16年ぶりの再会が二人の人生を変えた

春風秋雄

こんな偶然があるのか!

間違いない。あの家族連れの母親は浅羽瑞樹だ。あれから16年も経っているので、多少容姿は変わっているが、俺が見間違うはずはない。俺は一瞬、幻想を見ているのではないかと思った。久しぶりに思い出の伊豆高原にきたので、瑞樹の幻想を見たのだと思った。しかし、どう見てもあれは幻想ではなく、本物の瑞樹だ。どうしてこんなところで会うのだろう。確かにこの旅館は昔瑞樹と一緒に泊った旅館だ。その時瑞樹はこの旅館を気に入っていた。だから家族旅行でこの伊豆高原に来れば、気に入ったこの旅館に泊まるのはありうることだ。しかし、よりによって俺たちと同じ日に泊りに来るのか?

「お父さん、どうしたの?」

ボーっと突っ立ている俺を見て長女の瑞穂が尋ねた。

「何でもないよ。綺麗な旅館だなと思って」

「そうだね。綺麗な旅館で良かったね」

瑞穂は嬉しそうにそう言って、俺の手を引いて妻の明奈と長男の孝太がいるところへ連れて行った。


俺の名前は久野竜彦。大学を出てから親父が経営する久野設備工業に入り、3年前の36歳の時に代表取締役社長になった。今日は妻の明奈と小学3年生の長女瑞穂、小学1年生の長男孝太を連れて、家族旅行で伊豆高原に来ていた。旅行先を伊豆高原にしたのも、宿泊の旅館をここにしたのも妻の明奈だった。旅行雑誌を見て決めたらしい。旅館の名前を聞いて、俺は一瞬ドキッとした。昔瑞樹と泊まったことがある旅館だったからだ。

俺と浅羽瑞樹は、大学のゼミで仲良くなった。一人っ子だった俺は、親父の会社を継ぐことが決まっていたので、大学では商売の基本を学ぼうと商学部を選んだ。瑞樹は実家が病院で、将来は一人っ子の瑞樹が医者の婿養子をもらい、病院経営をする予定だったので、俺と同じ理由で商学部で学んでいた。

お互いに将来は実家を継がなければならない立場だったにもかかわらず、二人は恋に落ちてしまった。ゼミの飲み会で意気投合して、二人で食事に行ったり、遊びにいくうちに男女の関係になった。最初は大学を卒業するまでの、青春の一ページを飾るつもりで付き合い始めたが、日を追うごとに俺は瑞樹を本気で好きになってしまった。それは瑞樹も同じだった。夏休みに実家に帰り、親父に俺が会社を継がないと、会社はどうなるのかと、それとなく聞いた。

「その時は、会社をたたむしかないよな。250名の社員が路頭に迷い、多くの取引先が連鎖倒産するかもしれないけど」

「社員の中で社長にしようと思える人はいないの?」

「代表取締役は銀行融資の連帯保証人にならなければならない。すでに数億円の融資を受けている。うちは上場企業ではないから、社長になるということは、そういうことをすべて背負うということなので、引き受けてくれる社員はいないだろう」

会社経営とはそういうものかと思った。もちろん、俺が会社を継がないと決心したとしても、俺は医師免許を持っていないので、瑞樹の婿養子になることは出来ない。

同じころ、瑞樹も両親に聞いてみたそうだ。瑞樹の実家の病院は、代々続く大きな病院らしく、浅羽家以外の人間が病院を継ぐなんて話は論外だと、にべもなく話は終わったそうだ。

まるでロミオとジュリエットのような二人の境遇が、二人の恋を深めていくのに拍車をかけた。幸い二人とも実家は裕福だったので、それなりの額を仕送りしてもらっている。卒業までの限られた時間を二人の思い出作りに費やした。月に1度は旅行にも行った。全国の様々なところに、二人の足跡を残した。しかし、時の流れは止めることが出来ず、二人は卒業して、各々の実家へ帰った。実家に帰ってからも、連絡は取り合い、2~3か月に一度は1泊の旅行をした。実家に帰って1年ほどした頃に、瑞樹のお見合いが決まった。いよいよ本当のお別れの時が来たのだと思った。俺たちは、最後の思い出にと、伊豆高原に旅行をすることにした。そして、その時に泊ったのが、この旅館だった。


