闇の軍団
連絡係の制服を奪ってから二日後の夜。もう神無月なので、宵の闇は肌寒い。何処かで狼が、無月の空に向かって吠えている。
内ノ原の宿営にいる
自然は正直だ。人間の無意識の隙を逃さない。まず、薫の背中に木片がぶつかり、怯んだ額へ一撃がきた。薫が尻餅をつく。真っ赤な顔で泣きそうになった。また立ち上がって、背中を意識すれば、木片は肩と小手を襲ってくる。いずれも、実戦ならば致命傷である。
行水から帰った
「薫、隙だらけだ。自分の隙を自覚しろ。我武者羅に鍛えても上達は遠い」
「解ってますよ。でも、中々出来なくて」
「いきなり四人を相手に見立てるな。先ずは木片二つで馴れろ。それに、棒も長過ぎだ。身の丈が低いのだから」
「……そういう剣之助さんはどうなのですか」
薫は唇を尖らせ、不服そうに言った。拗ねてしまったようだが、元来可愛らしい顔なので、特に迫力というものはない。
剣之助は苦笑し、薫が持っていた棒を受け取った。そして、木片の中に立ち、正眼の構えを取った。隙は、ない。切れ長の眼が嶮になった。頭の先から爪先まで、一脈の殺気で満たされている。
薫が小走りに木片を打った。気儘な魚のように、木片が宙を舞う。夜霧を切る音。先ず二つが、剣之助の前後から襲ってきた。
後方。一瞬早く来た木片を、剣之助は素早く打った。息もつかず、身を廻す。振り向く勢いそのままに、前方に棒を見舞う。音は殆ど一つであった。
左右から木片。速度差、無し。右を向いて、すぐに下段から棒を振る。高い音。一瞬に満たぬ間にまた高い音。剣之助は、振り上げた棒を背中に廻し、後ろの木片も見ずに打ち上げたのだ。
彼が、四つの木片を打ったのは刹那であった。木片は、いずれも粉々に砕けていたので、薫は唖然として言葉も出なかった。
剣之助は涼しい顔で、
「解ったな。何事も段階を踏め。背伸びしすぎると、足元を掬われるぞ」
「ちぇっ。解りましたよ」
剣之助が微笑んで、薫の稽古を見てやろうかと思っていると、それは不意に遮られた。
「剣之助、薫、瑞喜君、来てくれ。仕事だ」
寒さ除けの外套を羽織っているが、矢張り野営は辛いらしい。薫は時折、小さなくしゃみをし、鼻を擦っていた。瑞喜は紅唇を閉じ、凜然たる表情で泰然自若としていたが、さりげなく焚火の側にいた。
岡田は一同の前に立ち、
「皆の者、面を上げい。これから旅客船を襲い、豪商共から銭を奪う。優先すべきは乗客の財布ではなく、船倉にある貨物だ」
「え、今からですか? もう二十二時ですよ」
「刃は多い方が良いのだ、薫。それとも、童には辛いかな?」
「な……違いますっ。僕は童じゃないですっ」
岡田に上手く煽られて、薫は憤懣を薪にし、メラメラと気概を燃え立たせた。瑞喜は横で表情を歪め、笑いを噛み殺していた。
岡田は、縁側に畳まれていた制服を指し示し、
「先ずはこれに着替えよ。もうすぐ予定の場所を通過するので、詳しい説明は馬上でする」
「き、着替えるんですか? 瑞喜さんも此処で?」
「ウム。羽織るだけなのだから、早くせよ。期待を抱いて、無念だったかもしれんが」
「な、何も期待してませんよっ。早くしましょう」
薫は、安堵したのか羞恥を感じたのか解らぬが、真っ赤な顔で逸早く制服を被った。剣之助は少年の言動に、半ば呆れながらも準備をした。
――闇夜である。夜雲から月暈が通る以外、明かりがない。古びた提灯を持つ岡田を先頭に、一行は夜道に馬を走らせた。
薫は不安で堪らないのか、しきりに口を動かした。相手は、後ろに乗る瑞喜である。
「それにしても瑞喜さん。この間は驚きました。飯屋でいきなり人を殴るから」
「当然です。
