少女の苦悩

 絶命隊隊長、森川との不愉快極まる邂逅を経て、いつの間にか夜になっていた。眉のような三日月が、気儘に雲間を漂っている。

 釜田かまた剣之助けんのすけは、日中の釣果を捌き、焚火で焙っていた。魚の脂が時折、薪に触れて煙となり、空腹を刺激する香りを立てる。その日食べない分は、煙で燻しておく。こうすれば、かなり長い間日持ちするのだ。

 飯が炊け、各々、好き勝手に食事をし始める。藤田ふじた瑞喜みずきは、昼間の出来事が業腹で堪らないらしい。終始、柳眉を逆立てて、不機嫌な面であった。


 ふと、剣之助は顔を上げた。高木たかぎ玄蕃げんばが、眉間に皺を寄せ、腕組みをしていた。食事も喉を通らないようだ。

 剣之助は彼に近付き、


「先生、召し上がらないのですか?」

「うん? ああ、私ぐらいの歳になると、夜は要らないのだ。それよりお前達と対峙した森川とか申す男、相当な狡獪者だ」

「と、仰いますと」

「ウム。聞き及んだ風貌、話し方から察するに、彼奴は恐らく甲賀衆の末裔、それも元公儀御庭番だ。絶命隊の連中も、平民になりきれない隠密などを集めたのだろう。表には出せない裏の仕事……当に適役ではないか」


 高木は忌々しげに呟いた。自分達を狙う闇の軍団が、手練れの忍の集まりという事実は、今後の行動を制限されるには十分だ。彼の頭脳は今、如何に討手の眼を掻い潜るかで苦慮している。火光で彼の顔は、照ったり暗くなったりしていた。


 佐藤さとうかおるは、瑞喜が投げた礫の当たった場所が、瘤になってしまった。薬草を練って塗布した布を額に貼り付け、憮然とした顔付きだ。

 彼の関心事は、絶命隊ではないらしい。今も頭をさすりながら、


「隠密崩れの連中なんかより、あの薄気味悪い、藤田五郎とか云う男ですよ。針くらいに眼は細かったですし、何より殺気が物凄かったです。先生は誰か御存知ですか?」

「いや、寡聞ゆえ知らん。だが、警察で、そこまでの錬磨から推察すると、元は新撰組か見廻組辺りの俊傑剣豪だったのかもしれないな。東京府の方から、先の戦に警視庁の精鋭が駆り出されたとか」

「確かに、同士討ち連中か人斬り集団にいそうな男でした。額が砕けたかと思いましたよ……」


 薫は、忌々しげに舌打ちした。あの冷血な、吸血鬼然とした顔を思い出すと、傷が痛んでくる。

 そこへ、騒々しく急き込んできた男がいた。周辺の探索を命じられていた早瀬はやせ真蔵しんぞうである。十日余り、宿営にも帰らず、報せも寄越していなかった。しかも、服に返り血を付けている

 剣之助は彼の顔も見ず、焚火に目を落としたまま、


「何処で油を売っていた。お前が安穏としている間、俺達は頭の狂った元隠密共に追跡されていたのだぞ」

「なんだ釜田。いやに不機嫌だな。俺は安穏としていたわけではないぞ。良い話を聞いてきた」


 と、真蔵は重そうな袋を地面に投げた。心地良い金属の音がして、袋の口から硬貨がこぼれ出て来た。

 向かい側にいた岡田おかだ成政なりまさは、感心したように頷いた。


「大金だな。これを何処で手に入れたのだ?」

「手土産なきまま帰参致すのは恥と存じまして、氷川の宿場で大店おおだなを襲って参りました」

「ほう。素晴らしいぞ、大店といえば貧乏人に一旦甘い顔をしておきながら、札差みたいな貸し剥がしをやる連中。つまり、泥棒だ。泥棒から奪うのは罪ではない」

「見張りや巡査が追い掛けて参りましたが、全員、宿営の近隣に来る前に、斬殺して参りました」


 真蔵は人を殺す時や、それを誰かに話す時、殊に楽しそうな顔となる。喉を突いた際に空気と血が噴き出すのが云々と、今も喜悦にまみれた表情で語っていた。

 薫は、聞きたくないという風に顔を背け、


「そういう臆病風に吹かれた話、しない方が良いですよ。」

「臆病風? どういう意味だ小僧」

「そうとしか思えません。弱った虫を虐める狂った童のようです」

「そなたは相変わらず減らず口が得意だ。額に惨めな傷を付けておきながら云う台詞か。察するに、そこの女の背中に隠れていたのだろう」


 薫はいきり立って反駁しようとしたが、真蔵は野卑に哄笑し、彼を相手にする様子がない。

 剣之助は無表情な顔を真蔵に向けた。


「早瀬、良い話とは何だ?」

「オオ、小僧の所為で忘れてしまうところだった。明日の昼頃、銭を積んだ郵便馬車が平山から氷川に向かうらしい。何処の所属かまでは解らぬが、これを襲えば結構な稼ぎになる。そなたと俺でどうだ?」

