絶命隊
結局、夜闇に紛れて急襲してきた軍団の正体は解らず、只管、不気味であった。
高木は、闇の軍団への懸念が拭えないらしく、しきりに、
「岡田。この間、お前達が襲った船は政府と提携した三菱商会のものだったらしい。それも不安だが、何より、隠れていた黒装束だ」
「高木殿は心配性だな。歳を取ると、何かと憂いが湧いていかん」
「どう考えても罠だったに違いない。錦江での強盗が、私達の働きだったか発覚しているかは解らぬが、恐らく残党狩りの一環だ」
「そうかもしれんな。だが、無事に銭も奪えた上、誰も討たれておらん」
岡田は、多少の齟齬があっても計画の成功に鼻高々であった。高木は困惑した表情で、なおも彼に詰め寄った。
そして少しばかり咳を漏らし、悲痛そのものな声で、
「私はもう六十だ。余命は幾ばくもない。せめて、お前達が無事に今後、それぞれ生活出来る見込みがつくのだけは見たい。どうか危ういこと、いや余りに耳目を引くことは避けてくれ」
「ははは。貴殿は学者として優秀だが、武士らしくない。其ノ以ス所ヲ視レバ、人焉ンゾ廋サンヤとはよく云うが、本性は隠せないものだ。貴殿は次の
岡田はそう言って、高木の憂いを一笑に付してしまった。高木は溜息をつき、剣之助の姿を捜した。
剣之助は、血脂の付いた愛刀の手入れをしていた。刀身を拭い、鎺元から峰へ打粉を叩き、拭う。これを繰り返している内に、刃は澄み切った鏡のようになる。
やがて、刃紋は朧夜の雲に似て、剣之助の顔を反射した。この瞬間だけ、彼は落ち着いていられた。
高木は、剣之助が手入れを終えるのを後ろで待った。丁子油を塗られた備前兼光が鞘に収まると、そこで始めて、
「剣之助、今良いか? 頼みたい事がある」
「何でしょうか」
「薫は一昨日、刀傷を受けたが瑞喜君が手当てをしてくれたので、至極浅いものだ。それで、彼奴らと何かしてもらえるか? 面倒ごとではなく、
「承知しました。先生はいらっしゃいますか?」
「いや、遠慮しておく。偶には爺抜きになりたいだろう」
高木はそう言って笑い、荷物から釣り竿を三本持ってきた。彼が、周りの木々から作ったものである。深場から魚を釣り上げるための糸巻きまで付いていた。
剣之助はそれを受け取り、
剣之助は、薫の前にしゃがんで視線を合わせ、
「薫、退屈そうだな」
「ええ、本当に。瑞喜さんが稽古を許してくれないですから」
「まるで厳しい姉だな」
「襟髪を掴んで動かさないのが、姉? それは御免ですよ」
「一昨日の夜、痛い、痛いと半泣きで云っていたのは誰ですか?」
瑞喜が横から言ったので、薫は赤面し、何か早口で喚きだした。剣之助は愉快そうに笑い、
「俺と一緒に釣りにでも行こう。瑞喜君もどうだ」
「釣り? 前触れもなく、どうしたんですか?」
「いや、気晴らしだ。暇は潰せるし、釣果は兵糧の補充にもなる。童の頃に戻って、楽しもう」
「気晴らし。解りました」
薫は眼を瞬きつつ、稚い顔で頷いた。瑞喜も書物を閉じ、凜然と立ち上がった。剣之助は、何を読んでいるのかと興味を引かれたが、彼女はすぐそれを片付けてしまった。
内ノ原の宿営は、丘上、密生した林の中の廃寺である。自然石の階段を下り、暫く歩いてくと、眼下に川が望まれる。周りに人家は殆どなく、寂れた杣小屋があるのみだ。
馬は繋ぎ柱に繋いだまま、剣之助達三人は、徒歩で川まで向かった。川岸には芒が叢生し、涼しげな音を立てている。川は落葉を浮かべ、紅霞のようになっていた。
剣之助達は釣り場を見繕い、釣り竿を準備した。餌は適当に、その場にいた蚯蚓を捕まえた。
「瑞喜君は釣りの経験はあるのか?」
「いいえ。我が家では専ら魚河岸で買っておりました」
「そうか。釣り糸を投げ込むときは、竿を肩の後ろまで引き、思い切り肘を使って前へ突き出す。竹刀で相手の面を打つようにな」
「解りました」
瑞喜は、剣之助から受け取った釣り竿を引き、片足を踏み出して釣り糸を投げ込んだ。糸の長さの限界まで飛んでいったので、薫は思わず眼を瞠った。
薫もぎこちなく釣り糸を垂れ、魚が食い付くのを待つことにした。
――ゆっくりと時間が経ってゆく。木の葉舟が上流から流れ、さわさわとした秋風が頬を撫でた。剣之助の、艶やかな濡羽色の総髪は風に靡き、常より美しく見える。
釣れない。薫は、退屈に飽いていた。彼は欠伸をして横を見た。四間ほど離れた場所にいる瑞喜は、既に六匹の釣果である。柳腰から意外な力が出るらしく、さして難儀な顔も見せず、脂の乗った大物を釣っている。
彼女は、紅唇を閉じて水面を見ていた。しかし、薫に気が付くと、無言で誇らしげに口角を上げた。それを見た薫は嫌気が差し、駄々っ子のように身を投げ出して、
「全然釣れないですよっ。どうなってるんですか」
彼の左隣にいた剣之助は、それに閉口し、
「全く我慢の利かない男だ。まだ二刻しか経ってないぞ。じっくり待つのだ」
「剣之助さんも瑞喜さんも、魚が釣れるから楽しいのですよ。僕はただ座っているだけです。これなら狩りでもしていた方が良いです」
