第一章 残酷な冬③

 青年の指先が揺れ、山がとどろく。

 こまおおかみ像が砕ける。手水ちようずが崩落する。御神木が折れる。

 青年の視線が、境内をう。

 空気が根こそぎ奪われたように、息苦しくなった。

 一方的だった。青年の合図ひとつで、透明な獣が暴れ回っているよう。

 六出神社がじゆうりんされていく。

「おばあちゃん」

 青年の乱暴な腕が、祖母の頭をつかむ。みしりと、ひび割れ砕ける音がした。

 祖母はくぐもった短い悲鳴を上げ、動かなくなった。雪上に真っ赤な血が散る。脱力した体は、無造作に投げ出されれきにぶつけられ、おかしな形に曲がってしまった。

「おばあちゃん……」

 雪音の視界が、涙でぼやける。ずるずると体を這わせて、祖母の側に近づこうとしたが、青年に立ちふさがれ阻まれた。

「雪音。あなたのおかげです」

「私の……?」

「はい、助かりましたよ。六出の神域に、雪音がおれを招いてくれたおかげです」

 途端、あのときの脳内に呼び起こされる。

 ──入ってもいいですか?

 ──どうぞ、お入りください!

 しめ縄の道切り。道祖神の石碑。悪しきものは立ち入れないはずの、あの六出神社の入り口で、雪音は確かにそう返した。

 あれが許可だったのだ。合図。雪音が彼を、神社の中に、招き入れたことになる。

「……私、が……」

 声が震える。絶望で頭が真っ白になる。

「ありがとうございました」

 噓偽りのない言葉が向けられる。青年はひどく優しい手つきで、雪音の頭をでる。みずみずしく甘い花の香りが、残酷に辺りを満たしている。

「不在の家族は、後日別の者が始末すると思います。あなた方以外は、大した力もなさそうですけど」

「やっ、やめて! 家族をこれ以上、傷つけないで!」

「それはおれに祈っても無駄ですよ」

 雪音の首を、青年の片手がつかむ。息が詰まった。だが力の差が歴然で、もがくことさえ出来ない。

(……死ぬんだ)

 寒い。苦しい。指がかじかんで痛い。皮膚を北風がこする。

(私のせいで、みんな、死ぬんだ)

 怖い。つらい。死んでほしくない。死にたくない。

「だれか……」

 どうしたらいい?

「誰か助けて……」

 ──誰かがこたえてくれた気がした。

 鋭いいつせんが宙を走る。雪音の首を摑むまがまがしい手を、光の矢が貫く。

 そして突風。粉雪が舞い上がって、辺りを真っ白に染める。激しいのに、不思議と優しい風だった。

「え……」

 雪音は思わず目をつぶる。その瞬間、全身がふわりと宙に浮いた。

「生きてるか?」

 反射的に縮こまるが、衝撃のひとつもなく、そのまま優しく、誰かの腕に抱き留められる。

「げほっ、げほ」

「ゆっくり、深く息を吸って」

「げほ、っう、はぁ……っ」

 優しい手付きで、背中をさすられる。何度かき込みながらも、乱れた呼吸が収まっていく。

「よし。生きてる」

 半ば独り言のようだ。その飾り気のない言い方に、無性に安心してしまう。

(誰……?)

 ようやく目を開き、介抱してくれている相手を見やることができた。

 見覚えのない、雪音と同じ年頃の青年。大きく形の良いり目に、通ったりよう。紋付羽織とはかま姿すがたということもあり、どこか高貴な印象がある。

 端整な顔をゆがめ、彼はうなれた。

「……間に合わなかったな。ごめん」

 謝られる筋合いはない。雪音はとつに首を振った。

(私なのに。取り返しがつかないことをしたのは、私で……)