「悪い話ではないが、お前は信用出来ん。以前も辞めろと合図したのに、鉄砲を撃って余計な闘いを招いた」

「ははは、そう言うな。そなたは、勇ましく義を重んじる剣客で保身を一番に考えるような男ではない。行くのか行かぬのか決めろ」


 剣之助は顎に手を当てて考えた。ここで断れば、岡田が誰か別の者を同行させるだろう。薫は断固として反対するだろうし、瑞喜の場合、真蔵が何をするのか容易に想像がつく。

 元より選択肢などなかった。そうでなくとも、今は稼業を選んでいる時ではない。剣之助は溜息をつき、


「参ろう。明朝、出立だ」

「ウム。そう来なくては。今から楽しみだ」


 真蔵は期待に胸を躍らせて、勇躍して去っていった。剣之助は何も言わず、彼の背中を見送った。


 ――夜半、丑の刻になった。梟と鈴虫が闇を彩る音楽を奏で、芒と蘆が揺れている。草木も眠っているかのような静寂だ。

 不意に、剣之助は眼を覚ました。鳥や虫の声に混じって、心地良い音色が響いていた。

 彼が本堂から出ると、廃寺の入り口、自然石の階段に座っている影が見えた。今宵の宿直の瑞喜である。結んだ髪を夜風に靡かせて、華奢な背中が月光に映えている。彼女は、座り込んで篠笛を吹いていた。心なしか、物寂しい音色である。


 剣之助は、彼女から少し離れたところに立ち、黙って音に耳を傾けた。少しして、気配を感じた瑞喜が振り向いて、


「あ……釜田殿。お寝みの障りになってしまいましたか?」

「いや、大事ない。それより、笛が巧いな。何処かで習ったのか?」

「……」


 瑞喜は沈鬱に俯いた。剣之助が不審に思って見ていると、彼女は肩を震わせ始めた。

 慌てて剣之助が横に行くと、瑞喜は紅涙をさめざめと流しつつ、


わたくしの……わたくしの兄が……よく吹いてくださったのです。これは、兄のものです」

「すまない、嫌な事を尋ねてしまった」

「あの日の、けだもの共の息遣いや手の感覚、無理に貫かれた痛みが、まだ躰に残っているのです。あれから時が止まったままで……薫殿や皆様と話さず、こうして一人になった時や眠っている時、忌まわしい事を思い出してしまうのです」


 最近、気丈になり始めたかと思ったが、矢張り苦痛は忘れ難いものらしい。

 瑞喜は努めて強盗に参加したり、剣戟に身を投じたりして、忘れようとしているようだが、身内を奪われた心の傷、それは容易に忘れられるものではない。


 瑞喜の実家は、彼女の高祖父の代に士分を捨て、商人となった。元が武士なので、子孫は代々、武芸百般や学問を厳しく躾けられた。瑞喜は女子だが、歳の離れた兄がいた。その兄が、両親がいないのを憂い、武芸を仕込んだのだ。

 そんな過去と血筋もあって、かなりの男勝りに成長した。だが、縛り上げられた兄の眼前で、抵抗も出来ずに玩弄され、兄も小者も喪った。その事実は、瑞喜の心に、暗い影を落としている。

 

わたくしの所為で……もうわたくしを大切に思ってくださる方はいない……何度も自害しようとしているのですが……」

「……君の所為ではない。だが、生き残った者の生涯は続いていく。瑞喜君のお兄様は、地下で君に何を望んでいると思う?」

「……」

「それが解るまでは生きていたらどうだ。その内に、君を第一に思い、苦楽を共にしてくれる者が現われるやもしれないからな……もう今日は眠ると良い。そんな状態では辛いだろう。どうせ俺は気楽な身、夜風に当たるのも良い」


 そう言って剣之助は、膝を立てて座り込み、佩刀を肩に立て掛けた。石段の脇、古びた蟷螂に凭れて項垂れた。

 瑞喜は蘭瞼まぶたを閉じたまま頭を下げ、ゆっくりと庫裡の方に去っていった。

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