第14話 琴の名手

 菱珪玉が腰掛まで用意してくれたので、上官景砂は琴を奏でるだけ奏でてみることにした。

 しかし上官家で目覚めてからというもの、琴にも全く触れてこなかったせいで、琴を演奏できる気は全くしていなかった。そのはずなのに、彼女は腰掛に座り、琴に両手を置いた瞬間、何をどうすればよいのかがわかっていた。

 彼女は夢中で琴線を弾く。自分が何の曲を奏でていたのかは全く分かっていなかったが、間違いなく特定の一曲を奏でていたことだけはわかっていた。

 彼女が指の動きを止め、菱珪玉に視線を向けたとき、彼は何も言わず、ただ口をあんぐりと開けていただけだった。

「菱公子? どうしました? 私の演奏はそれほどひどいものだったのでしょうか」

 と、上官景砂がたまらず尋ねたときに、ようやく菱珪玉もまた現実に舞い戻ってきた。

「いや、そんなことはないんだ。むしろ逆だよ。すごくよかった。本当に、この世の音楽とはとてもじゃないけど思えないくらいだ。まるで、どこかの神仙が私のために一曲を奏でてくれたような」

「それは褒めすぎでは?」

「いや、そんなことはないよ。……君の演奏を聞いた者なら誰でもそう思うはずだ」

 すると、菱珪玉はただ誉め言葉を並べていただけだったはずなのに、急に両眼から大粒小粒問わない涙がこぼれだしたのだ。

 一体何事か、と上官景砂が戸惑いながらも腰を浮かせて手巾を彼に渡す。彼はただ黙々とそれを受け取り、顔中に広がってしまった涙を拭いた。

「一体、どうしたんです」

「いや、なんでもない。ただ、君の演奏があまりにも素晴らしくて、その、感動しただけだから。心配しなくていいよ。音楽を鑑賞して、感動するなんて誰の身にでも起こりうることだから」

「はあ」

「うん。だから、本当に気にしなくて大丈夫だ。あ、そうだ。よかったら、この琴をもらってよ。私のところにあっても、本当にまれに触るだけで、しかも耳をつんざくようなひどい音だ。でも、君ならたとえたまに触る程度でも、今回のように素晴らしい演奏をしてくれるだろう?」

「でも……」

「本当にいいんだ。その方が、きっと琴も喜んでくれるだろうし」

 上官景砂がどれほどの断り文句を述べても、菱珪玉は一切引き下がろうとはしなかった。おかげでその半刻の後に、彼女は大きな琴を一人担いで自室に戻る羽目になってしまった。

 それを、「まずいぞ」と菱珪玉が気付いたのは、もうすでに上官景砂が去った後だった。

(このことを上官当主に知られてしまったら、こっぴどく怒られてしまうに違いないぞ。なんていったって、あの子の身分は最初に思っていた以上に特殊なんだからな)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る