俺は、何とか瑞樹と話が出来ないかと、家族の目を盗んで旅館の中を歩き回った。しかし、そんなに都合よく出くわすわけがない。向こうも家族で来ているのだから、一人で行動することはないだろう。

孝太と温泉につかったあと、部屋で食事をとる。海の幸が美味しい。俺はそれほどお酒は飲まないので、食事のあとに一人でもう一度温泉につかりに行った。誰もいない温泉につかっていると、16年前のことが思い出される。この風呂場も変わっていない。そして、俺はふと思い出した。たしか、風呂上りに瑞樹と二人で裏庭のベンチに座って夜空を見ていた。俺は急いで風呂を出て、裏庭に向かった。すると、ベンチに一人、ぽつりと座っている女性がいた。瑞樹だ。俺は隣のベンチの瑞樹が座っているベンチに近い端に座った。

「久しぶりね」

瑞樹がこちらには向かずに話しかけてきた。

「元気そうだね」

俺も真っ直ぐ前を向いたまま話しかける。

「お陰様で。でも、こんな偶然ってある?」

「驚いたよ。でもすぐにわかった」

「私も。竜彦の顔を見た時は、心臓が止まるかと思った。でも、嬉しかった」

「俺は嫁さんが勝手にここを予約したのだけど、瑞樹は自分でここに決めたの?」

「そう。もう一度来てみたかったから」

「お子さんは二人?」

「うん。長男の竜実が中3で、長女の美樹が中1」

「タツミ?」

「竜彦の竜という字に、実で竜実」

「俺の名前からとったの?」

「ありえないよね」

瑞樹はそう言って笑った。

「竜彦のところも二人だね」

「長女の瑞穂が小学3年生、長男の孝太が1年生だ」

「ミズホ?」

「はは、俺も瑞樹の名前から1字とった」

「お互いに、とんでもない親だね」

「まったくだ。一生誰にも言わないつもりだったけど、瑞樹本人なら言ってもいいだろ」

「私、来月の中旬に病院経営者の集まりがあって甲府へ行くの。あのホテルに泊まるつもり」

あのホテルとは、俺たちが大学生活最後の旅行で行ったホテルだ。周りの景色が見渡せる露天風呂が部屋に付いていた、とても綺麗なホテルだった。

「来月のいつ?」

「第3土曜日の昼間に会合があって、金曜の夜から泊まって、みんなは土曜日に帰るけど、私は土曜日も泊まる予定」

これは、俺を誘っているのだろうか?もし誘われているのなら、行きたい。

「俺も、久しぶりにあのホテルに行ってみたいな」

初めて瑞樹がこちらを見た。俺も瑞樹を見る。目が合った。39歳になっても、瑞樹は変わらず美しい。

「じゃあ、私は部屋に戻るので、元気でね」

瑞樹はそう言って館内に入っていった。


翌日俺たちがチェックアウトのためロビーへ行くと、先に瑞樹の家族がチェックアウトをしていた。俺がフロントに近づくと、ちょうど瑞樹家族のチェックアウトが終わったところだった。瑞樹が振り向いて俺に気づいた。しかし、瑞樹は少し頭を下げただけで何もなかったようにその場を去った。周りから見れば、お待たせしましたと会釈した程度にしか見えなかっただろう。


瑞樹が、会合があると言っていた日の夕方に、俺は甲府のホテルにチェックインした。妻には学生時代の友達との集まりがあると言って家を出た。学生時代の友達との集まりには違いないが、まさか集まりが女性と二人だけとは思っていないだろう。瑞樹は昨日から泊まっているはずだが、どこの部屋に泊っているかはわからない。出来たら夕食を瑞樹と一緒にしたいと思っていたが、どうやって俺がきたことを伝えれば良いのだろう。フロントに伝言を頼むしかないのだろうか。この前連絡先を聞いておけばよかったと思った。仕方ない、フロントに電話するかと思ったときに、部屋の呼び鈴が鳴った。ドアスコープで外を覗くが、誰もいない。いたずらかと思ったが、念のためドアを開けると、勢いよく人が入ってきた。瑞樹だ。瑞樹は俺に抱きつき、ベッドに押し倒した。

