承ノ肆

<松田樹まつだ いつき>


 山本と別れた松田は、大浴場の温泉に浸っていた。

 暖かい湯気が満ちる大浴場には、10人は入れそうな浴槽が3つあり、敷地は広大である。しかし、そこにいるのは松田だけで、浴槽に新たな湯水が注がれる音だけが虚しく響いている。

「はあ…」

 温泉の心地よさに、肩まで浸かっている松田がため息を吐く。

「温泉なんて、いつ以来だ?」

 リラックスしてる中、そんな疑問が口を衝いて《つ》出た。火照っていく《ほて》頭で記憶を探り始めると、それらしき最新の記憶に辿り着いた。

「大学4年生の時以来だな。卒業して一人暮らしになってから、ずっと一人だもんな…」

 そう呟いた瞬間、虚しさを感じ始める。

「一緒に行く人も金もない…。寂しい人生だな…」

 安らぎが虚無感に塗り潰されていく。暗い感情に心が蝕まれていく中、ふと両親のことが気になり始める。

「今頃どうしてるかな…」」

 そう呟くと、勝手な想像を始める。息子が自殺を図り、意識不明だと聞かされた時の両親はどんな反応するのだろうかと。

 その設定で想像する中、彼は突然目を見開いた。浮かび上がった両親の姿に、目が潤み始める。

「…父さん、母さん。ごめん…」

 悲しそうに顔を歪めながら、声を震わせる。両親と過ごした数々の思い出が脳内に蘇り、嗚咽を漏らして泣き始める。

 浴槽に湯水が注がれる音に、松田の嗚咽と鼻を啜る《すす》音が重なる。広々とした温泉に、泣きながら浸かっている男一人という寂しく悲愴な空気が包み始める、その時だった。

 ピンポンパンポン。

『お休みのところ、失礼いたします。私、ヨミサカより大事なお知らせがございます』

 木琴の軽快なメロディーが突如鳴り、アナウンスが始まった。松田は驚き、涙に濡れた顔を上げる。

「ヨミサカ…?」

『皆さま、長らくお待たせしました。これより、第2ゲームを開始いたします』

「ゲーム…だって?」

 松田が信じられない様子で呟く。

『今から名前を呼びます。その後に部屋の名前を言いますので、そこへ向かってください。では、お呼びします。山本朱莉やまもと あかり様、“松雪草まつゆきそうの間”へ。高橋大輔たかはし だいすけ様、“風信子ヒヤシンスの間”へ。松田樹様、“花蘇芳はなすおうの間”へ向かってください』

「“花蘇芳のはなすおう”…。中村さんの部屋か」

『お知らせは以上です。名前を呼ばれた3名は、この放送から5分以内に向かってください。そうしなければ不参加と見なし、本当の死を与えます。それでは、健闘を祈ります』

 ピンポンパンポン。

 終わりのメロディーが鳴り終わると、松田は難しい顔をする。

「俺が呼ばれた理由は何だ?それに、今回に限って3人指名したのはなぜだ?」

 次々に浮かんでくる疑問たちが口を衝いて出る。難しい顔で考え続けるも、今はそんなことをしている場合ではないと考え直す。今から5分以内に向かわなければ、ゲームオーバーになってしまうからだ。

「くそっ」

 松田は悪態をつくと、両手で湯水を掬う。そして、顔に思いっきりかけて、自分を奮い立たせると浴槽から出て行った。


 浴室を出た松田は、“花蘇芳はなすおうの間”の前に立っている。そこは、本館2階にある松田の部屋とは真反対に位置する角部屋。周囲には彼以外おらず、不気味な静けさが漂っている。

「ここがゲーム会場…」

 松田が緊張の面持ちで呟く。

 一体どんなゲームなのか。アナウンスの時から抱いている不安が、会場を前にして膨れ上がっていく。

「高橋さんはもう、あの子の部屋にいるのかな」

 そう呟いた松田は、とある部屋へ目を向ける。視線の先は、左に伸びる廊下の奥から2番目の部屋である“風信子ヒヤシンスの間”。暗い少年の清水がいる部屋に、高橋は向かうように指示されていたのを思い出した。

