第一章 残酷な冬②

「うちのお客さんですか?」

「…………」

 返事はない。だが彼の佇まいが、これまで数多あまた見てきた参拝客たちの、とりわけ縁切りの依頼人たちの姿に重なった。

 切りたい縁。なんとしてでも捨てたいもの。そういう、見えない鎖にとらわれた目をしている。

「六出神社にご用事なら、ご案内しますよ」

 そこでようやく、青年がぴくりと反応した。電池が切れかけたロボットのようなぎこちない動きで、雪音に首を向け口を開く。

「あなたは……」

 息が大きく混じった低い声。目覚めてすぐのようにかすれている。

「私、六出神社の者です」

「……名前は?」

「え……」

「あなたの名前を教えてください」

 まごつく雪音を前に、青年は指先で宙に文字を描く。

「名前に『雪』が入るかどうか、教えてください」

 そう聞いて雪音は納得した。やっぱり六出神社の客だ。縁切り術の跡継ぎは、名前に雪の字を冠する習わしがあるのだと知っているのだから。

「入ります、入ります。私、雪音って名前です」

「……あなたは宮司ですか?」

「いえ、宮司は父です。父のお客様でしたか」

「はいまあ、その手のものです」

 それは困った。両親は朝から遠方の親戚を訪ねて不在にしているはずだ。今夜は祖母と雪音、そして今も学校で授業を受けている弟のしゆうだけしかいない。

「すみません、父は留守で。祖母が宮司代理をしていますが」

「構いませんよ」

 青年は雪音を見下ろし、ややあって浅くうなずいた。

「……ああ、なるほど。強い神力の匂いがしますね」

「神力? 匂い?」

「あなたが継承者ですか。会えてよかったです。案内を頼めますか?」

 独特の間合いで話す、無表情気味の美青年。

 珍しい存在ではあるが、客人である以上はきちんと扱わなければと思った。

「随分長く迷わせてしまったんですね」

 ポケットからハンカチを取り出し、青年に差し出すが、意図が伝わらないらしく首を傾げている。

「ちょっとだけ、しゃがんでもらえますか?」

 素直にかがんでくれたので、手を伸ばして頭や肩の雪を払う。近づくと肌の青白さがいよいよ明らかで心配になった。

「寒かったですよねー……これどうぞ」

 自分のマフラーを外して巻きつけると、青年の表情がほんのわずかにほころんだように見えた。

「……あたたかい」

「よかった」

 ふと、ほのかな花の香りが漂う。

(いい匂い。香水かな?)