「瑞樹・・・」

「来てくれたんだ」

「どうしてこの部屋だとわかったの?」

「久野竜彦が予約を入れたら、私の隣の部屋にしてと頼んでいたの。そして、久野竜彦がチェックインしたら教えてとフロントに頼んでいたの」

そういうことか。

「会いたかった」

俺がそう言うと、瑞樹は目を潤ませて「私も」とつぶやいた。

それからは言葉はいらなかった。俺たちは16年の時を埋めるように、時間も忘れ、お互いの体を求めあった。


夕食は、学生時代に泊った時と同じように、ホテルのレストランで食べることにした。

「あの日、会合でここに泊まると俺に言ったのは、俺に来てほしいということだったのだろ?」

「来てほしいとは思ったけど、本当に来てくれるかどうかは半信半疑だった。竜彦も家庭をもって、幸せそうに見えたから」

「俺は聞いた瞬間に来たいと思ったよ。瑞樹は今幸せなのかい?」

「世間一般から見れば幸せなんでしょうね。病院を経営して、二人の子供に恵まれて。でもこの16年間、心の中にはずっとポッカリ穴が開いた状態だった」

「そうか、俺もそうだったよ。子供は確かに可愛いけど、瑞樹と別れてからの人生は、自分のためではなくて、会社のため、社員のための人生だなと、ずっと思って暮らしていた」

「本当だね。自分の子供には、そんな思いをさせたくないなと思う。竜実は今のところ医学部に行くとは言っているけど、他にやりたいことがあれば、させてあげたい。病院なんか、売っぱらっちゃえばいいんだから」

「そうだね。俺も自分の子供には、好きなことをやらせて、好きな相手と結婚させてあげたいと思うよ」

俺たちは、食事が終わると、瑞樹の部屋に行った。俺の部屋より広く、ダブルベッドだった。そして、学生時代に来た時と同じ、露天風呂の付いた部屋だった。俺たちは露天風呂に入った。

「幸せだなあ。こんな幸せが続いたらいいなあ。もう帰りたくないな」

俺がそう言うと、瑞樹が俺を見た。

「ダメだよ。子供さんはまだ小さいのだから、家庭を壊したら可哀そうだよ。私は、今こうやっているだけで、また16年頑張れる気がするよ」

「なあ、年に何回か、こうやって会うことはできないかな?」

瑞樹がジッと俺を見る。

「私は、達彦とほんのひと時、幸せな時間を過ごせればいいと思っただけなのに、そんなこと言われたら、会いたいに決まっているじゃない」

瑞樹はそう言って、俺の首に抱きつきキスしてきた。


翌日俺たちは、ホテルを出る前に取り決めをした。まずは、絶対にお互いの家庭を優先して、無理に会おうとか連絡をとろうとしないこと。会うのは年に3回を限度として、それ以上は会わないこと。年に3回にしたのは、それ以上に会うと歯止めが効かなくなると思ったからだ。そして、どちらかが配偶者にバレそうになったときは二度と会わないこと。その取り決めをして連絡先を交換した。


帰りの電車の中で俺は夢心地だった。もう瑞樹とは一生会えないと思っていた。それが、偶然に出会うことができ、そして、夢のような一夜を過ごすことができた。このつかの間の幸せを逃さないように、絶対に家族にはバレないようにしなければならない。せめて孝太が久野設備工業の社長になるまでは。孝太は今7歳だ。孝太が社長になるには、最低でもあと20年かかる。それまで俺と瑞樹の関係は続いているのだろうか。


瑞樹と年に3回会うようになって、すでに11年経った。俺も瑞樹も50歳になった。今回は北陸で会おうということになっていた。俺が北陸行きの準備をしていると、妻の明奈が話しかけてきた。

