承ノ参

<松田樹まつだ いつき>


 食事を終えてから、松田は客室に籠っていた。そこは、本館2階にある“彼岸花ひがんばなの間”という名の角部屋。和室の真ん中には黒い座卓に2つの座椅子、入り口から見て左には広縁がある。和室の隣は、2つの真っ白なシングルベッドが並ぶ洋室である。

 和と洋が合わさり、広々とした部屋。一人には十分すぎると、松田は申し訳なさを感じていた。

 広縁に立ち、外の景色を眺める。

「はぁ、こんなんじゃ景色なんて楽しめないな」

 白霧でほとんど見えない景色に向かって、ため息と愚痴を吐く。

「旅館なんて、いつぶりかな」

 寂しそうに呟いた途端、虚無感が訪れる。

--明るい未来が見えない孤独な人生。ゲームをクリアして生き返ったとしても、また同じことの繰り返しじゃないのか?

 心中に浮かぶ不安と疑問に、表情が曇っていく。表情と心が暗くなっていく中、彼はぽつりと呟く。

「…温泉入るか」

 そう呟いた途端、心が少し明るくなったのを感じ、準備に取り掛かった。


 松田は右手にタオルを抱えながら、一直線の廊下を歩いていく。その真ん中には、下に続く階段があり、彼はそこに向かっている。

 向かう最中、左にある部屋が気になって足を止めた。そこは松田の隣室で、入り口に“風信子ヒヤシンスの間”と黒く書かれた木製のドアプレートが取り付けられている。そして、その部屋には、暗い顔の少年こと清水連しみず れんが割り当てられた。

--まだ中学生くらいだろうに、あんな暗い顔。一体、何があったんだろう…。

 沈痛な面持ちで、清水に哀れみの感情を抱く。

 自分にできることはないだろうか。そんな親切心から入り口へ足を向ける。しかし、彼は向かう寸前に思い止まった。

「…行ったところで、迷惑なだけだよな」

 寂しげに呟くと、階段に向かって再び歩き出した。


 清水の部屋の隣には、奥にトイレがある細い通路。その隣に階段はあり、松田は目の前まで来ていた。すると、下から中村が上がってくるのを見て、足を止める。

「あ…」

「…」

 松田が困惑していると、中村は無表情で見つめ返す。松田が困惑してるのは、無愛想な彼女に苦手意識があるせいだった。

 中村の髪は少し濡れていて、全身からはシャンプーのいい香りが漂っている。風呂上がりだと感じた松田が尋ねる。

「温泉に入ってたんだ?」

「だから?」

「…っ」

 松田は怯みで顔を強張らせ、口を噤んだ。

 会話が途切れ、その場に静寂が訪れる。松田が気まずさを感じながら黙っていると、中村は背を向けて歩き出した。

「ねぇ!」

 松田は咄嗟に声をかけた。中村は足を止めると、振り返らずに問う。

「何?」

「俺、なんかしちゃったかな?」

「何で?」

「俺のこと、避けてるように見えるから」

「…」

 中村からの返事が途絶える。松田は緊張しながら、相手の反応を待つ。

 それから程なくして、中村が後ろに振り返った。その瞬間、松田は思わずゾッとする。影を差す彼女の無表情な顔には、憎悪が込められているように見えるからだ。

「…っ」

「私は誰も信用しない。ただそれだけ」

 中村はそう答えると、その場を去った。

 松田は呆然と立ち尽くしながら、彼女の背中を見つめる。あの恐ろしい顔への恐怖と、何が彼女をそこまでさせたのかという疑問を抱きながら。


 階段を降りた松田は、正面奥にある玄関に目を向ける。

「確か、そこを左だったよな」

 玄関前の左に続く廊下を見ながら、確認するように呟く。

 その廊下を進み、突き当たりを右に折れる。すると、目的の浴室がある広間へと出た。

 浴室は広間の左側にあり、手前から女湯に男湯と分けられている。男湯へ早速向かおうとする、その時だった。

「あの」

 背後から呼ばれ、足が止まる。反射的に振り返ると、そこには優しい笑みを浮かべる山本が立っていた。

「すみません、驚かせてしまって」

「いいえ。確か、山本さんでしたよね?」

「名前覚えてくれてたんですね。嬉しい」

 山本の顔がさらに明るくなる。彼女の表情は松田に癒しを与え、口角を上げさせるほどである。

「あの、僕に何か?」

「実はその、お礼が言いたかったもので…」

「お礼?」

 恥ずかしそうに顔を伏せる山本に対し、松田は首を傾げる。すると、彼女は意を決したように顔を上げた。

「あの佐々木っていう人にバカにされた時、庇ってくれたことです」

「…ああ、あのことですか。礼を言われるほどのことじゃないですよ」

「私にとってはすごく嬉しかったんです」

「ムカついただけだったんですが、それなら良かったです」

 松田は照れ笑いを浮かべ、満更でもない様子で答えた。

--まさか、こんな感謝されるなんてな。勇気出して良かったな。 

「ところで、中村っていう女と何かあったんですか?」

「え?」

 唐突な質問に、松田の笑みが固まる。

「何もないですけど。それが何か?」

「心配だったもので」

「心配?」

「だって、松田さんを嫌っているように見えたから」

「嫌ってる?」

「佐々木さんに殴られそうになった時、松田さんが庇ったじゃないですか。それなのに、お礼も言わずに憎まれ口を叩いてましたから」

「…あ、ああ」

 松田が苦笑いを浮かべて唸る。困惑する彼をよそに、山本は眉間に皺を寄せながら続ける。

「あの態度は、さすがにないですよ。松田さんがいなかったら、大変な目にあってたのに」

「彼女は元からあんな感じですから、気にしてませんよ」

「元から…、ですか」

 そう答える山本の顔は、不気味なほど無表情であった。彼女の表情と意味ありげな区切りと声音は、松田に若干の恐怖を与える。

「山本さん?」

「彼女が邪魔ですか?」

「え?」

 松田が聞き返すと、山本は口角を吊り上げた。それは狂ってるかのような笑みで、松田は背筋が凍る感覚に襲われる。

「困ったことがあれば、相談してくださいね。いつでも待ってますから」

「…っ」

--急に何を言っているんだ、この人は…。

 怯む松田の脳内に警報が鳴り始める。

「ぼ、僕!風呂に入るんで…、失礼します!」

 ぎこちない笑みでそう告げると、早足に離れて行った。そんな彼の背中を、山本は口角を吊り上げて見つめていた。




<視点:中村凛>

 部屋に戻った中村は広縁に腰掛け、外の景色を眺めている。

「つまらない景色。やっと死ねると思ったのに、こんなことになるなんてね」

 白霧でほとんど見えない景色に向かって、愚痴るように呟く。つまらないと言っても、彼女にすることはなかった。

 そうして何をするでもなく、ただ呆然と眺め続ける、その時だった。


 ブーン、ブーン。


「虫?」

 中村は眉根を少し寄せる。蚊に似た羽音が聞こえ続ける中、何気なく後ろに振り返った。その直後、彼女は目を見開いた。

「…なっ」

 声を出した瞬間、首に何かが突き刺さった。一体何が起きたのか、それを確認する間も無く、中村はゆっくりと瞼を下ろした。

 椅子に凭れ、寝息を立て始める中村。そんな彼女を、何者かがじっとりと見下ろしている。

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