第一章 残酷な冬④
*
雪音が次に目を覚ましたとき、初めに自室の天井が見えた。続いてカーテン。ベッド。パジャマ。いつも通りの見慣れた景色に、一瞬だけ「悪い夢だったのかもしれない」と思った。
ヒーターの温風。加湿器の稼働音。壁時計は七時を示しているが、夜なのか朝なのかも分からなかった。
「……え?」
慌てて飛び起きると、頭がくらくらした。体が火照っており、どうやら発熱しているらしいと気づく。
だがそのままベッドに戻ることは出来なかった。慌てて窓を開け、身を乗り出す。こうすれば六出神社の境内が見えるはずなのだ。
「……っ、夢じゃ、ない……」
時刻は夜。暗闇の中に、ぼろぼろの境内が見える。参道の石畳は割れ、
凍える夜風に吹かれながら、雪音はその場にへたり込んだ。意識を失う直前までの光景が、頭の中を
そこに控え目なノック音が響いた。雪音の返事を待たずに入ってきたのは、弟の柊悟だった。
「姉ちゃん、起きたの!?」
柊悟は冷却シートやペットボトルの載ったトレーを放り出し、雪音に駆け寄ってくる。
現在中学一年生の柊悟は、既に雪音より背が高い。さっと雪音の体を支え、ベッドに腰を下ろさせてくれた。
「よかった、意識が戻って……三日も目ぇ覚まさなくて……ずっと熱があって……よか、よかった……」
「柊悟……」
安心して涙ぐんでいる弟を前に、本当なら言うべきことはたくさんある。看病してくれてありがとう。心配かけてごめんね。
だが聞きたいこともたくさんあり過ぎて、頭の中で言葉が洪水を起こしている。
三日? あのおぞましい出来事から、既に三日が経過している?
「その格好って、お葬式……?」
声も唇も震えてしまった。柊悟は喪服を
「おばあちゃんの……?」
柊悟の
「……さっき、火葬場から、帰ってきた」
「……っ」
雪音はいても立ってもいられなくなり、パジャマ姿のまま部屋を飛び出そうとする。
「ダメだ、姉ちゃん!」
慌てた柊悟が、腕を引いて引き留めてこなければ、そのまま自宅内の祭壇を目指すつもりだった。
「姉ちゃん! 部屋にいてよ、安静にしてて!」
「大丈夫だから! おばあちゃんに会わせて……っ」
「会わせられない!」
柊悟の語調が強くなる。先ほど堪えたはずの涙が、静かに流れ落ちていた。
「姉ちゃんはばあちゃんに、会わせられないんだ……」
「ど、うして……」
柊悟はもう何も言えないらしい。雪音の腕を
「そんなの、雪音が一番分かってるだろ?」
気づけば部屋の入り口に、喪服姿の父が立っていた。電灯の消えた薄暗い廊下から、
「部屋で大人しくしていなさい」
「お父さん……でも、私……」
「事情はすべて聞いたよ」
雪音は体をびくりとさせ、食い下がるのを止めた。
(私には……おばあちゃんに会う資格がないんだ)
押し黙った雪音に、父は静かに背を向ける。
「休みなさい。まだ熱も下がっていないんだ」
「……はい」
視線を落とし、
「姉ちゃん、行こ」
「……ねえ、柊悟。あの人たちはどうなったの?」
「え、誰?」
「私を助けてくれた人たち。藤矢さんと、燕さん」
柊悟は
「雪音」
父は雪音を振り返ることなく言った。
「あの人たちのことは忘れるように。二度とその名前を口にするな」
*
それからおよそ半月。雪音の生活は一変してしまった。
家からはほとんど出ていない。ほとんどを自室に閉じこもって過ごした。
柊悟が
神道では、死を
祖母の死因は急病、ということになっている。だが急逝と同時に六出神社が封鎖されたこともあり、あれこれ噂が出回って、
(月次祭も突然中止になっちゃったし、みんなが不安になるのは仕方ない……)
そしてあの日以来、両親との関係も変わってしまった。
初めに折れたのは母だった。雪音の顔を見るだけで、
次いで父も雪音を避けるようになった。雪音の足音に聞き耳を立て、遭遇しないように身を隠す。
その上父は、雪音が家から出ることを禁じ、登校を禁じ、スマホを没収して連絡も禁じた。
「六出神社の惨状を、外部に知られるわけにはいかない……」
時折父は、何かに取り憑かれたように
変わらず接してくれるのは弟だけだった。彼との他愛ない会話が、雪音にとっての何よりの
だが柊悟にとって、現状は決して良いものではない。彼を取り巻く家庭環境は最悪なのだ。
「柊悟! アレの部屋に入り浸るのは辞めろ!」
「アレってなんだよ! 姉ちゃんだよ! あんたらの娘!」
「やめて! アレは呪われているの!