「孝太の進路希望を出さなければいけないんだけど、あなたと同じ大学の商学部でいいでしょ?」

「孝太はどう言っているのだ?」

「孝太は法律の勉強がしたいと言っていて、出来たら法学部に進みたいらしいの」

「別に法学部でもいいんじゃないか?」

「でも将来会社経営をするなら商学部の方が良いのでしょ?」

「まあそうだけど、法律の勉強をするのも経営者としては役に立つよ。ところで、孝太は会社を継ぐ気はあるのか?」

「ちゃんと聞いたことはないけど、会社を継ぐものだと思っているわよ」

「それならいいけど、別にやりたいことがあるなら無理に会社を継ぐ必要はないからな」

「じゃあ、会社はどうするのよ?」

「誰か他の人に経営を任せてもいいし、大手企業と提携して、大手企業から経営陣を送り込んでもらってもいいよ」

「何か、あなたは会社には未練がないみたいね。でも、私と瑞穂のことも考えてよね。先々あなたが何をしようが、私は何も言わないけど、家族の事だけはちゃんと考えて下さい。それさえ守って下さるのなら、あなたが外で何をしていようが、私は何も言いませんから」

妻の言い方は意味深な言い方だった。ひょっとしたら、瑞樹のことに感づいているのだろうか?でも、それならそれで良いと俺は思った。最初に瑞樹と取り決めをした時と違い、開き直っている自分がいた。


50歳を過ぎてからの瑞樹との関係は、熟年夫婦のような関係になった。旅行先の観光をゆっくり楽しんだり、自然の中をブラブラと手を繋いで歩くのが心地よかった。夜は美味しいものを食べ、温泉につかり、静かに体を合わせる。あの時、本当に瑞樹と結婚していたら、こんな夫婦になっていたのだろうか。実際に結婚して、子供が出来ていたら、こんな落ち着いた夫婦関係にはなってなかったかもしれない。そういう意味では年に3回しか会わない関係というのも良かったのかもしれない。

瑞樹の長男である竜実君は、医学部を卒業して、現在臨床研修医をしているらしい。病院の跡継ぎは見えてきたようだ。瑞樹は、竜実君が実家の病院に勤務できるようになったら、離婚するかもしれないと言った。

「もう、病院の経営権は旦那に譲って、私は一人で暮らしてもいいかなと思っている」

「生活はどうするの?」

「それなりに蓄えはあるし、両親が残してくれた遺産もあるしね」

瑞樹の両親は数年前に相次いで他界していた。

そうなると、俺も離婚を考えてみたくなった。孝太は自分の希望通りに法学部へ進んだ。現在3年生だ。この前就職はどうするのだと聞くと、親父の会社に入ると簡単に答えた。会社を継ぐ気はあるのかと聞くと、それが一番楽でいいと、呑気なことを言っていた。


俺たちは57歳になった。瑞樹は離婚を決意したらしい。もうすぐ竜実君は実家の病院に入る予定だという。そして瑞樹は、伊豆高原に家を建てた。

「伊豆高原に住むの?」

「思い出の場所だからね。老後はそこで過ごしたかったの」

俺は伊豆高原にはあれ以来、一度も行っていない。この18年、瑞樹とどこで会うかという話の中にも、伊豆高原という案は一切出てこなかった。瑞樹に言わせると、伊豆高原での再会がすべての始まりだったから、伊豆高原に行ったら、そこで終わりが来るような気がして気が進まないと言っていた。それなのに、瑞樹は伊豆高原に家を建てた。それは俺との関係を終わりにするつもりなのか、それとも、新しい関係を求めているのだろうか。


孝太は会社の仕事に少し慣れてきたようだ。しかし、孝太を社長にするにはまだ早い。少なくとも、あと5年は必要だろう。俺は親父の代から働いてくれている専務に、孝太が社長になるまでの間、社長職を引き受けてくれないかと頼んだ。社員からも人望があり、経営の手腕も俺以上で、近年は経営のことはすべて専務に任せているほどの人材だ。しかし、高齢で、あと3年で70歳になる。専務は社長になることを最初は固辞した。俺は最後の奉公だと思って、孝太をちゃんとした社長として育ててくれないかと何度も何度も頼み込んだ。そして、やっと承諾してくれた。


