北へ……

 三菱商会の商船を襲撃してから数日後、釜田剣之助かまたけんのすけ達は、久木野を進んでいた。鹿児島と熊本の県境から、少し北にあるこの場所は、阿蘇山脈の中の盆地であり、長閑な田園が広がっていた。蜻蛉や蟋蟀が暢気に飛んでいる。

 寒川を越え、一路、八代を目指す一行は、ここ一週間ほどの難儀から一転、平穏な時を過ごしていた。見渡しても、緑色の絨毯にも似た田畑が広がるのみである。木々に覆われた彼方の山々は雲を刺し、雄大な自然を感じさせる。

 佐藤薫さとうかおるは輜重で、手綱を握ったまま欠伸を漏らした。横には、小柄な馬が離れずに歩いている。彼が、適当に藤田家の厩から選んだこの馬は、藤田瑞喜ふじたみずきが仔馬の頃から育てていたので、片時も彼女から離れない。


 やがて薫は、暇に耐えかねたようで、前の輜重にいる高木玄蕃たかぎげんばへ、


「先生、先生、後どのくらいで着くんですか?」

「もうすぐだ。明日の昼過ぎには着くだろう。全く、昨日から、暇だのいつ着くのだのと……。少しはその口を閉じていたらどうなのだ」

「瑞喜さんは昨日から何だか不機嫌ですし、剣之助さんは難しいお顔ですから」


 すると、最後尾にいる早瀬真蔵はやせしんぞうが、不意に笑い出した。彼もまた、暇に飽いて酒を呑んでいた。

 何事かと他の連中が振り返ると、


「ははは、小僧。そなたは矢張り未熟な小童よ。ウム、理解しておらん」

「何がですか、早瀬さん。猥談なら遠慮させて頂きます」

「そう言うな。顰めっ面の釜田はどうでも良いが、何故、藤田が不機嫌なのか、俺には解る」


 揶揄された剣之助は、眉間に皺を寄せたが、薫は興味深そうに頷いた。

 赤ら顔の真蔵は、下卑た笑いを見せ、チラリと瑞喜を見た。彼女は、軽蔑の眼差しを彼に注いでいる。元々、二重の猫目なので、彼女が眼を顰めると、射竦めるばかりの眼光になる。

 真蔵は胸を反らし、自信たっぷりに、


「ふん、それはだな、今が」「止めないか!」


 剣之助が何かを察したらしく、慌てて会話を遮った。相変わらず邪魔をしてくる剣之助に、真蔵は頗る不機嫌だ。

 先頭で聞いていた岡田は、


「真蔵、わしと一緒に先駆けし、隠れ場所の物見をしてこよう。地図と方位磁針はある。奇襲を受けてはいかん」

「御意。おい、小僧。今度、じっくりと教えてやる。穢れだ穢れ」


 そう吐き捨てて、真蔵は岡田と共に、馬蹄を鳴らして駆け去った。剣之助は、溜息を付いて彼らを見送った。


 一人、薫は理解出来なかったようで、瑞喜と剣之助を交互に見て、


「結局、何故ですか?」


 と、あどけない顔で質問した。剣之助は、それを聞いて、


「愚か者っ。暫く歩けっ」


 と、彼を輜重から引き摺り下ろしてしまった。


 薫は救いを求めて瑞喜を見たが、彼女は変わらず、不快そうな表情だ。


「御自分でお考えください。貴殿も早瀬殿も無礼なことには変わりません」

「そ、そんな……」

「反省したら乗せて差し上げます」


 そう言うや否、瑞喜はと顔を背けてしまった。

 

 ――二刻 (四時間)ほど北へ進むと、薫が音を上げてしまったので、高木の指示で、一行は開けた木陰で小休止することにした。

 薫は、もう仰向けになって荒い息である。剣之助は、うっすらと滲んだ汗を拭き、平穏な大空を仰いだ。鷹が飛び、逃げる小鳥を捕えていた。

 すると彼は視界の端に何かを見た。


「あれは……?」


 剣之助が見た先は、鬱蒼とした斜面である。叢生した樹木に阻まれて、昼間でも暗い場所である。

 そこに人間が三人いた。いずれも、垢まみれの襤褸ぼろを着て、小汚い顔である。剣之助が見ていると、向こうも眼を離さない。

 彼は横に座っていた高木の袖を引き、彼方を指差して、


「高木殿……あれは?」

「うん? あれは……ああ、山窩だ」

「サンカ?」

「山の中や遺跡、拠点を移動しながら生きる連中で、狩りだったり、行商だったりで暮らしている。だが、今も残っていたとはな。彼らも酷い圧迫を受けているからな」


 この時代、山窩の者達は政府に追われ、居住していた山の近くにある村や町へ定住させられていた。戸籍を整理して地租納入者を把握し、国民皆兵を徹底するためであった。

 山窩に関しては、日本の原住民だという識者もいれば、戦災を逃れた者達の子孫だという論者もいる。


 剣之助が手を振ると、彼らはと山中に駆け戻っていった。剣之助は話題を変え、


「岡田殿は、いつまで隠れているおつもりでしょうか?」

「さあな……。もう三十年以上の付き合いだが、最近の岡田は変だ。妙に焦っている。今回は良かったが、このように危うい逃亡がいつまでも続けられる筈がない」

「しかし、ここで死んでは犬死。動じていては大義は為せませぬ。君、君足ラズトモ臣ハ臣足ラザルベカラズ、と云うではありませんか」

「そうかもしれんな。私は、せめてお前達が無事でいてくれれば良い」


 高木は立ち上がり、


「早くしないと、日が暮れてしまう。もう少し進みたい。瑞喜君、その阿呆を許し、乗せてやってくれ。引っ叩いても構わんぞ」


 そう言って、彼はまた輜重に乗り込んだ。


 ――また数日が経って、剣之助達は、八代から二里ほど離れた高台に到着した。そこは眼下に八代の町並みを見下ろす位置にあり、街道からも離れた場所である。

 自然石の階段を上ってゆくと、打ち棄てられた小さな仏寺がある。政府が天皇の敬意を高める為に発布した布告を受け、神職や民衆が起こした廃仏毀釈は此処にも波及していたのだ。

 仏像もなく、仏具は散乱していた。伽藍の中は荒寥とし、小動物の住処となっていた。先に到着していた岡田は、剣之助達を見つけると、


「オオ、やっと来たか。集まってくれ」


 と、彼らを庭に集め、自分は少し高い縁側に立ち、こう演説した。


「良いか。わしらは生き延びた。最悪の状況は脱したが、今は試練の時だ。見知らぬ土地で、資金も知り合いもない。今こそ耐えるべき時だ。此処で金を稼ぎ、また移動する。だが、忘れるな。わしらには誇りがある。誇りを、強く持て。そうすれば、どんな苦渋にも耐えられよう」


 それが終わると、剣之助達は輜重から米俵や武器を下ろし、本堂に運び込んだ。本堂は岡田を始めとした男共、隣にある僧堂が瑞喜の宿所となった。

 漸く屋根のあるまともな宿を得て、剣之助は少し安堵していた。

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