「狩り? 俺の記憶では、お前は山に行っても、野犬に追いかけ回されて木の上で泣いていたぞ」
「情けない……」
瑞喜が小声で呟いたので、薫はもう汗顔の至りである。地面に張り付けられたように、大の字になってしまった。
しかしすぐに、彼は何か見たらしく、がばと起き上がった。剣之助と薫も気配を感じ、素早く後ろを振り向いた。
男が、二人歩いて来る。一人は長身痩躯で眼光の鋭い男、もう一人は筋骨隆々として背の低い男であった。前者は軍服を着用して帯刀し、後者は糊の入った黒い洋服を着て紳士帽を被っている。
短身の男が肩で風を切るような態度で、剣之助に侮蔑の眼差しを浴びせかけた。剣之助は、薫と瑞喜を後ろに庇う動作をとった。
「釜田剣之助だな。薩軍の名簿にあった。岡田成政の弟子、高木玄蕃の門弟の一人」
「貴殿は何者か?」
「私は
「成る程。こんな辺鄙な場所まで来るとは、商売繁盛でお前の仕事はないらしい」
剣之助の皮肉にも動じず、森川は距離を縮めてくる。跳足すれば、届きそうな距離まで来た。自然、剣之助はぷつりと鍔を押していた。藤田がそれを目聡く見つけ、彼を鋭く睨み付けた。
剣豪だ。剣之助は本能的に覚った。身のこなし、眼の配り、雰囲気。全てに隙が無い。実力は五分五分、下手を打てば、斬られる。
森川は傲然と胸を反らし、
「お前のことは、よく調べさせてもらった。賊軍の死体を収容して、一々名簿を調査したのだが、お前と岡田、そして高木の姿が無かったからな。そして数日後に、三菱の汽船が襲われた」
「それは気の毒に。俺は運悪く生き残ったので、これからどうしようか途方に暮れている。あのお二人とは、随分お会いしていないな」
「ははは。そうか? 私が聞き及んだところでは、一昨日、旅客船が四人組に襲われ、死者も出たとか。あれは貨物船強盗を捕えるための撒き餌だったが、巧くやられたよ。『絶命隊』を待ち伏せさせておいたが、逃亡を許してしまった」
剣之助は、黒装束の軍団を思い出し、内心で舌打ちした。森川は、彼らを侮っているわけでも、軽蔑しているわけでもない。初めから、虫けら同然として見ているのだ。言葉にも態度にも、それが如実に表れていた。
剣之助は反問した。
「絶命隊?」
「ウム。表には出せない仕事を請ける闇の精鋭部隊。隊長は私で破壊工作に暗殺、何でもこなす」
すると、横で黙っていた藤田が始めて口を開いた。重みのある錆び声で、
「森川、喋り過ぎだ。そんな用向きで来たのではない」
「オオ、そうだな藤田さん。釜田、取引をしよう。強盗の下手人として、岡田を引き渡せば悪いようにはしない。絶命隊にも加えてやろう。どうだ?」
「俺は何も節義に反したことはしておらぬ。士道にも反したつもりはない。強いて言えば、お前に従わないというくらいだ」
「お前の信念など訊いてはいない」
その時、剣之助の後ろから、鬱憤を溜め抜いていた瑞喜が飛びだした。手には礫を持っている。投擲。森川へ投げつけた。卑しい顔に石が飛んでいく。
金属音。礫は、薫の額に直撃した。森川の前に、抜刀した藤田が立っている。彼が、居合で石を弾いたのだ。
瑞喜が慌てて、仰向けになった薫に駆け寄った。額から血を流し、彼は失神してしまっていた。剣之助は、藤田の驚異的な腕前に歯噛みして、森川を睥睨し、
「政商の玩具として、こき使われるのがそんなに楽しいか」
「私は旧弊にしがみ付く愚かな士族ではないからな。私は人生を謳歌している、欠陥も含めてな。だが、お前達はどうだ? いつまでも時代を受け入れず、士道だ誇りだと宣う。お前達は死ぬ……全員、野蛮に」
「誰だっていつかは死ぬのだ。だが、死ぬまでの生き方に、誇りを持つことは出来る」
「何とでも言うが良い。また会おう」
そう吐き捨てると、森川は踵を返して乗馬に向かっていった。藤田は、瑞喜に向かって、
「その者と仲が良いようだな。親しくしていると良い、今のうちにな」
と、冷たく言って彼も馬に跨がった。
二人が彼方に駆け去っていくのを見送った後、剣之助は薫を担いだ。瑞喜と共に、刻み足で宿営に戻った。
木陰に寝かせた薫を瑞喜に任せ、彼は岡田の元に急行した。
「岡田殿、変事です」
「どうした。羽柴の陣に誤って跳び込んだ使者のような顔をして」
「川の方で男共と会いました。三菱の森川と、警視庁の藤田五郎と申す二人です。一昨日の黒装束の連中は、絶命隊とか云う私兵部隊でした」
「わしらの居場所は、彼奴らに見破られておるのか?」
「いえ、この付近に潜んでいるということだけです」
岡田は剣之助の報告に、暫く瞑目していた。やがて、剣之助の肩を叩き、
「今は目立ったことはせん。ただの脅し、これ以上動くなという伝言に過ぎぬ。落ち着いていれば良い」
「……」
「彼奴らも、まだ明確に敵対はしてこない。心を安んずるが良い。そなたは、薫の見舞いにでも行ってやれ」
岡田はそう言って、葉巻に火を付けた。
剣之助は、何も言わず彼の前を辞し、薫の元へ向かっていった。
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