。

(……もう、限界かもしれない)

 父はほんの数時間の処置の間も、付き添ってはくれなかった。雪音との接触を、とにかく避けたい一心なのだろう。

 母は自宅にいる。一人にしておける状態ではないと、柊悟が嫌々付き添っている。父に殴られ、赤く腫れ上がった頰を自分で手当てしながら。

(全部、私のせいだ)

 早梅。あの得体の知れない人物を、不用意に招き入れてしまったから。何の力にもなれなかったから。

 あの日からずっと、後悔ばかりがこみ上げる。

(私がこの家にいたら、もっと色々なものが、駄目になってしまうんじゃないかな)

 雪音は六出神社の跡取りだった。高校生になったら祖母について修行をして、縁切りの術を覚えて、先祖代々の伝統を受け継いでいくつもりだった。

 だがもう、そんなのはかなわない夢物語なのではないか。これ以上泥沼に沈まないために、家族を守るために、自分がどうしたらいいのか分からない。

 気づけばうつむいていた。月のない夜。表に積もった雪が、ぼんやりと足元を照らしている。

「ずいぶんやつれたな」

 ふと、雪明かりが遮られた。どこかで聞いたことがある声が、雪音の頭上から降ってくる。

「久しぶり」

 ゆっくりと顔を上げると、あの日雪音を助けてくれた青年が立っていた。

 今度は着物ではなく、詰襟の制服をきっちり着込んでいる。

「……御景藤矢、さん」

 思わず名前を呼んでしまったが、雪音はハッとして口元を覆う。

「どうかした?」

「……父に、あなたのことは忘れるようにと」

「何故?」

「……分かりません」

「分からないのに従うのか?」

「分からないですけど……納得しているので」

 雪音の答えに、藤矢は顔をしかめる。雪音は思わず頭を下げた。

「ごめんなさい」

「どうして謝った」

「……本当はもっと早く、命を救っていただいたお礼を伝えなくちゃいけなかったのに」

「そんなものはどうだっていい」

 藤矢は強く言いながらひざを折った。そのまま雪音の前にひざまずき、顔をのぞき込んでくる。

「父親に突き飛ばされたらしいな」

 のどがひゅっと鳴った。つい取り乱してしまう。万が一にも、父を悪人にするわけにはいかなかった。

「ちっ、違います、私が勝手に転んで……!」

「医師にはそう説明するはずだと、ここに来る前に、弟君から聞いたが」

「……柊悟、に……?」

 藤矢は雪音を訪ねて、まず六出神社に向かったという。既に雪音は負傷して病院に向かっていたため、藤矢は処置が終わるのを待っていたらしい。

「今日は新月だ。本来であれば、六出神社は月次祭の日だろう」

「あ……はい。よくご存知ですね」

「本来であれば、俺もさんけいする予定だったから……いや、この話は後だな」

 藤矢が話題を切り上げて、雪音の額に手を伸ばす。指先は包帯の表面に、触れるか触れないかというところで止まった。

「痛みは?」

「……ありません。麻酔が効いていて」

「そうか。痛かったか?」

「え……」

「傷を負ったとき。痛かったか?」

 どうしてそんなことを聞かれるのか、雪音はよく分からなかった。戸惑いながらも、数時間前のことを思い出してみる。

「……大したことはなかったです」

「本当に?」

「はい。本当に……全然」

「そうか。こちらは?」

 藤矢の手のひらが、そのまま頰を包み込む。ガラスの破片で切った傷のことを聞いているのだろう。

「こっちもです。ほんと、浅い傷なんです」

「大抵の親は、自分の子どもにどんな傷もつけないものだよ」

「……わざとではないので」

「では謝罪は受けたか?」

「…………」

「……悪い。尋問をするつもりはなかった」

 藤矢が目を伏せる。長いまつが、陶器のような肌に影を落としていた。

れいな人……それに神様と戦えるような、不思議で強い力も持ってる……)

