承ノ伍

松田樹まつだ いつき

第2ゲーム「自由へのさかずき

残り時間:10分


 急遽始まった第2のゲーム。ゲーム会場である"花蘇芳はなすおうの間"こと、中村の部屋に呼び出された松田は、目の前の光景に呆然と立ち尽くしている。

 彼が立つ和室の中央には黒い座卓があり、4つの透明グラスが横に等間隔に並んでいる。左端の隣には、ドスとまな板が並んでおり、部屋の異様さを表している。

「…」

「どうした?ゲームは始まってるぞ」

 呆然とする松田を煽る《あお》ような声。その主は、身体が人間で頭が蚊という異形の存在-ヨウキである。今回のゲーム進行役である彼は広縁の椅子に深々と座り、側で戸惑いの表情を浮かべる中村の肩を抱き寄せている。

「そんな調子じゃあ、クリアなんて無理だな。ククク」

「…っ」

--奴の言う通りだ。このままじゃ俺も死ぬ。やるしかないんだ!

 ヨウキの嘲笑を受け、我に返った松田は座卓の前に正座する。


 緊迫した雰囲気の中、松田は右手にドスを握る。その瞬間、手が小さく震え始め、心臓が早鐘を打ち始める。

 左の前腕を座卓に水平に乗せると、右手を動かそうとする。しかし、自傷への拒絶が硬直させ、実行できないでいる。

 それから逃げ出したい衝動に駆られ始めるも、歯を食い縛って抑え込む。そして、右手を震わせながら左前腕にドスの刃を立てる。

「…っ」

 刃の冷たい感触に、松田は怯む。その直後、彼は鼻息を荒げながら、ドスを手前に勢いよく引いた。その瞬間、鋭い痛みが走り、顔を顰める。

「ああっ!」

 松田は短い悲鳴を上げると、左前腕から右手を離した。右手をだらりと床に下げると、引き攣った顔で左前腕を見る。

 浮かび上がる切り傷は、包丁で指を切ったほどの小さなもの。普段なら少し痛がる程度で済む傷が、今の彼には恐ろしく見える。

「ぐっ…」

 松田は痛みに顔を顰めながら、左手を伸ばし始める。座卓に血を滴らせながら向かったのは、左端のグラスの飲み口。そこに手首を上に乗せると、グラスの底へ血が滴り落ちていく。

 その速さは、閉め切ったばかりの蛇口から滴る水滴ほど。クリア条件である飲み口付近の赤い線に至るには遅く、松田は歯痒さを感じる。

「くそっ…」

「そんな浅いんじゃ無理だぞ。まあ、何百何千回と切れば、いけなくもないだろうが」

「…」

「だけど、それじゃあ時間切れになっちまう。それより効率良い方法は手首を深く切る、だろ?」

「…簡単に言うな」

「はっ、手首切って自殺した野郎がよく言うぜ」

「…なんで知ってる?」

 松田の表情が苦悶から驚愕へと変わる。ヨウキは彼の反応に対し、あざけるように笑って答える。

「ククク。ヨミサカの旦那から聞いてんだよ。お前らがどんな理由で、どんな手段で自殺を図ったのかってな」

「…」

「だがな、俺にとってはどうでもいいことだ。俺はただ、お前がもがき苦しみ、どんな結末を迎えるのかを見てぇんだよ」

「このクソ野郎…」

「ククク。その威勢の良さをゲームに向けな。手首を深く切れば、クリアに近づきやすいって言ったけどよ、その前に死ぬだろって思ったろ?」

「当たり前だ…」

「そうだよな。だから、お前はこの世界に来ちまった。まあ、安心しな」

「何?」

「どんなに深い傷だろうが、身体の一部が無くなろうが、クリアすれば元通りにしてやるからよ」

「なっ…」

 松田が驚くと、ヨウキは小指だけを立てた左手を顔の前に翳す。

「これならどうだ?まな板に小指乗せて切り落とすとかよ」

「何を言って…」

「ああ、一本じゃ足りないって?だったら、2本でも3本でも切り落とせばいい。まあ、クソ痛ぇだろうがな」

「そういう問題じゃない!」

 ヨウキが嬉々とした様子で話すと、松田が声を荒げた。しかし、ヨウキは怯むことなく、呆れたようにため息を吐いて答える。

「はあ、うるせぇな。いくらゴネたって無駄なんだよ。ほら、もう2分も経ってるぞ。早くしねぇと、本当に死ぬぞ?」

「っ!」

 ヨウキの冷静でありながら威圧感ある返事に、松田は気圧けおされ口を噤む。

 そうして会話が途切れると、松田はドスを持ったままの右手を顔の前に持っていく。

--切断するなんて無理だ…。でも、このままじゃゲームオーバー…。

 逃げ道の無い状況に、恐怖と焦りが大きくなっていく。そうして怯えている間にも、時間は無情にも減っていく。

「ちくしょう…」

 松田は悔し気に呟くと、血塗れの左手を見つめる。しばし見つめた後、緩慢な動きで小指を下にして、まな板の上に乗せる。そして、小指を立てると、右手を真上に持っていく。

「はあ、はあ…」

--怖い…。でも、やるしかない!

 恐怖と必死に戦いながら、ドスを強く握り込む。そして、目を見開いて叫び始める。

「あああああ!!」

「ああ、いい…。いいぞぉ…」

 ヨウキが嬉々とした声音で呟くと、松田がドスが振り下ろし始める…、その時だった。

「もういい…」

「…中村さん?」

 松田は中村の消え入りそうな声を聞くと、動きを止めた。そして、中村の方に目を向けると、彼女は彼の目を見て続ける。

「私のことはいい…」

「えっ?」

「私のことはいいから、アンタだけクリアしなさい…」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る