「高橋さん、無事だといいけど。…人の心配よりも先に、まずは自分がどうにかしないと」

 そう意気込んだ松田は表情を引き締め、深呼吸をする。そして、ドアノブを掴むと、ドアはすんなりと開いたため、彼はゆっくりと足を踏み入れた。


 玄関を抜け、和室のドアを恐る恐る開ける。次の瞬間、彼の目が大きく見開かれる。

「なっ…」

「よう、待ちくたびれたぜ」

 驚く松田に返事するのは、悍ましい存在。白の作務衣さむえを纏う身体は人そのものだが、頭は蚊という異形の姿をしているのだ。

「…」

「俺が怖いか?ククク」

 異形の存在が揶揄う《からか》ように笑う。松田は慄いて何も返せずにいると、異形の存在に肩を抱かれている中村の姿を捉えた。

「中村さん…」

「…っ」

 中村が辛そうな顔を松田に向ける。彼女の首には、異形の存在の口から伸びる黒い管が刺さっているのだ。

「中村さん!」

「おっと。力づくで取り返そうなんて馬鹿な真似はすんなよ?」

「っ!」

 脅しを受け、松田は歯を食い縛って踏み止まる。

「ククク。早速、ゲームの話といこうか。俺はこの世界の住人、ヨウキだ。ヨミサカの旦那に代わって、このゲームは俺が務めさせてもらう。そんで、今から行うゲームは、"自由へのさかずき"だ」

「自由への杯?」

「そいつから取ってるのさ」

 ヨウキは顎をしゃくり、和室の中央にある黒い座卓を示す。そこには、横並びの4つの透明グラスがあり、飲み口付近に赤い横線が引かれている。

「4つのグラス…。…おい、そのドスとまな板は何だ」

「ククク、ゲームに必要なもんだよ」

 ヨウキが嘲るように答えると、松田は背筋が凍る感覚に襲われる。

「ルールは簡単だ。グラスの内側に赤い線があるだろ?その線は、ちょうど100mlを指してる」

「…それで?」

「10分以内に赤い線までお前の血を注ぎ、2つできあがったらクリアだ」

「なっ…」

「ククク、いい反応だ。そのドスで血を流し、杯に注げ」

「自分で自分の身体を傷つけろだって?ふざけるな!」

「グハハハハハ!!自分で命を絶った野郎が何言ってんだか!」

「っ!」

 高笑いをするヨウキの言葉に、松田は返す言葉がなかった。

「くそ…。…なあ、2つ注げばクリアなんだよな?」

「あ?」

「だったら、4?」

「ククク。察しがいいな、お前。旦那が評価してるだけあるな。そう、4つのグラス全てを満たせばクリアとなり、この女は解放される。逆に2つのグラスだけを満たせば、お前だけのクリア。この女は俺に血を吸われて死ぬ」

「なっ!」

「っ!」

 松田に続き、中村が驚きの反応を示す。そんな彼らの恐怖をさらに煽るように、ヨウキは続ける。

「2つのグラスにも満たなかった場合は当然、ゲームオーバーだ。お前はこの女と共に、俺に殺される」

「…何なんだよ、それ。彼女の生死は、俺次第ってことか?」

「そういうことだ」

「ふざけるな!こんなの狂ってる!」

 松田が怒声を上げると、ヨウキは怯むことなく笑って答える。

「ククク。食事の時、旦那に言われたろ?」

「は?」

「《食事はたくさん食べた方がいい》ってよ」

「それがどうし…、っ!まさか…」

「そのまさかさ。飯を多く食った奴が、生殺与奪の立場になるってことだ」

「そんな…」

 か細い声で呟く松田の顔が色を失っていく。

「お前はほとんど食わなかったから、生殺与奪の立場を失った。ちゃんと食っとけばよかったなぁ、中村凛」

「…っ」

 ヨウキの嘲りを受けた中村は、何も言えずに眉を顰めるだけである。ヨウキは彼女の反応を鼻で笑うと、松田に目を向ける。

「血を流して自分だけが助かる道。それか、もっと血を流して2人が助かる道。さあ、お前を選ぶ?」

 ヨウキは嬉々とした声音で選択を迫まる。松田は呆然としたままでいるも、ヨウキは返事を待たずに宣言する。

「それじゃ、ゲーム開始だ。楽しませてくれよ?」

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