 崩壊した境内。祖母の遺体が転がっている。涙があふれ、何も見えなくなる。

「もう大丈夫だ」

 雪音の涙をぬぐいながら、彼は言った。

「何も心配しなくていい。あとは全部、俺に任せて」

 この場に不釣り合いなほど、優しくて穏やかな声。

 だがその温かな言葉と同時に、鼓膜をつんざくような、激しい破裂音が鳴った。

「きゃ……!」

 衝撃はない。彼が再び雪音を抱き寄せ、片手を掲げる。離れた場所から攻撃され、それを片手で防いだような。

「さすがにしぶといな……」

 胸板に顔を押し付けられているせいで、雪音には何も見えない。それでも今しがたの攻撃が、あの謎の青年によるものだというのは明らかだ。

「あ、あの」

「もう立てる?」

 押さえられていた後頭部が解放された。かんきつのようなすがすがしい香りを感じながら、雪音の両足は地を踏みしめている。

「綿本雪音だね」

「は、はい」

「俺はかげとう。色々混乱しているだろう。あれを片付けたら、俺の知っていることをすべて説明するから」

 藤矢が拝殿を見やり、雪音もそれに倣う。あの青年がたたずんでいた。ひじから手のひらにかけて、赤黒い血でしとどにれている。

(この人がやったの……?)

 信じ難い気持ちで、二人を交互に見る。藤矢は武器のたぐいを持っているようには見えない。祖母でさえ大したダメージを与えることができなかった相手に、一体どんな手を使ったというのだろう──

「……っ、待ってください!」

「うん?」

「血、血が……!」

 そのまま立ち向かおうとする藤矢のそでを、慌てて引き止める。

 藤矢は腕から出血していた。頰にも一筋の血が流れており、どうやら額を切っているらしかった。はたはたと、白い積雪に鮮血が落ちる。

「さっき、私をかばったときに……!」

「ああ」

 青ざめる雪音を前に、藤矢は平然としている。そでぐちで強引に頰の血を拭い、腕の方はひらひらと揺らして見せる。

「なんてことない」

「そんなはずないじゃないですか……!」

 雪音は袖口から手を放すことなく、むしろ力を入れた。わずかに目をみはった藤矢が、首だけで振り返る。

「手当てを……っ、すぐ手当てをしましょう。血が出て、痛い、危ないです」

 気が動転している自覚はあった。それでも、倒れ動かなくなった祖母の姿が、目に焼き付いて離れない。彼をこのまま送り出せば、同じ目に遭うようで恐ろしい。

 雪音の震える指先を、藤矢がそっと包み込む。

「……終わったら頼むよ」

「あ」

 こわばった指先の力が抜ける。自然と指先を離せた。

 危機的な状況は変わらず、不安な気持ちは消えないが、心のとげを一本だけ抜いてもらえたような気持ちになる。

 一方の青年は、気だるげに頭をがりがりいているだけだ。傷口を抑えようともしていない。

「あーあ……御景がここで出しゃばるとは……面倒なことになりました……」

「【はやうめ】!」

 だが藤矢にそう叫び呼ばれ、青年がぴくりと肩を揺らした。とらえどころのないひとみに、一筋の冷たい光が宿る。

「……勝手に呼ばないでくださいよ」

「名と認識しているなら幸いだ。まがかみのお前にも、隷従の術が効くだろうな」

 青年の──早梅のけんしわが寄る。見えない鎖に縛り付けられたように、ぎこちなく体を揺らし、藤矢をぎろりとにらみつけた。

(早梅……あの人の名前? 禍津神って……神様なの……?)

 藤矢が何かしらの策を講じている。それでも神を押さえつけるには足りないらしい。

「──やれ」

 藤矢の声を合図に、突如拝殿の屋根から人影が飛び降りてきて、そのまま早梅に襲い掛かった。

 長い三つ編みの青年だった。両手にこんぼうを構えており、野生の獣のようなしなやかな動きで、あっという間に早梅を境内のとうろうに押し付けてしまう。

「藤矢くん、どうする!?」

 青年が叫ぶ。背が高く、肩幅が広い。金糸で昇りりゆうしゆうされた濃紺のスカジャンを羽織っており、雪音たちよりいくらか年上に見えた。

「捕縛しろ」

「いやいや無茶言わないでよ! 今にも腕食いちぎられそうなんだけど!」

「分かった、拷問する。そのまま押さえておけよ、つばめ

 燕。そう呼ばれた青年が苦しげにわめく。

「早くして! しんどくて死にそう!」

「もう誰も死なせないよ」

 藤矢はおもむろに二人に近づいて、一本の扇子を取り出す。手早く広げて、早梅の目元を覆った。

(あ、また)