「それはそうですけど、あんなことばかりしていると、いつか殺されますよ」
「
意気を張り詰めている。無理をしている。剣之助には、そう感じられた。
以前から、瑞喜の澄んだ眼は、しっかりしていた。しかし、その眼の奥に、感情を籠もらせているようだった。薫は、それに気付いていないらしく、何か反駁しようとした。
剣之助は、二人の会話を遮って、
「そのくらいにしておけっ。もうすぐ着く。襲撃の方を考えておくのだ。岡田殿、計画は如何に?」
「ウム。下小泉の対岸に連絡所がある。そこでわしが灯りを振り回し、船を漕ぎ寄せさせる。投錨したら、皆で乗り込む。わしと剣之助は操舵手を片付けた後、乗客を脅して『寄付』を募る。薫と瑞喜君は、船倉に下りて貨物を漁れ」
「見張りはいないのですか?」
「船には少数しかいない。素早く行動すれば、余計な闘いをせずに済む。良いな!」
「御意」「はいっ」「承知」
と、三人が同時に応答した。闇に、馬蹄と声が谺した。
――連絡所は無人であった。これ幸いと、岡田は扉を蹴破って、中から最新のランタンを持ってきた。
やがて、球磨川の向こうから狭霧を裂いて、茫とした光が近付いて来た。朧気な火光を灯した船である。岡田はそれを見、桟橋に立って手持のランタンを振り回した。剣之助達も、三尺手拭で覆面した。
船上の水夫達は、人魂のような光を見て、何事かと集まった。岡田は甲板にいる四人に向かい、水面をよく通る大声で、
「船上の衆! 問題が起こった。長崎の港が海賊に襲撃された故、至急船を止めよという御命令だっ。賊共は何処にいるか解らぬので、早く漕ぎ寄せ給え」
「なに、海賊⁉ わ、解った。兎に角、そちらに行く」
「それと、乗客の皆様や乗組員の確認も命じられた故、乗員全員を甲板に集めて頂きたいっ」
水夫共は俄に狼狽えだし、慌てて舳先を変更した。二人ほどが、船内に消えてゆく。岡田は自らの巧言に、喜悦の色を浮かべていた。
船が、ゆっくりと漕ぎ寄せてきた。中規模の帆船である。投錨し、操舵手と刀を持った三人が下船した。恐らく彼らが、この船で上位にあるのだろう。
操舵手は憂いの表情で、
「海賊が出たというのは真ですか?」
「そうです。球磨川にも賊が連携しているのではないかという念慮の元、頭取が命令されたので……」
「頭取が? それはどういうことですか」
操舵手が疑惑の首を傾げた途端、岡田は拳銃を彼に突き付けた。「あッ」と後ろにいた護衛が言った時はもう遅かった。
物陰から剣之助が跳びだして、備前兼光を煌めかせた。闇から跳躍した勢いで、一人の首を斬り飛ばす。手首を返し、もう一人の肋まで斬り下げた。最後の一人。背中を見せている。逃げる気だ。逃がすものか。剣之助、跳足。着地と同時に刃を振るい、そやつの腰へ斬りつけた。
先程まで言葉を発していた部下達が、もう斬り斃されてしまった。操舵手は、すっかり震え上がってしまった。
薫と瑞喜は一路、船倉へ駆けていった。岡田と剣之助は、甲板で状況の飲み込めぬ乗客と対峙した。剣之助は、引き摺ってきた操舵手を、柄頭で撲ってみせた。
岡田は大袈裟な身振りと共に、
「諸君っ。わしらは強盗だ。大人しく、お持ちの銭や貴金属をお渡しくだされば、危害は加えぬ。武士に二言はない。しかし逆らえば、ここで失神した者のようになる」
「だ、誰が渡すか。お前達のような旧弊の食い詰め者にっ」
剣之助は、その者に
「何が問題だと申す? こちらは只、持ち物を寄越せと申しておるっ。しかも、今の言葉、武士の誇りを穢すものだっ」
