第一章 残酷な冬①

 綿本雪音は銀世界でスキップを踏んでいた。

 とうほくやまあい。温泉もスキー場もない、のどかな町。鉄道駅や高速道路のインターチェンジからも離れており、騒がしさとは縁遠い。都会のような刺激はないけれど、穏やかな空気に満ちたこの土地が、雪音は大好きだった。

 空は高く、天体観測にももってこい。地平線まで星明かりが散らばっている。

(明日のつきなみさいも晴れそうだな)

 月次祭は、神社で毎月開催される祭典のこと。雪音の実家は『むつ神社』という、こじんまりとした氏神神社である。

 氏神とは、その土地に住む者を守る神を指す。六出神社は、基本的に住民のための場所だ。神社行事以外に、ラジオ体操やバザー、防災訓練など、地域のコミュニケーションに使われることも多い。

「ふんふんふーん」

 雪音のスキップと鼻歌が、銀世界を彩っていく。

 雪音は月次祭が好きだ。節分祭も祈年祭も、にいなめさいおおはらえ式も好きだ。ラジオ体操も防災訓練も好きだ。六出神社のすべてが好きだった。

 灰雪が音もなく降り注ぐ中に、朱塗りの鳥居が見えてくる。石段を二段飛ばしで駆け上がっていく。

「あらっ、雪音ちゃんおかえりなさい」

「ただいま。いらっしゃい」

 半分ほど登ったところで、氏子の女性とすれ違う。同じ町内に住んでおり、雪音とは子どものころから顔見知りだ。

「受験勉強どう?」

「ううーん……なんとか頑張ります!」

 苦笑を浮かべながら、手を振って別れた。

 彼女の言う通り、雪音は高校受験を控えた中学三年生だった。勉強は嫌いではないけれど、ピリピリとした受験の雰囲気からは一刻も早く解放されたい。

 何より早く高校生になりたかった。高校生になったら、跡継ぎとして本格的な修行が始まる予定だから。

 階段を登りきると、すぐに石畳の参道になる。鳥居の前で立ち止まり、丁寧に一礼。本殿を横切り、狛狼の石像の前に立つ。

「ただいま、神使さま」

 六出神社では、多くの神社でこまいぬが座す場所に、狛狼が鎮座している。

 六出神社の神使は、古くから犬ではなくおおかみだ。それぞれ左右の耳元に、神紋の雪紋が彫り込まれている。

 二頭とも少しだけ汚れていたので、ポケットからハンカチを出してく。そしてまた一礼。雪音はそのまま、神社に隣接する自宅に向かう。

「ただいまー。おばあちゃんいるー?」

 返事はない。しんと静まり返った玄関先で首を傾げ、「あ」と気づく。

(今日はごとうの予約が入ってるんだった)

 壁時計を見上げれば、ちょうど祈禱が始まる頃合いだった。

(覗いてもいいかな? 覗きたいな。いやでも、受験勉強……)

 そわそわと迷うこと数秒。雪音は自分に言い聞かせるように「ちょっとだけ!」と声を上げ、玄関を飛び出した。

(おばあちゃんの剣舞が見られるのってすっごく貴重だし……!)

 祖母・ゆきは先代の宮司だ。神社の代表は退いたものの、歴代随一と言われる実力者で、現在でもある特定の祈禱依頼を担当している。

 その儀式の肝が、神具の日本刀『ろうせい』を用いた剣舞なのだ。

「雪音。おかえり」

 拝殿の前には、父・のぶゆきが立っていた。扉は固く閉ざされているが、隙間から篳篥ひちりきしようの厳かな音が漏れ聞こえている。

「ただいまお父さん。ちょっとだけ覗いてもいい?」

「ダメに決まってるだろう」

「えーーーこっそり! 静かにしてるから!」

「そういう問題じゃない」

「ここで見聞きしたものはすべて秘密にします。参拝される方の個人情報は、決して持ち出しません」

「駄目なものは駄目だ」

 食い下がってみるものの、父には取り付く島がない。雪音とて大切な祈禱の儀式を邪魔したいわけではない。がっくりと肩を落としつつ、素直に「分かりました」とあきらめれば、父から優しく肩をたたかれた。

「高校生になったらな」

「……そうだね」

「おばあちゃんからもそう頼まれてるから。雪音が高校生になったら、大切なことはすべて順々に伝えてくれるってさ」

 折に触れて、雪音はこう言われている。高校生になったら。

 ──身も心も、大人になる準備ができたらね。

 雪音にはよく分からない。大人になる準備。高校生になったら、自分の心身がそんなに劇的に変わるのだろうか。

(今は受験勉強に集中しなさいって意味かもしれないな……)

