気晴らしと下準備

 釜田剣之助かまたけんのすけ達が宿営に戻ると、高木玄蕃たかぎげんばが帰っていた。肩まで伸びる鬢に、白いものが混じった老翁は、沈然とした様子で木陰に座り、蘭語の軍学書を読んでいた。

 硝子の破片が踊るような木漏れ日を浴びる高木は、何処かの隠者にも似ている。しかし、顔付きは、最近常に嶮しいものだ。

 剣之助は、藤田瑞喜ふじたみずき佐藤薫さとうかおるに、購入してきた物資の搬入を任せ、高木に近付いた。


「高木先生、只今帰りました」

「ウム。何か、銭になりそうな情報はあったか?」

「はい。近々、球磨川を下る船と、政商が建てた銀行……とかいうものです」

「おや? 剣之助、銀行とは何か教えた筈だぞ?」


 高木は剣之助を揶揄い、自分の隣に座らせた。剣之助の書留を見ながら、更に詳しい説明を聞いた彼は、地図を広げた。

 古びた地図にはもう既に、細々とした地形だったり村落だったりが記されている。高木の蔵書の知識もあるが、数日でここまで精密に調べ上げた凄まじさに、剣之助は思わず舌を巻いた。


「調べてきたのは良いが、相変わらずお前は適当だな。良いか? 銀行と喧伝しているが、実際には銀行ではない」

「そう仰いますと」

「異国で銀行、バンクというのはだな、顧客から金を預かり運用して利益を挙げる。時折、政府から紙幣を印刷する仕事を依頼されることもある。日本では東京府の第一銀行だ。だが、この近くにある『銀行』はただ、三菱商会の金塊や銭を収めているだけだ」

「成る程。つまり、只の蔵ですな」

「初めて知ったような顔をするな。またいつか、一から講義しなくてはな……」


 高木は、放蕩息子に呆れた父親みたいな表情で、今度は球磨川の方を指した。大河に沿って、幾つかの停留所が記されている。

 高木は、その内の一つを示し、


「確かに旅客船は鹿児島から逃亡する金持ちが多い。しかし、海ではなく川の上だ。両岸を固められたら逃げ場がない。そこで此処だ」

「休憩所?」

「我々は船会社の者になりすまし、事故が起こったと見せ掛けて、此処に船を停泊させる。そして一気に乗り込んで素早く乗客から金を奪い、逃亡するのだ」


 次に彼は街道の一つをなぞりながら、


「定期的に連絡の者達が此処を往来する。大抵、四人一組なので、お前と岡田、薫と瑞喜君で奪った隊服を着用すれば良いだろう」

「承知しました。では早速、連中の隊服を奪って参ります」

「待て。偶には私も参ろう」


 高木はそう言って立ち上がり、剣之助と肩を並べて馬の繋ぎ場まで歩いた。薫と瑞喜の乗馬以外は、全て南部馬である。これは日本の在来馬の一種であり、木崎や有戸辺りで盛んに飼育されていた。しかし、軍馬として混血が進んだ結果、純血種は明治の終わり頃に絶滅した。

 草を食んでいた馬に跨がり、剣之助と高木は、速歩で駆けだした。高木もどうやら、書物と睨み合うのに鬱屈していたようである。


 やがて、麓に下り、地面が平坦になった。鞍上、揺られながら高木は馬を撫でた。傍らにいる剣之助に眼をやって、


「心配していたが、巧く乗りこなしているようだ。薫はたどたどしいが」

「岡田殿にみっちりと仕込まれました故。弓馬は岡田殿、学問は高木先生。お二方は父上のような御方です」

「そうだ、覚えておるか? 薫が初めて馬に乗った時だ。確か六つの頃だった」

「ええ。跨がった後、あれが読本か講談の真似をし、馬腹を唐突に蹴ったので、驚いた馬が走り出したのでしたな」


 思い出しながら、剣之助はそぞろ笑いを漏らしていた。幼い日の故郷を思い返し、霞を見ているような心地がした。

 今度は高木が話を続け、


「ウム。それで、森の中に消えてしまったので、男も女も総出で夜半まで捜したが見つからなかった。それで一旦帰参してみれば、もう馬は厩に帰っていて、薫は藁の中で泣き疲れて眠っていたな」

「左様でしたな。他にも畑で土竜と出くわして腰を抜かしたり、水と間違えて酒を呑んで酩酊したり……彼奴といると退屈しませんでした。ですが、このままでは薫はいつ討たれるか解りません」


