第一章 残酷な冬③
青年の指先が揺れ、山が
青年の視線が、境内を
空気が根こそぎ奪われたように、息苦しくなった。
一方的だった。青年の合図ひとつで、透明な獣が暴れ回っているよう。
六出神社が
「おばあちゃん」
青年の乱暴な腕が、祖母の頭を
祖母はくぐもった短い悲鳴を上げ、動かなくなった。雪上に真っ赤な血が散る。脱力した体は、無造作に投げ出され
「おばあちゃん……」
雪音の視界が、涙でぼやける。ずるずると体を這わせて、祖母の側に近づこうとしたが、青年に立ち
「雪音。あなたのおかげです」
「私の……?」
「はい、助かりましたよ。六出の神域に、雪音がおれを招いてくれたおかげです」
途端、あのときの脳内に呼び起こされる。
──入ってもいいですか?
──どうぞ、お入りください!
しめ縄の道切り。道祖神の石碑。悪しきものは立ち入れないはずの、あの六出神社の入り口で、雪音は確かにそう返した。
あれが許可だったのだ。合図。雪音が彼を、神社の中に、招き入れたことになる。
「……私、が……」
声が震える。絶望で頭が真っ白になる。
「ありがとうございました」
噓偽りのない言葉が向けられる。青年は
「不在の家族は、後日別の者が始末すると思います。あなた方以外は、大した力もなさそうですけど」
「やっ、やめて! 家族をこれ以上、傷つけないで!」
「それはおれに祈っても無駄ですよ」
雪音の首を、青年の片手が
(……死ぬんだ)
寒い。苦しい。指がかじかんで痛い。皮膚を北風が
(私のせいで、みんな、死ぬんだ)
怖い。
「だれか……」
どうしたらいい?
「誰か助けて……」
──誰かが
鋭い
そして突風。粉雪が舞い上がって、辺りを真っ白に染める。激しいのに、不思議と優しい風だった。
「え……」
雪音は思わず目を
「生きてるか?」
反射的に縮こまるが、衝撃のひとつもなく、そのまま優しく、誰かの腕に抱き留められる。
「げほっ、げほ」
「ゆっくり、深く息を吸って」
「げほ、っう、はぁ……っ」
優しい手付きで、背中を
「よし。生きてる」
半ば独り言のようだ。その飾り気のない言い方に、無性に安心してしまう。
(誰……?)
ようやく目を開き、介抱してくれている相手を見やることができた。
見覚えのない、雪音と同じ年頃の青年。大きく形の良い
端整な顔を
「……間に合わなかったな。ごめん」
謝られる筋合いはない。雪音は
(私なのに。取り返しがつかないことをしたのは、私で……)
崩壊した境内。祖母の遺体が転がっている。涙が
「もう大丈夫だ」
雪音の涙を
「何も心配しなくていい。あとは全部、俺に任せて」
この場に不釣り合いなほど、優しくて穏やかな声。
だがその温かな言葉と同時に、鼓膜をつんざくような、激しい破裂音が鳴った。
「きゃ……!」
衝撃はない。彼が再び雪音を抱き寄せ、片手を掲げる。離れた場所から攻撃され、それを片手で防いだような。
「さすがにしぶといな……」
胸板に顔を押し付けられているせいで、雪音には何も見えない。それでも今しがたの攻撃が、あの謎の青年によるものだというのは明らかだ。
「あ、あの」
「もう立てる?」
押さえられていた後頭部が解放された。
「綿本雪音だね」
「は、はい」
「俺は
藤矢が拝殿を見やり、雪音もそれに倣う。あの青年が
(この人がやったの……?)
信じ難い気持ちで、二人を交互に見る。藤矢は武器の
「……っ、待ってください!」
「うん?」
「血、血が……!」
そのまま立ち向かおうとする藤矢の
藤矢は腕から出血していた。頰にも一筋の血が流れており、どうやら額を切っているらしかった。はたはたと、白い積雪に鮮血が落ちる。
「さっき、私をかばったときに……!」
「ああ」
青ざめる雪音を前に、藤矢は平然としている。
「なんてことない」
「そんなはずないじゃないですか……!」
雪音は袖口から手を放すことなく、むしろ力を入れた。
「手当てを……っ、すぐ手当てをしましょう。血が出て、痛い、危ないです」
気が動転している自覚はあった。それでも、倒れ動かなくなった祖母の姿が、目に焼き付いて離れない。彼をこのまま送り出せば、同じ目に遭うようで恐ろしい。
雪音の震える指先を、藤矢がそっと包み込む。
「……終わったら頼むよ」
「あ」
こわばった指先の力が抜ける。自然と指先を離せた。
危機的な状況は変わらず、不安な気持ちは消えないが、心の
一方の青年は、気だるげに頭をがりがり
「あーあ……御景がここで出しゃばるとは……面倒なことになりました……」
「【
だが藤矢にそう叫び呼ばれ、青年がぴくりと肩を揺らした。
「……勝手に呼ばないでくださいよ」
「名と認識しているなら幸いだ。
青年の──早梅の
(早梅……あの人の名前? 禍津神って……神様なの……?)
