第9話 細かな規則
菱珪玉が景砂、と口にした瞬間、上官景砂の心の中には不思議と懐かしさがよみがえる。いつかどこかで、全く同じ声でその名を呼ばれたことがあるような。
「そういえばさ」
と、菱珪玉が思い出したように言う声に、上官景砂は一度遠くを望んでいた視線を彼に向ける。
「景砂さんって、記憶がないの?」
「……そうみたいですね」
「そっか。じゃあ、自分が何者で、どこにいるべきか、どういう立場であるべきなのか、まではわからないんだね」
「まあ、そんなところでしょうね」
「でも、それもある意味いいことなのかもしれないね」
「どうして?」
「可能性は高くないけれど、もし菱家の人に捕まってしまったら面倒だから。特に今は」
その時、二人の視線の先から、二人の侍女が固い微笑を浮かべながら静かに近づいてきた。
「そろそろお食事の時間ですが、こちらで召し上がりますか? それとも、自室に戻られますか?」
その言葉を聞き、上官景砂は腰を浮かべる。十分気分転換できたから、そろそろ自室に戻ってもいいかもしれない、と思ったのだ。しかし、菱珪玉は少しだけ考えてから言った。
「
「……貞節に関わったりはしませんよね?」
「貞節? ただ喋るだけだよ? さっきまでも、こうして二人で喋っていたし。それに何より上官当主から直々に、私が景砂さんの話し相手になるように言われてるんだ。だから、私たちが二人でいたところで、貞節にかかわることはないと思うよ」
すると、侍女二人は伏せがちに目を合わせ、暗い顔をしたまま頷いた。
彼女たちが姿を消すと、菱珪玉もまた腰を浮かせた。
「じゃあ、四阿に行こうか」
「四阿?」
「うん。上官家はかなり不自由なんだけどね、四阿だけは本当に美しい場所なんだ。さっき、侍女たちにも四阿で食事をするって言ってしまったから、食事のついでに四阿を堪能しようよ」
菱珪玉がこれほどまでに褒める上官家の四阿がいかほどのものなのか、上官景砂は興味を持たずにはいられなかった。彼女が再度腰を上げると、上官双晶が厳しい表情をしたまま戻ってきた。
「上官当主? どうしたんです、こんなところに」
「景砂、部屋に戻って食事をしてください。私は、この菱公子を罰さなくてはいけない」
「罰する? なぜです?」
上官景砂は首をかしげながら尋ねる。すると、上官双晶は今にも人を殺しそうな視線を菱珪玉に向けながら言った。
「当然、この菱公子が規則を破ったからです」
「なぜです? 今日はまだ規則を破っていないですよ。上官当主、私への冤罪はやめてください」
「いいえ。私は確かに、あなたに景砂の話し相手になるよう言いましたが、一緒に食事を取っていい、とはただの一言も言ってはいませんよ」
「一緒に食事を取るのも駄目なのですか?」
「もちろん。男女が二人だけで食事を取るなんて、貞節にかかわりますから。さあ、行きますよ」
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