 剣之助は、潜伏している山を顧みるようにして言った。

 高木は、彼の言葉を一蹴するように、


「そう言うな。薫はお前にはないものを持っている。瑞喜君が彼奴とよく話すのも、それのお陰だ。彼奴には天恵がある」

「しかし、天の恵みがいつまでも続くとは限りません」

「大丈夫だ。それに、銭さえあれば何時でも立ち直れる。だが、分捕った太政官札は容易には売れん。幾つか案はあるが、まだ危険だ」


 そこで会話を打ち切って、暫く二人は、無言で馬を進めた

 

 黄昏時になった。山間に真っ赤な陽が沈んでいき、山は影絵になっている。薄明と暗闇が同居した空は、現世と黄泉の狭間のようである。

 高木は、街道の脇で座り込んでいた。言葉は、発しない。彼は煙管を吹かせながら、じっと目標の一隊を待っていた。

 来た。戛々と馬蹄を鳴らしながら、四人が近付いて来る。筒袖の制服を着て、帽子を被っていた。連絡係とはいえ、長い距離を暗がりで歩くので、全員、何処か気怠げだ。


 高木は、飄々とした笑顔を浮かべながら近付いて、ひどく軽薄な口調で、


「やあ、お役人様。これから何処に行かれるのですか?」

「何だご老人。官の役人ではないが、役目の途上だ。悪いが、またにしてくれ」

「おや? これは失礼致しました。ですが、だいぶ疲労のご様子。官人ではないのでしたら、そう厳格というわけではありますまい。いかがですか? 小休止なさいませんか? 一人で寂然と酒を呑むのはつまらないもので」

「酒か……」


 もう陽が暮れて、辺りは夕闇に包まれていた。高木の後ろで赤々と燃える焚火が、闇の中で魅力的に見えた。

 隊長らしき者は、後ろの三人を振り返った。酒と聞いて、全員チラチラと彼を見ていた。隊長も肌寒さを感じていたし、薄給なので安酒しか買えない身である。


「では、少しだけ。恩に着る。皆、少し休むぞっ」


 と、隊長の号令で、残りの者も喜悦の声を上げて馬から降りて、思い思いに酒を呑みだした。

 高木は酌をしながら、


「御存知ですか? 今回の合戦の総帥の西郷は、かつて朝鮮を征伐しようという意見を政府に具申したとか」

「ああ。う、噂では、そうらしい、確か、西郷卿は対等な貿易を望んでいたとか」

「そう云われておりますが、或る人は、ただ彼が朝鮮を征服して大陸進出の足掛かりにしようとしていたと唱えているのです。西郷が自分で大使を名乗り出て、敢えて殺されようと云っていたとも。英米が日本を手先にし、朝鮮を開国させようと裏で動いていたなどとも」

「ほ? 面白い話だ」


 高木の説話に、四人は耳を傾けた。もう酔いは、だいぶ廻っている。

 不意に、物陰から覆面した剣之助が跳びだしてきた。右手めてに、備前兼光を下げている。眼前に一人。赤ら顔で座っている。左手ゆんでを伸ばし、襟髪を引っ掴む。剣之助は、彼の喉元に刃を翳した。

 残りの三人は「あッ」と間抜けな声を出した。狼狽して武器を探したが、帯剣は既に、高木に捨てられてしまっていた。剣之助は大声で、


「動くな! 強盗だっ」

「ま、待て。我らは銭などないぞ。ただの船の連絡係だ」

「ふふふ、銭など期待しておらん。服を脱げ」

「ま、まさかお前達、そういう趣向の」

「黙れ! さっさと脱げ」


 隊長始め、部下の連中も震えながら隊服を脱ぎ、褌だけの赤裸となった。「よろしい」と剣之助は短く言って、刃を返し、全員に峰打ちを喰らわせた。

 身体を守る物もなく、素肌を直接打たれては堪らない。四人は忽ち白目を剥いて気絶した。

 高木は奪った隊服を馬に積み、剣之助も赤裸の四人を捨てて馬に跨がった。そのまま彼らは、馬を襲歩で走らせた。


 馬を走らせている内に陽が沈んだ。秋の名月は皎々と輝いて、廣野は真昼のようである。芒の枯れ野を走りながら、剣之助は、


「先生、岡田殿は今後、どうなさるおつもりなのでしょうか?」

「彼奴は暫く此処にいて、銭が貯まったら移動するつもりだ。今の我々はただの無宿人だ。しかし、まとまった銭を稼いで何処かに土地を買い、そこで私達と共に、晴耕雨読の暮らしを送るつもりらしい」

「左様ですか。そんな土地があるのですか?」

「まだ土地の所有者を示す地券は全国に波及していない。配布された地域でも、元の地主が首の回らなくなった貧農から地券を巻き上げるような有様だ。銭があれば、如何様にも出来る」


 剣之助はただ頷いた。故郷から遠く離れ、先の見通しの立たぬ状況では、蜘蛛の糸にも満たぬ希望に縋るより他、何も出来ることは無かった。

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