逃亡

 先程までの土砂降りは、驟雨だったらしい。神が、惨鼻極まる戦場を憐れんで、落涙されたかのような天気から一転し、今は澄み切った秋の夜空となった。

 雲が無い。昼間の硝煙も土煙も、通り雨が流してしまった。上質な黒絹に、宝石を散りばめたような夜空を仰げば、氷輪の月が見える。


「全く、人間のやることは素晴らしいよ。俺が言えることではないが、虚しくなってくる」


 釜田剣之助かまたけんのすけは、昼間の激戦を思い出しながら、皮肉交じりに呟いた。何千発もの砲弾を使っていた時は、城山の空が隠れるほどだった。しかし今は、何事もなかったかの如き静寂だ。

 剣之助は、佐藤薫さとうかおるの肩に手を廻し、友を助けて歩き出した。彼は、絶えず耳元で短く呼吸する薫が気になって、


「大丈夫か、しっかりしろ。瘡は浅いぞ」

「うう……瘡は何でもありませんよ。でも、でも、こんなにあっさりと負けたのが情けなくて」


 薫は、勇猛果敢で、戦いの専門家である筈の武士達が、徹底的な壊滅に遭ったことを、今でも信じられずにいた。元より色の白い顔は、月より蒼白かった。

 取り敢えず二人は、城山から離れ、玉里の方へ向かって歩き出した。なるべく人目につかないため、鬱蒼とした林や茂みの中を通っていく。泥にまみれ、蛇や虫が身体を這いずり回るのが解る。

 勿論、歩きやすい開けた道を行けば、敗残兵狩りに遭う。剣之助らは、今や、お尋ね者なのである。


「さっきの雨で、敵軍も途方に暮れてれば良いのだがな。もたもたしていては捕まるぞ」

「腹が満たされて、身体さえ元気なら、百姓上がりの兵隊なんて、僕が斬り捨ててやりますっ。こんな風にっ」

「莫迦者。静かにしろ……」


 若者らしく、鋭気だけ闊達な薫を叱りつけ、剣之助は足を動かした。梟の声が遠くから聞こえてくる。

 剣之助はふと、顔を上げて、眼下に広がる町を見た。激しい戦闘の余波で、灯りを点けている家や街灯は少ないが、彼の覚えている夜の町とは違っていた。


「少し前までは、こんな時間になると宿直の番所以外真っ暗で、月明かりしか無かったのにな……文明か」

「え? 剣之助さん、何か言いましたか?」

「いや、何でも無い。歩こう。早くしないと、夜が明ける」


 秋月を反射して、銀色になった芒の原を通りながら、二人は暫く、無言で歩いた。山から下りると、流石に官軍の見廻りがいた。彼らの視界を避ける内、玉里方面に向かっていた筈が、いつか、方向も解らなくなっていた。

 野原を出ようとした時、官兵が五人、剣之助と薫の視界に入った。はッとして、二人は素早く身を屈めた。叫び声。官兵達は、物陰から誰かを引き摺り出していた。

 見ればそれは、落ち武者となった味方であった。剣之助達と同じように、城山から逃げようとしたが、捕縛されたものだ。


「剣之助さんっ」

「待てっ。相手は五人だ。様子を見よう」


 剣之助はそう言って、薫を左腕で制した。右手は、帯に差した備前兼光びぜんかねみつ二尺八寸の大刀に伸びていた。薫も、脇差の鯉口を切っている。

 (奴らが男に縄を打って、少し離れたら斬り込むぞ)と、剣之助は薫に合図した。薫も、細い唇を結んで頷いた。男は、流石に観念して神妙な面持ちだ。


「解った。乱暴は止めろ。私の、武士の志を、裁きの場で聞いて頂く」


 男は、堂々たる態度で、毅然とこう言った。

 芒に身を潜め、剣之助達は、殺気と鬼気を抑えて、機を窺った。


 だが、躍り出して斬り込むまでもなかった。ドン――心胆をぎょっとさせる音が一つ、夜闇を貫いて響き渡った。捕えられた男は、斃れた。

 「あッ」と呆気に取られたのは剣之助と薫。頭に小石ほどの穴が空き、先程まで泰然としていた男は、もう死んでいた。

 官兵達は、「巧いな」「次は俺にやらせろ」などと、和気藹々、笑って語らいながら去っていった。薫はその背中に向かって、


「何て奴らだっ。潔く戦って、降参しているのに狩りの獲物みたいに殺すなんてっ」


 猛然と飛びだそうとした。剣之助は、慌てて彼を羽交い締めにし、


「待てっ。俺達まであいつと同じ憂き目に遭う。それは匹夫の勇だ」

「離して――むぐっ」


 剣之助は、血気盛んな少年を懸命に押さえつけ、口を塞いで宥めすかした。

 数分経って、薫は少し落ち着いた。彼は涙を流しながら、射殺された男に手を合わせ、剣之助に付いていった。

 暫くして薫は、


「ごめんなさい。また、剣之助さんに迷惑かけてしまって」

「いや、謝るのは俺の方だ。西郷さんが決起したと聞いたとき、正直、しめたと思った。もう秩禄は無いし、父上が唯一残してくださったこの刀も、取り上げられる時代だ。だからせめて、最後に、政府の連中に逆らって死のうと思ったんだ」

「僕だって、僕だって……!」

「俺も、最初は都々逸の真似をして、頭を散切にしてみたり、仕事を探してみたりしたが、結局これだ。こういう生き方しか出来ぬのだ」


 剣之助の口調には、何処か諦観が混じっていた。濡羽色の総髪が色無き風に靡き、切れ長の眼が、遠くを見つめている。

 薫は、いつの間にか生気を取り戻し、歩調も、しっかりとしたものになってきた。剣之助は彼に眼をやって、


「お前に今回の挙兵の話をしたことは、今でも後悔している。こんなことに巻き込んでしまい、こうして惨めに逃げることになった。恐らく、高木先生や岡田殿も生きてはいないだろう……」

「そんなこと、誰も剣之助さんの所為にしませんよ。兎に角、僕は侍の魂も名誉も命も奪った大久保や岩倉が憎い」


 二刻ほど歩いた。二人は、廣野の一角に立っていた。眼の及ぶ限りの萱であり、街道からは大きく外れ、人の気配がない。

 剣之助が、辺りをゆっくり見ていると、不意に薫が、声を弾ませて、


「あ! ずっと向こう。見てください、焚火です。誰かいますよっ」


 と、彼方の紅い点を指差した。

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