承ノ参
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食事を終えてから、松田は客室に籠っていた。そこは、本館2階にある“
和と洋が合わさり、広々とした部屋。一人には十分すぎると、松田は申し訳なさを感じていた。
広縁に立ち、外の景色を眺める。
「はぁ、こんなんじゃ景色なんて楽しめないな」
白霧でほとんど見えない景色に向かって、ため息と愚痴を吐く。
「旅館なんて、いつぶりかな」
寂しそうに呟いた途端、虚無感が訪れる。
(明るい未来が見えない孤独な人生。ゲームをクリアして生き返ったとしても、また同じことの繰り返しじゃないのか?)
心中に浮かぶ不安と疑問に、表情が曇っていく。表情と心が暗くなっていく中、彼はぽつりと呟く。
「……温泉入るか」
そう呟いた途端、心が少し明るくなったのを感じ、準備に取り掛かった。
松田は右手にタオルを抱えながら、一直線の廊下を歩いていく。その真ん中には、下に続く階段があり、彼はそこに向かっている。
向かう最中、左にある部屋が気になって足を止めた。そこは松田の隣室で、入り口に“
(まだ中学生くらいだろうに、あんな暗い顔。一体、何があったんだろう……)
沈痛な面持ちで、清水に哀れみの感情を抱く。
自分にできることはないだろうか。そんな親切心から入り口へ足を向ける。しかし、彼は向かう寸前に思い止まった。
「……行ったところで、迷惑なだけだよな」
寂しげに呟くと、階段に向かって再び歩き出した。
清水の部屋の隣には、奥にトイレがある細い通路。その隣に階段はあり、松田は目の前まで来ていた。すると、下から中村が上がってくるのを見て、足を止める。
「あ……」
「……」
松田が困惑していると、中村は無表情で見つめ返す。松田が困惑してるのは、無愛想な彼女に苦手意識があるせいだった。
中村の髪は少し濡れていて、全身からはシャンプーのいい香りが漂っている。風呂上がりだと感じた松田が尋ねる。
「温泉に入ってたんだ?」
「だから?」
「……っ」
松田は怯みで顔を強張らせ、口を噤んだ。
会話が途切れ、その場に静寂が訪れる。松田が気まずさを感じながら黙っていると、中村は背を向けて歩き出した。
「ねぇ!」
松田は咄嗟に声をかけた。中村は足を止めると、振り返らずに問う。
「何?」
「俺、なんかしちゃったかな?」
「何で?」
「俺のこと、避けてるように見えるから」
「……」
中村からの返事が途絶える。松田は緊張しながら、相手の反応を待つ。
それから程なくして、中村が後ろに振り返った。その瞬間、松田は思わずゾッとする。影を差す彼女の無表情な顔には、憎悪が込められているように見えるからだ。
「……っ」
「私は誰も信用しない。ただそれだけ」
中村はそう答えると、その場を去った。
松田は呆然と立ち尽くしながら、彼女の背中を見つめる。あの恐ろしい顔への恐怖と、何が彼女をそこまでさせたのかという疑問を抱きながら。
階段を降りた松田は、正面奥にある玄関に目を向ける。
「確か、そこを左だったよな」
玄関前の左に続く廊下を見ながら、確認するように呟く。
その廊下を進み、突き当たりを右に折れる。すると、目的の浴室がある広間へと出た。
浴室は広間の左側にあり、手前から女湯に男湯と分けられている。男湯へ早速向かおうとする、その時だった。
「あの」
背後から呼ばれ、足が止まる。反射的に振り返ると、そこには優しい笑みを浮かべる山本が立っていた。
「すみません、驚かせてしまって」
「いいえ。確か、山本さんでしたよね?」
「名前覚えてくれてたんですね。嬉しい」
山本の顔がさらに明るくなる。彼女の表情は松田に癒しを与え、口角を上げさせるほどである。
「あの、僕に何か?」
「実はその、お礼が言いたかったもので……」
「お礼?」
恥ずかしそうに顔を伏せる山本に対し、松田は首を傾げる。すると、彼女は意を決したように顔を上げた。
「あの佐々木っていう人にバカにされた時、庇ってくれたことです」
「……ああ、あのことですか。礼を言われるほどのことじゃないですよ」
「私にとってはすごく嬉しかったんです」
「ムカついただけだったんですが、それなら良かったです」
松田は照れ笑いを浮かべ、満更でもない様子で答えた。
(まさか、こんな感謝されるなんてな。勇気出して良かったな)
「ところで、中村っていう女と何かあったんですか?」
「え?」
唐突な質問に、松田の笑みが固まる。
「何もないですけど。それが何か?」
「心配だったもので」
「心配?」
「だって、松田さんを嫌っているように見えたから」
「嫌ってる?」
「佐々木さんに殴られそうになった時、松田さんが庇ったじゃないですか。それなのに、お礼も言わずに憎まれ口を叩いてましたから」
「……あ、ああ」
松田が苦笑いを浮かべて唸る。困惑する彼をよそに、山本は眉間に皺を寄せながら続ける。
「あの態度は、さすがにないですよ。松田さんがいなかったら、大変な目にあってたのに」
「彼女は元からあんな感じですから、気にしてませんよ」
「元から……、ですか」
そう答える山本の顔は、不気味なほど無表情であった。彼女の表情と意味ありげな区切りと声音は、松田に若干の恐怖を与える。
「山本さん?」
「彼女が邪魔ですか?」
「え?」
松田が聞き返すと、山本は口角を吊り上げた。それは狂ってるかのような笑みで、松田は背筋が凍る感覚に襲われる。
「困ったことがあれば、相談してくださいね。いつでも待ってますから」
「……っ」
(急に何を言っているんだ……)
怯む松田の脳内に警報が鳴り始める。
「ぼ、僕!風呂に入るんで……、失礼します!」
ぎこちない笑みでそう告げると、早足に離れて行った。そんな彼の背中を、山本は口角を吊り上げて見つめていた。
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部屋に戻った中村は広縁に腰掛け、外の景色を眺めている。
「つまらない景色。やっと死ねると思ったのに、こんなことになるなんてね」
白霧でほとんど見えない景色に向かって、愚痴るように呟く。つまらないと言っても、彼女にすることはなかった。
そうして何をするでもなく、ただ呆然と眺め続ける、その時だった。
ブーン、ブーン。
「虫?」
中村は眉根を少し寄せる。蚊に似た羽音が聞こえ続ける中、何気なく後ろに振り返った。その直後、彼女は目を見開いた。
「……なっ」
声を出した瞬間、首に何かが突き刺さった。一体何が起きたのか、それを確認する間も無く、中村はゆっくりと瞼を下ろした。
椅子に凭れ、寝息を立て始める中村。そんな彼女を、何者かがじっとりと見下ろしている。
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