 納得のいく条件ではあった。いざ神職になるとしたら、じんじやほんちようの規定にのつとって階位を取得する必要がある。系統の大学を卒業するか、養成所か検定講習か。いずれの道でも、高卒程度の学力は欠かせないと言われている。

(いつか私も、狼星と一緒に舞えるのかな)

 普段は厳重にしまわれている神具を思い浮かべる。

 代々奉納されている、古く美しいあの打刀。つばにあしらわれているのは、雪の結晶をかたどった、六出神社の神紋だ。普段は暗がりで息を潜めているのに、祖母が恭しく掲げると、蛍のような淡い光を放つ。

『狼星』とは、シリウスの異称だ。地球上から見える、もっとも明るい星。ぴったりの名前だと思う。

(私もいつか、あの刀で……)

 ──切りたい。人々を苦しめる『悪縁』のすべてを。


               *


 六出神社は、知る人ぞ知る『縁切り神社』である。

 京都のやすこんぐうはしひめ神社など、有名な縁切り神社は全国に多数存在する。古くから悪縁を切ることは、人々の生活と切って離せないもの。きたかまくらとうけいをはじめ、かつて駆け込み寺として機能していた寺院に、縁切りの霊験を求める人もいる。

 一方で、六出神社の知名度は低い。境内には縁切りにまつわる碑のたぐいはないし、縁切りに特化した形代や絵馬も用意されていない。ただでさえ交通に不便な山奥ということもあってか、観光を兼ねた参拝客はほとんど訪れない。

 だがほんの時折、どこからか噂を聞きつけて、祈禱を申し込む人がいるのだ。

(縁切り神社、なんて物々しい呼び方だけど……)

 儀式を終えた人々の、重い荷物を降ろしたあとのような表情が、雪音は好きだ。

 遠路はるばる、山奥の六出神社まで足を運ぶ彼らは、皆思い詰めた顔をしている。そこから解き放つ手伝いができるのなら、それはとても、光栄な役割だと思う。


               *


 公立高校の入試本番まで、残りいくらもない平日。

 受験生である雪音は、既に自由登校期間だった。午前中だけ模擬テストを受け、昼前には帰路につく。

 通学バスを降りるころには、ひらひらと粉雪が舞い始めていたが、傘を差さずに歩いていた。神社が近くなると、山々の生い茂る木々がアーケードのようになって、ちょっとした雪や日差しから守ってくれる。

 根雪を避け、滑らない道を器用に探す。この辺りは町中の大通りのような融雪歩道がないので、ちょっとした日陰も危険なのだ。

(受験生だし、滑ったり転んだりはしないように……)

 降り積もったばかりの柔らかい雪がふわり、半分凍った硬い雪がじゃりり。スパイクのついたショートブーツが、足音を二段階に鳴らす。

「お腹いたなー……」

 辺りはひどく静かだった。ただでさえ独り言は全部、雪が吸い込んでしまう。本当に口に出したのか不安になるくらいに。

「……あれ?」

 四つつじに、人がたたずんでいる。

 恐らくは男性。黒いつむぎに羽織、まで真っ黒だ。ひょろりと高い背丈とつやのある黒髪が相まって、雪上に墨を一滴垂らしたような姿である。

(見かけない人だな。この辺りの人じゃない……よね?)

 通り過ぎがてら、こっそり横顔をうかがう。

 伏し目がちの長いまつ毛に、粉雪が積もってキラキラ光っている。見れば肩や背も、うっすらと雪色に変わっていた。

(いつからああしてるんだろう……顔も青白いし、具合悪くなってたりして……)

 しんせきでも訪ねてきたのだろうか。交番までは距離があるし、暖を取れるような飲食店もない。

「……あの」

 一度は通り過ぎかけたが、数メートルを足早に戻り、雪音はその青年の肩を叩いた。

「何か困ってますか?」

 青年は何も言わなかった。身じろぎひとつしない。雪音の声などまるで聞こえていないように、明後日あさつての方を見つめている。

(……何かある?)

 視線の先を、雪音も見やる。ちらほら民家の屋根はのぞいているけれど、他には何もない。たわわに実った南天の木。積雪の重みでしなだれた冬の枝。積雪でたわんだ電線が、灰色の空を走っている。その先には枯れた冬山が続くばかり。

(あ、うちの方角)

 ふと思い立つ。この辻道を曲がった先には、六出神社の石階段が伸びている。

 冬景色は夜道のようなものだ。いつだって迷いやすい。目印が埋もれて、どこにどう進めばいいのか分からなくなることがある。

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