 かすかな風が吹く。藤矢の髪や、軽い雪の欠片かけらが、音もなく舞い上がる。

 超能力や魔法のような、見知らぬ現象が次々に巻き起こる。雪音は理解が追い付かない。それでも、目だけはしっかり見開いておいた。

「【どこから来た?】」

「…………」

 沈黙が続く。早梅は沈黙したまま、灯籠に爪を食い込ませる。石造りの灯籠はみしみしと音を立てひびが入っていく。圧倒的な力と、抵抗だった。

 しかしほどなくして、そのかたくなな口がぱかっと開いた。人体にはありえない、がく関節が外れたような角度。くるみ割り人形のように、がくがくした動作で言葉を紡ぐ。

「……■■」

 彼が何を言っているのか、雪音には分からない。

「【御景家を呪っているのはお前か?】」

「■■」

「【誰の指示で】」

「■■■、御■神■の■■■■」

「【仲間は何人いる】」

「■■」

 声が不気味に響く。ほとんどが聞き取れなかった。音量の問題ではない。外国語のような、鳥のさえずりのような、意味のひとつも知らない言語なのだ。

「【次はどこを狙う】」

「■■■」

「【殺せなかったらどうするつもりだ】」

「■■■■■■■」

 藤矢は苦々しい表情を浮かべている。どうやら早梅を無理やりしやべらせるのには、相当の苦痛が伴うらしい。

 その上、思うような回答は得られていないようだ。早梅の紡ぐ言葉は、藤矢たちにとっても得体が知れないものらしく、似たような質問を、言い回しを変えて繰り返したりもする。

 やがて冷や汗を垂らした燕が「そろそろヤバい」とうめいたのを合図に、藤矢は扇子を閉じた。早梅は長い四肢をだらりと脱力させ、その場に倒れ込む。

(……強い人たちだ)

 雪音は直感した。面識も見覚えもないが、彼らは早梅と戦える「強さ」を持っている。

(この人たちは、あの神様を……早梅をどうするつもりなの?)

 殺すのか。殺せるのだろうか。

 神様を、神職者が殺す。何のために? 六出神社を踏み荒らし、雪音の祖母を殺したから? では早梅は、何のためにそんなことをした?

(私は彼を、どうしてほしい?)

 弱りきった今なら、自分でも手を下せるのだろうか。

「っ、おい! 近づくな!」

 藤矢の叫びが、雪音の体を素通りしていく。

「ねえ」

 ほとんど無意識のうちに、早梅の側にしゃがみ、その顔をのぞき込んでいた。

「返してよ」

 早梅がうっそりとまぶたを開く。ろんな瞳に、雪音の姿が鏡写しになる。

「おばあちゃんを返して」

「…………」

「戻して。全部、今すぐ。元通りに」

「……はは」

 乾いた笑い声が響いた。早梅がすうっと目を細め、雪音に手を伸ばそうとする。

「こういうのが、おれも欲しいな……」

 腕は上がったが、手首はいよいよおかしな方向に折れ曲がっており、頰に触れる前に崩れ落ちた。つたない雪だるまが倒れるように、どさりと。

「彼女に触るな」

 低いうなりを上げ、突風が吹く。藤矢が扇子を構えている。

「……たかが神職風情が」

 早梅はそう吐き捨て、姿を消した。どんな手を使ったのか、一瞬のうちに鳥居の上に移動して、今は雪音たちを見下ろしている。

「逃げられるね。藤矢くん、どうする?」

「追うなよ。勝ち目は薄い」

 そうは言いながらも、藤矢も燕も武器から手を離さない。早梅から漂う邪悪の気配は、全身が多少傷つこうとも、まるで消えていないからだろう。

「雪音」

 不吉な声が、雪音を呼ぶ。

「おれは疲れました。しばらく眠ります」

「…………」

「だから、大人しく待っていてください」

「待つ……?」

「おれがあなたを迎えにくるのを」

 巻きっぱなしのマフラーを指差し、早梅は微笑んだ。次の約束をする、友達同士のような仕草で。

「その日まで、これは借りておきますね」

 そうして次の瞬間には、今度こそ本当に姿を消した。

「早梅……」

 み締めるように名前を呼ぶ。舌の根に、どんな毒より苦い味が広がっていく。

「……っ、おい! 雪音!」

 同時に全身の力が抜けて、雪音は意識を失った。

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