 暗い病院で、藤矢はやけにまぶしく見えた。新月の夜なのに、ここにだけ月が昇っているようだとさえ思う。

「雪音。今、ひどく困っているだろう」

「……はい」

「俺は君に、いくつかの解決策を提示してやれる。だがそれを受け入れるかどうかは君次第だ。君が決めていい」

 藤矢の手が、頰から離れる。そうして今度は、雪音の両手を強く握った。

「ただし、これだけは忘れないでほしい」

 湖面のように澄んだ藤矢のひとみに、吸い込まれそうな気分になる。

「君は悪くない。君には一切の責任がない。たとえ原因や起因が思い当たったとしても、それは責任と同義ではないから、どうか、罪悪感でつぶされないでくれ」

「……!」

 息が止まるかと思った。胸が苦しくなった。

 甘い言葉だった。すがり付きたくなるほど甘い言葉。

 自分で自分を、浅ましいなと思う。

 自分のせいなのに、それでも、君のせいではないと言われれば心が軽くなってしまう。謝罪を受け入れてもらえたような、罪が軽くなったような勘違いをしてしまう。

「……私のせいです」

「雪音」

「でも、だから、私がどうにかしなくちゃいけなくて」

「…………」

「でももうずっと、どうしたらいいか分からないんです」

 藤矢のおかげで、一瞬だけ心が軽くなった。ずっと俯いていた顔を、どうにか上げられるくらいには。

 解決策がほしい。どんなものでもいい。傷ついた家族を守る方法が、大切な神社を立て直す方法が知りたい。

「私に出来ることなら、何だってします」

「……本当に?」

「はい。だから力を貸してくれませんか……」

 声は震えていた。それを少しでも誤魔化したくて、藤矢の手を強く握り返す。

 そんな雪音をどうとらえたのか、藤矢の目が三日月のように細くなる。

 微笑んでいるようにも、吟味しているようにも、何かをこらえているようにも見える。捉えどころのない表情だった。

「喜んで」

 クラクションの音が鳴り響く。駐車場から照らされるヘッドライトで、二人の影が長く伸びた。


               *


 スタッドレスタイヤを完備した四駆車が、裏道をすいすいと走っていく。

「ごめんねえ、待たせて。あ、俺のこと覚えてる?」

「燕さん……ですよね」

「そう! わたり燕です。よろしく~」

 病院まで迎えに来てくれたのは、父ではなく燕だった。

 先日の襲撃の際、藤矢と共に雪音を助けてくれた青年である。

「俺は御景神社のだんなんだ。男巫って分かる? さんの男性バージョン」

「はい。その節は大変お世話に……」

「ああー、気にしないで。俺にはそういう堅苦しい態度取らなくていいよ!」

 燕は軽い口調で言いながら、バックミラー越しに、後部座席の雪音に微笑みかける。

「藤矢くん、少しは話せたんでしょ? 何か気の利いたことは言えた?」

「建設的な話をしたよ」

「ええー、何それ? まずは場を温めてからでしょうが」

「なら燕が手本を見せてくれ。まずこの場を南国のように温めて。ほら」

「うーわ。いっきに話しにくくなった」

 助手席と運転席で、軽い調子で言い合う二人。雪音はせんぼうが湧き上がってくる。

(仲良いなあ……友達なのかな……?)

 くだんの襲撃以来、雪音の友人関係はぷっつりと途絶えてしまった。柊悟の様子から察するに、学校の間でも噂が飛び交っているようだし、これまで通りの関係は望めないかもしれない。

 車窓を流れていく、山の雪道。遠くにぽつりぽつりとともっている明かりには、仲が良かった友達の家もたくさんある。

「そろそろ着くよー。神社の方に回すね」

 ハッと気づけば、車は自宅付近のY字路にいた。左へ進めば綿本家の母屋に近く、右に進めば六出神社の駐車場に近い。

「え……でも今、境内は入れなくて……」

「ご両親に許可は取ってある」

「えっ」

「許可っていうか、問答無用の決定事項の通達って感じだったけどね」

「えっ」

「ま、ま、ま。その辺りの事情もお話しさせて」

 車が停まる。燕は素早く運転席を降りて、後部座席のドアを開き、雪音に手を差し出してくれた。

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