こんな言い争いがたびたび聞こえてくるようになった。雪音を遠ざける両親と、それに不満を呈する柊悟の関係が悪化しているのだ。
ある新月の夜のこと。
階下から激しい口論が聞こえてきて、雪音は肩を震わせた。
(柊悟とお父さん……最近よくあるけど……)
雪音が間に入れば両親を強制的に止めることは出来るものの、彼らの振る舞いが柊悟には火に油となる。
(……長いな。それに、いつもより激しい)
言い争う声のボリュームが、一際大きいのだ。雪音の部屋からでは、耳を澄ませても詳細は聞き取れないけれど。
(お母さんの声もするから……どうしよう、止まらないかも……)
このところの母は危うい。父と弟がケンカをして母が金切り声を上げ、
(……っ、今、何か壊れるような音がした!)
とうとう我慢出来なくなって、雪音は部屋を飛び出した。転がるように階段を下り、音がした居間の引き戸を開ける。
「~~っ、柊悟! お父さん!」
父と弟が取っ組みあっている。母は青ざめて壁際にへたり込んでおり、その足元には割れた花瓶。先ほどの破壊音はこれだろう。
「やめて、やめてよ……!」
父と弟に割って入ろうとするが、上背のある男二人だ。雪音が腕だの肩だのを引っぱったところで、両者共にぴくりともしない。
「お前は出ていけ! 誰のせいだと思ってるんだ!」
父から鋭い怒号をぶつけられ、思わず
「と、とにかく手を……」
「姉ちゃんのせいにしてんじゃねーよビビリ野郎!」
柊悟が負けじと言いかえし、父の胸元を摑み上げる。弟は身長が高いだけではなく、運動部で鍛えているため力も強い。父は「うっ」と苦しげな声を上げた。
「柊悟、ダメ! 放して!」
「いいんだよ、先に手ぇ出してきたのコイツだから!」
柊悟は頭に血が昇っているらしく、雪音の方を見ようともしない。だがその頰が赤く
「怪我の、怪我の手当てをしよう? お姉ちゃんが話聞くから、ね」
「話!? なんの!?」
そうして柊悟は、やっと雪音の方を見た。その瞳は憎しみに満ちている。
「俺のことなだめてどうすんだよ! 姉ちゃん悔しくねーの!?」
父から手を放し、そのまま雪音の両肩を強く摑み揺さぶった。
(痛い……ダメだ、柊悟も全然冷静じゃない)
母をちらりと見やるが、彼女はこちらを見てもいない。花瓶の破片の前で涙をぼろぼろ流しながら、「禍津神のせいよ」「禍津神が入って来たから」「逃げなきゃ」「逃げなきゃ」とぶつぶつひとりごちていて、こちらはこちらで早く手を貸さなくてはならない。
「柊悟、落ち着いて」
「娘一人に責任押し付けて虐待してんだぞ!?」
「虐待なんて、そんな」
「虐待だよ! 軟禁! ネグレクト! 通報してやろうか、ああ!?」
どうしよう。どうすればいいのだろう。悔しげに雪音を揺さぶってくる弟。放心する母。そして、
「子どもに何が分かる!」
「~~っ、やめて!」
「触るなあッ」
「う……っ」
雪音の体が
「姉ちゃん!」
ハッと我に返った柊悟が駆け寄って来ようとするのを、雪音は必死で止めた。割れたガラスがあちこちに飛び散っているのだ。
「ダメ! 危ないから……!」
「でも、血が」
「大丈夫、ちょっとだし」
「バカ! 全然ちょっとじゃねえよ!」
柊悟に指摘されたのと、額にぬるりとした感触があったのはほぼ同時だった。やや遅れて、頭に鈍痛がくる。
額を茶簞笥の取っ手にぶつけていたのだ。金属の装飾部分。
(あ、ちょっとまずいかも……)
皮膚がぱっくり裂けている。片手で患部を押さえても、血が止まらない。そのまま父の車に乗り、夜間の救急外来へ向かった。
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