 主張の強すぎない、春先の気配がする。マフラーは渡してしまったが、心に温かいものがともった気がして、雪音はにっこりと笑った。

「さっ、行きましょう! 神社に着いたら、もっと暖かいですからね!」

 先導して歩きながら、何度か後ろを振り返る。青年はじっと雪音の背を見て歩いているらしく、そのたびバチッと目が合って、不思議な沈黙が流れるのだった。

「お兄さんは、どこから来たんですか?」

「…………」

「お昼時ですけど、お腹減ってませんか?」

「…………」

「私はもうお腹ぺこぺこで。途中でお腹の音がしても聞き流してください」

 一方通行にしやべり続ける。青年は言葉を返さない。足音や呼吸の音も、雪に溶けてしまったようだ。雪音はただ、彼の気配だけを感じながら歩いた。

「足元に気をつけてください。滑りやすいので……わ、きゃっ」

 言いながら転びそうになったが、抱き留められて助かった。

「あ、ありがとうございます」

「気をつけましょう。滑りやすいんですよね?」

「あはは、はい」

 青年は背後から雪音の背を押し、きちんと立たせてくれた。

「そう言えばお兄さん、お名前は?」

「……はい?」

「私の名前ばかりで、うかがってなかったなと思って」

「…………」

 返事がない。聞こえなかったのだろうか。石段を数段登っていたが、一度足を止めて振り向く。

 そして、「はて」と首を傾げた。ここまでひなどりのように後ろを着いてきた青年が、足を止めている。続いて石段を登ろうとせず、鳥居を見上げじっと佇んでいる。

「どうかしましたか?」

「……ここから神社の敷地ですから」

 青年は足元を指差し、続けて頭上を指差し、雪音と視線を合わせた。

 確かにそうだ。上には木々の間にしめ縄が張られ、道切りがされている。神域を示し、魔を防ぐ役割も果たすものだ。足元のどうじんの石碑も、魔を追い払うためにある。

「気にしなくて大丈夫ですよ。地元の人も、みんな気軽に入ります」

「そうですか」

「はい」

「おれも?」

 つかみどころのない、ふわふわとした会話が続く。

 小首を傾げる雪音に見下ろされながら、青年はぼんやりと視線を彷徨さまよわせた。

 そして、はたと動きを止める。彼もまた小首を傾げ、足元を指差し、尋ねた。

「入ってもいいですか?」

 礼儀正しい。信心深い。だから許可を求めるのかと、そう思った。それ以外に、雪音は何ひとつ思い当たらなかった。

「どうぞ、お入りください!」

 雪音は何のてらいもなく、躊躇ためらうこともなくそう言って、青年に手を差し伸べた。

「……どうも」

 一拍の間を置いて、彼はゆっくり一歩ずつ、踏みしめるように石段を登り始める。

 雪音もほっと一息ついて、進行方向に向き直る。雪の積もっていない部分を選び、先ほどのように滑ることがないように、一歩ずつ一歩ずつ踏みしめて──

(あれ?)

 ふいに正体不明の違和感が、胸をかすめた。

(……ん?)

 気のせいか。それが違和感だとすら、初めは気づかなかった。

(いや、なんか……なんか、変?)

 のどに小さなあめ欠片かけらが詰まったような、どうせすぐに溶け消えるのではないかと、触感が脳への伝達を保留していたような、そんなおかしな感覚があった。

(やっぱり、何か変だな)

 胸がざわざわしている。それでも歩調を変えず、石段を一歩ずつ登り続けた。

 背後の青年は、相変わらず何も言わない。足音もしない。

 脳のしんに、ひやりと冷たいものが宿る。

(どうして?)

 どんなに静かに歩いたって、雪を踏みしめる音くらいするだろう。この急な石段を登れば、多少呼吸だって荒くなるはずだ。

 進めば進むほど、言いようのない違和感が湧き上がる。どうして、何故。言語化できない疑念が、頭の中で膨れ上がる。思わず襟元をぎゅっと握った。

「雪音」

「はっ、はい! 覚えてくれたんですね」

「覚えてしまいました」

 二人そろって、石段を登りきる。改めて彼の隣に立つ。

「気安く真名を名乗るものではありません。急所をさらすも同然ですよ」

「急所……?」

 脈絡のない会話。全身から漂う、得体の知れない威圧感。先ほど雪道で出会ったときとは、やはり何かが違う。

「そんなことも教えてもらえないあなたを、気の毒に思います。宝の持ち腐れでしたね」

 褒められているのかけなされているのか分からず、ただ困惑した。

「惜しいな。おれの手元にあればなぁ……」

 青年の手が伸び、雪音の頰に触れる。決して溶けることのない、凍土のような温度。

「あなたを殺すのは、最後にしましょう」

 鋭い言葉に反応する間もなく、青年が雪音の目元を、大きな手で覆い隠す。戸惑うより先に、全身の力が抜けて、雪音はその場に倒れ込んでしまった。

(え……?)

 意識はあるのに、体が動かない。指先ひとつ。氷漬けになったように。

 青年が深く呼吸をする。何かに命令するように、周囲をじろりとめつける。

 間髪をれず、低い地鳴りが響き始めた。木々が揺れ、積もった雪がどさどさ落下する。石造りのとうろうがぐらつき、いくつかが音を立てて割れた。

「雪音!?」

 悲鳴のような呼び声が響き、背筋がぞっとあわった。

(おばあちゃん!)

 祖母が本殿の方から走って来る。来ちゃダメだ。反射的にそう思うが、いまだ体には力が入らず、叫ぼうにも声が出ない。

 倒れた雪音、見下ろす一人の怪しい男。いち早く状況を把握した祖母は、青ざめた顔に怒りの炎を灯す。

 祖母はその手に、れいろうな光を携えている。刀だ。六出神社の神具、狼星。ではなく、刀身が青白く発光している。

(まさか…………)

 祖母はさやを捨て置き、狼星を構える。その表情に迷いはない。

(だめ)

 無理だ。信じがたい光景を前に、雪音はただただ直感する。

(おばあちゃん、逃げて!)

 焦燥と動揺。祖母は縁切りの名手で、もしかすると狼星を手にすれば不思議な力で戦えてしまうのかもしれない。それでも狼星の光より青年の闇の方が、誰かを壊すのにうってつけだ。それだけは本能的に分かった。

(危ないよ! 逃げて!)

 そう叫びたかったが、喉までしびれて声も出せない。


 ──そこから見たものを、雪音は一生、忘れることはない。


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