第3話(下) ひとりぼっち達
ペアになった、とはいえ――特別なことはさして起こらない。
ストップウォッチとクリップボードを持って、僕はゴール地点で須凍さんを待つ。
短距離走のフォームを先生から教わった後は交互に走るだけだ。
ストップウォッチは時間を計るためのもの、クリップボードはその時間をメモするための下敷きだ。
授業終了のチャイムが鳴るまでひたすら短距離走の記録を残すことを求められ、渡された紙には三十回分のスペースがあった。
「最低五回分は走れよ、じゃないと出席したことにしないからな」
そう言った後、先生はスターターピストルを鳴らす機構になってしまった。
「じゃ私、先に走るわね」
「うん、行ってらっしゃい」
走る順番で揉めることもなく須凍さんが自ら先手で走ってくると宣言したので、僕は送り出した。
「ええ……行ってきます」
なのにどうしてか、須凍さんは顔を赤らめてスタート位置まで走っていく。
今走ったら疲れるんじゃないか……?
ただ、そんな心配は杞憂なのかもしれない。
「よーい」 ――パァン!
空砲の音で、並んだ生徒が一斉に走り出す。
石灰で引かれた六つのレーンの上で、一人だけ明らかに目を引く存在があった。
もちろん、須凍さんだ。
男女混同で走っているが――須凍さんは頭一つ抜けて速かったし、フォームも美しい。
風に煽られる綺麗な髪の毛。
程よく締まった細い脚。
控え目だが存在感を見せつける胸部。
全力で走る彼女に――この場にいる全員が目を奪われていた。
記録は14秒48。
「すごい――速いよっ!」
「はぁ――ッ、はぁ――っ……」
何か言いたげな須凍さんは、僕のところまでよろよろと息を絶やしながら近づいてくる。
「ぜぇ……ぜぇ……」
「だ、大丈夫……?」
普段見る“氷の一匹狼”の姿とはあまりにかけ離れた疲労ぶりに若干心配になる。
というか、今までの体育でこんなに頑張ってた須凍さんを見たことがない。
何か須凍さんに渡せるものはないかと思って探して――ポケットに入れたハンカチを取り出す。
「これ、良かったら使って――」
差し出したハンカチを須凍さんは認識し、受け取ろうと僕に手を伸ばしたタイミングで――足元をよろめかせた。
「あぶなっ――」
――い、と僕は言葉を告げ終わる前に、身体が反射的に動いていた。
掬うように、須凍さんの下に入り込む。
「うぐっ」
「ごめっ!」
胸部の柔らかい感触が肩に当たる……が、それよりも、のしかかるように倒れこむ須凍さんを支えるので精一杯だった。
「――っと! ごめん……大丈夫!?」
「なんとか……」
よろめく態勢を立て直しながら、須凍さんは僕を心配してくれている。
ここでようやく、体の大部分が接触していることに気付いたようで――。
「す……すぐ離れるわ!」
ほぼ抱擁だった姿勢はすぐに須凍さんによって解除された。
不慮の事故とは言え、ほとんど抱き着いているような姿勢だった。
心臓がばくばくと動いている音が聞こえる。
恥ずかしくて、僕は須凍さんとは反対を向く。
「あ、汗臭くなかった……?」
「うん……大丈夫。汗臭いっていうよりもいい匂いっていうか」
テンパって墓穴を掘っている気がする。
自分でも何を言っているか分からない。
「と、とにかく……! これ、ハンカチあるから……汗拭いて」
「え、ええ……」
本来の目的を果たすべく、僕は勇気を振り絞って須凍さんのほうに振り向く。
下手したら彼女と目が合うだけで顔が爆発してしまうんじゃないかってくらいに恥ずかしい。
だけどそれは僕だけじゃなかったみたいだ。
須凍さんも僕と同じようにそっぽを向いていて、長い髪の隙間から見える耳だけが、燃えるように朱に染まっていた。
……というか、須凍さんのほうが恥ずかしいに決まってるよな。
玉のように汗が噴き出る須凍さんの首元に、そっと僕はハンカチを乗せる。
「ひゃぅ!」
「……らしくない声」
「仕方ないじゃない……! 百メートル、全力で走ったのよ」
すぅはぁと須凍さんは呼吸を整えてから、僕のほうに向き直る。
「……それも含めて
なかなか合わなかった視線が、初めてここでぶつかった。
須凍さんは僕が渡したハンカチで汗をぬぐって、それからそれで口元を隠す。
「夜墨君に見られてるって思ったら、いつもより頑張っちゃったのよ」
言ってから、須凍さんは僕からまた目をそらした。
運動したから、という理由だけじゃ看過できないほどに顔が赤らんでいた。
「……男子小学生か」
「今なら、彼らの気持ちがわかるわ」
好きな子の前じゃ張り切っちゃうあの気持ちは――分からなくはない。
須凍の感覚としては、好きな子の前では乱れたくない、という一般的な女子の感覚とはちょっと離れているみたいだ。
「んじゃ……僕も頑張ろうかな」
すぅ、と息を整える。
そっちが全力ならこっちも全力だ。
「絶対に負けないよ」
「そう? それなら……負けた方が一つ言うことを聞く、というのはどうかしら?」
「急に茶目っ気出してきたな……」
「友達は“賭け事”をするんでしょう? 一度やってみたかったのよね」
ワクワクと目を輝かせる須凍。
僕は了承した。
なんて言ったって負ける未来が見えない。
確かに女子の中では早い方かもしれないけど……僕だって体力には自信がある。
どこからともなく無尽蔵に湧き出る自信が……。
「ええと……一応制限だけかけておくわ。“友達”の範囲内のことに限らせてもらうわ。それ以上がしたいのなら私の『告白』を受け入れてからにしてもらうわ」
「なんでちょっと
『それ以上』ってなんだ。
ちょっと悶々としちゃうだろーが。
とはいえ、その発想が出てくる僕も僕だがその注釈を付け加える須凍も須凍だ。
「せいぜい僕が走ってる間に決めておくんだな」
まるで捨て台詞を吐き捨てるように言ってから、僕はスタート位置の白線に向かう。
「……夜墨君!」
後ろから声がかかって、僕は振り向いた。
そこには、クリップボードを抱えた須凍が何かを言いたげに口を開けていた。
もじもじと若干体をくねらせて、何か言いたげにしていたので、歩みを止めた。
「……行ってらっしゃい」
なんだそんなことかと思って、僕は返事をした。
「行ってくる」
歩き始めて……僕は、須凍が「行ってらっしゃい」と言われて顔を赤らめていた理由がようやくわかった。
そうか、これ……夫婦みたいだったんだな。
†
勝負結果は惨敗。
須凍の口から告げられた十六秒台のタイムに絶望し、心の奥底にあった自信の塔はぽっきりとへし折られ、僕は須凍の『いうこと』を一つ聞かなければいけなくなってしまったらしい。
……後から分かった話だが、須凍の百メートル走のタイムは陸上部からスカウトが来るほどの記録だったらしい。
これを機に“氷の一匹狼”のうわさがまた一つ増えたのは、また別の話だ。
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