妻に離婚しようと告げた。妻は驚きもせずにこう言った。

「瑞樹さんのところへ行くのですか?」

驚いた。瑞樹のことを知っていたのか。

「もうかなり前に興信所に頼んで調べてもらいました。だから、いつかは離婚を切り出してくるだろうなとは思っていました」

「そうか。だったら話は速い。離婚を承諾してくれないか。明奈と子供たちには出来る限りのことはするつもりだから」

「わかりました。私からの要望は、この家と、会社の株式をすべて孝太名義に変更してもらうことです。あとは普通の財産分与で構いません」

「わかった。希望通りにしよう」

「ひとつだけ聞いてもいいですか?」

「何だ?」

「瑞穂の名前の瑞の字は、瑞樹さんからとったのですか?」

「いや、あれは大学の大先輩で、詩人であり翻訳家でもある青柳瑞穂からとった名前だ。学生時代に青柳瑞穂の本をよく読んでいたから」

俺は咄嗟にそう答えた。もちろんそれは嘘で、青柳瑞穂の本はルソーの翻訳本1冊しか読んでいない。大学のゼミで初めて浅羽瑞樹に会った時、名前を聞いたら青柳瑞穂の瑞に樹木の樹で瑞樹と言ったのを覚えていたから、とっさに出てきた言い訳だった。


俺が伊豆高原に向かったのは、瑞樹が離婚して新しい家に引っ越してから半年ほど経った頃だった。俺の方が離婚の手続きや、会社の手続きで時間がかかったからだった。教えてもらった住所をナビにセットして、車に最低限の荷物だけ積んで向かった。ナビが目的地に到着しましたと告げた時、瑞樹が家の前に立っているのが見えた。1時間くらい前に、ナビの到着予定時刻を電話で伝えたが、ナビの指示を間違えて回り道をしたので、予定より15分ほど遅れた。瑞樹は、俺が伝えた予定時刻からずっとここに立って待っていたのだろうか。あたりはもう暗くなりかけていた。

「いらっしゃい」

瑞樹が満面の笑みで迎えてくれる。

「来ちゃったよ」

瑞樹に誘導されて、駐車場に車を入れる。荷物を家に運び、瑞樹が家の中を案内してくれた。寝室にはダブルベッドが置かれている。

「ベッドは、最初からダブルベッドだったの?それとも俺が来るとわかって買い換えたの?」

「最初からダブルベッドにしたの。竜彦がここに引っ越して来なくても、これからは会うのはここでいいと思っていたから」

瑞樹は料理を作って待っていたようで、早速夕食にする。瑞樹の手料理を食べるのは、学生時代以来だ。つまり35年ぶりということになる。学生時代に作ってくれた料理の味は忘れているが、今食べている料理は、とても美味しい。俺は夢中で食べながら涙がこぼれそうになった。

食事のあと、瑞樹が紅茶を淹れてくれた。

「こっちで飲みましょう」

瑞樹はそう言ってベランダから庭に出た。そこには、あの旅館の裏庭に置いてあったベンチにそっくりなベンチが置かれていた。二人並んでそのベンチに座る。

「あなたと、こうやって並んで座って、夜空を見ながら話をしたかったから、わざわざこのベンチを買ったの」

「あの時のように?」

「そう。まだ若かったあの時、あの旅館で最後の夜を過ごした時のように。あの夜が、人生で一番幸せで、一番悲しい夜だった」

「あのとき言えなかった言葉を、35年経った今、言ってもいいかな?」

「言えなかった言葉って何?」

「僕と結婚してください」

瑞樹が俺をジッと見つめる。そして、静かに言った。

「はい」

瑞樹はそう言ったあと、夜空を見上げ、そっと目じりを拭った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

16年ぶりの再会が二人の人生を変えた 春風秋雄 @hk76617661

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