と、鋭く言って撲りつけた。それを見た他の乗客は、先を争って岡田の袋に銭や宝石、懐中時計を詰めだした。洋灯の光に照らされて、貴金属は眩しく魅力的に見えた。剣之助達からすれば、綺羅星が手に入るようである。
乗客全員から略奪したところで、薫と瑞喜が船倉から上がって来た。二人も無事、乗客の貴重品を入手したようである。
岡田は哄笑し、
「諸君、礼を申す。英断のお陰でわしらも情けを起こしたのだ。誇りに思うがよかろうぞ。では皆の者、帰ろうか」
「各々方! 彼方から大勢が、馬で押し寄せて参りますっ」
瑞喜の叫びが、岡田の言葉を途切れさせた。何事かと思って見れば、丘陵の上に、無数の影が蠢いている。地面が一斉に動いたかの如く、丘が少し低くなっていた。かねてより、身を伏せていたのだろう。
敵だ! 剣之助だけでなく、他の者達も本能的に察知した。正体は不明だが、船上にいては全滅だ。四人は船から飛び降りて馬に乗り、岡田が、
「行こう! 彼奴らを撒くぞ!」
と、下知して全速力で駆けていった。剣之助も、薫と瑞喜も後に続く。
空気が、肌に刺さる。黒装束の集団は、無言で追って来た。横に、馬の顔。
戛々と十合打ち合い、剣之助が敵を斬り落とした。敵が強い。今まで戦ってきた者達に比べれば、遙かに骨がある。殺気。後方にいる。剣之助は、身を窄めた。槍。髪をかすめた。刀を後ろに払い、確かな手応えを感じた。しかし、すぐに新手が補われる。
黒装束の集団は、整然な隊伍を組んでいた。その上、個人の練度も高い。薫の後ろにいる瑞喜は、懸命に敵と斬り合っている。身の数カ所に傷を受けていた。
岡田は先頭で、時折後ろに発砲し、敵を威嚇していた。駆け続ける。敵の数は解らない。敵との距離も解らない。一つだけ言えるのは、止まれば死ぬということである。
薫は片手の拳銃で、敵を次々に射殺していた。闇に目が慣れてきたのだろう。眉間や左胸、敵の急所を正確に撃ち抜いている。一瞬、雲間から月が覗いた。白い月光に照らされた顔は、壮絶なものであった。
「皆の者! 馬脚を緩めるなっ。跳ぶぞ!」
岡田が叫んだ。剣之助は前を見た。谷が見えた。深淵が、口を開けている。近付いて来る。馬腹を更に蹴った。
馬は剣之助を乗せたまま、空を飛んだ。正確には驚いて谷を跳び越えたのだが、傍からは、急に舞い上がったように見えただろう。
四人が、谷の向こう側に着いて振り向くと、追手の黒装束達は、続々と谷へ墜落していた。後から来た者達が脚を止めたので、岡田は剣之助達を促して、夜の廣野を遁走していった。
八丁山の麓辺りまで駆け抜けて、一行は駒を止めた。後ろには、もう誰もいない。漸く剣之助は息をつき、
「危なかった……。何とか撒けたな」
「も、もう追って、きません、よね……。死ぬかと、思った……」
薫は満身を汗でしとどにし、ぐったりと馬の鬣にうっ伏した。茹で蛸のように顔が真っ赤である。瑞喜も額の汗を拭い、自分と薫の傷を看始めた。
剣之助は、岡田の方を見て、
「あの連中は何者だったのでしょうか? 尋常ではありません。まさか、あの旅客船自体が罠だったのでしょうか」
「解らん。確かに不気味だ。だが、わしらには大金が必要だ。野垂れ死にして、武士としての名を穢してはいかん。動じるな、わしらは勇ある侍だ……兎に角、此処からは各自で宿営に帰ろう。尾けられないよう、注意せよ」
「はっ」
岡田は、略奪品を入れた袋と共に駆け去った。瑞喜は、疲労困憊で眠ってしまった薫と交代し、北西へ駒を走らせていった。後には、陰鬱な夜闇が残っただけである。
剣之助も、それ以上は熟慮せず、小走りに宿営へ向かっていった。
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