藤矢が何かしらの策を講じている。それでも神を押さえつけるには足りないらしい。
「──やれ」
藤矢の声を合図に、突如拝殿の屋根から人影が飛び降りてきて、そのまま早梅に襲い掛かった。
長い三つ編みの青年だった。両手に
「藤矢くん、どうする!?」
青年が叫ぶ。背が高く、肩幅が広い。金糸で昇り
「捕縛しろ」
「いやいや無茶言わないでよ! 今にも腕食いちぎられそうなんだけど!」
「分かった、拷問する。そのまま押さえておけよ、
燕。そう呼ばれた青年が苦しげに
「早くして! しんどくて死にそう!」
「もう誰も死なせないよ」
藤矢はおもむろに二人に近づいて、一本の扇子を取り出す。手早く広げて、早梅の目元を覆った。
(あ、また)
超能力や魔法のような、見知らぬ現象が次々に巻き起こる。雪音は理解が追い付かない。それでも、目だけはしっかり見開いておいた。
「【どこから来た?】」
「…………」
沈黙が続く。早梅は沈黙したまま、灯籠に爪を食い込ませる。石造りの灯籠はみしみしと音を立てひびが入っていく。圧倒的な力と、抵抗だった。
しかしほどなくして、その
「……■■」
彼が何を言っているのか、雪音には分からない。
「【御景家を呪っているのはお前か?】」
「■■」
「【誰の指示で】」
「■■■、御■神■の■■■■」
「【仲間は何人いる】」
「■■」
声が不気味に響く。ほとんどが聞き取れなかった。音量の問題ではない。外国語のような、鳥の
「【次はどこを狙う】」
「■■■」
「【殺せなかったらどうするつもりだ】」
「■■■■■■■」
藤矢は苦々しい表情を浮かべている。どうやら早梅を無理やり
その上、思うような回答は得られていないようだ。早梅の紡ぐ言葉は、藤矢たちにとっても得体が知れないものらしく、似たような質問を、言い回しを変えて繰り返したりもする。
やがて冷や汗を垂らした燕が「そろそろヤバい」と
(……強い人たちだ)
雪音は直感した。面識も見覚えもないが、彼らは早梅と戦える「強さ」を持っている。
(この人たちは、あの神様を……早梅をどうするつもりなの?)
殺すのか。殺せるのだろうか。
神様を、神職者が殺す。何のために? 六出神社を踏み荒らし、雪音の祖母を殺したから? では早梅は、何のためにそんなことをした?
(私は彼を、どうしてほしい?)
弱りきった今なら、自分でも手を下せるのだろうか。
「っ、おい! 近づくな!」
藤矢の叫びが、雪音の体を素通りしていく。
「ねえ」
ほとんど無意識のうちに、早梅の側にしゃがみ、その顔を
「返してよ」
早梅がうっそりと
「おばあちゃんを返して」
「…………」
「戻して。全部、今すぐ。元通りに」
「……はは」
乾いた笑い声が響いた。早梅がすうっと目を細め、雪音に手を伸ばそうとする。
「こういうのが、おれも欲しいな……」
腕は上がったが、手首はいよいよおかしな方向に折れ曲がっており、頰に触れる前に崩れ落ちた。
「彼女に触るな」
低い
「……たかが神職風情が」
早梅はそう吐き捨て、姿を消した。どんな手を使ったのか、一瞬のうちに鳥居の上に移動して、今は雪音たちを見下ろしている。
「逃げられるね。藤矢くん、どうする?」
「追うなよ。勝ち目は薄い」
そうは言いながらも、藤矢も燕も武器から手を離さない。早梅から漂う邪悪の気配は、全身が多少傷つこうとも、まるで消えていないからだろう。
「雪音」
不吉な声が、雪音を呼ぶ。
「おれは疲れました。しばらく眠ります」
「…………」
「だから、大人しく待っていてください」
「待つ……?」
「おれがあなたを迎えにくるのを」
巻きっぱなしのマフラーを指差し、早梅は微笑んだ。次の約束をする、友達同士のような仕草で。
「その日まで、これは借りておきますね」
そうして次の瞬間には、今度こそ本当に姿を消した。
「早梅……」
「……っ、おい! 雪音!」
同時に全身の力が抜けて、雪音は意識を失った。
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