第2話 咲香はどんな世界で生きてきたのだろう

 不倫男とホストに共通しているのは、とにかく愛想がよく、受け答えがうまいことである。

 たいていの人は、女性に話題を振られても、なんと答えたらいいのか、答えようがなく、ただただ沈黙パターンになるケースが多い。

 その答えようのない困惑状態の沈黙パターンを、無視された、この男性は私とは違った世界の人なんだとネガティブな方向に捉えることがある。 

 実際問題として、すべてのことを同調するわけにはいかないし、かといって、反対意見を言って、議論を闘わすという気力もない。

 

 しかし、不満や不幸を背負っている女性が、何を言っても受け入れてくれる男性にはまっていくということは、男女問わず共通の心理であろう。

 何を言っても否定しない男性こそが、自分を理解してくれるいい人だと思い込み、この人についていったら大丈夫などと、まるで白馬の王子のように錯覚してしまう。

 もっとも白馬の王子が助けたのは、一般女性である。

 白馬の王子は身分の高い男性であり、つきあいたかったら、一般女性はそれに従っていくしかないのである。


 神がつくったエデンの園の楽園に暮らしていたアダムとイブの時代、神のいいつけを破って禁断を実を食べたのは、アダムではなくイブであった。

 蛇はイブに「神は本当に、食べてはいけないとおっしゃったのですか?

 この実を食べると、目が開け、神のように賢くなれるんですよ」

 見ると禁断の実は、色も形も魅力的であった。

 ただし、世間でいわれているリンゴではなく、もしかしてザクロだったかもしれない。

 イブは禁断の実を食べた後、アダムにも勧めた。

 神からそのことを問いただされると、お互いに相手が悪いと責任転嫁した。

 現代でも、女性が男性によくないことを勧め、それに乗じた男性が、あの女こそが悪い。私を誘惑したのだと責任転嫁することは、よくある話である。


 話をもとに戻そう。

 咲香の仕事内容は、ホール廻りと皿洗いであったが、仕事は普通にこなしていた。

 日を追うごとに、咲香は馴れ馴れしくなり、困った癖を発揮するようになった。

 調理場が余分にしゅうまいの皿を送ると、それを返却するでもなく、なんと手づかみで皿ごとパクパクと食べ始めたのである。

 私はもちろん「返却した方がいいですよ」と注意すると、どこ吹く風で

「いいじゃない。半分食べる」などと言い出す始末である。

 一応、私の方が年齢的にも入店時期も先輩なのに、まったくおかまいなしである。

 そりゃそうだろう。

 咲香は、入店間近に店長に向かって「このビールケース運んできて」と言い出す強者なのだから、私の注意など全く聞く気すらないのは極めて当然のことであろう。

 それから二週間後、また咲香は余分に送ってきたしゅうまいを、返却するのではなく、パクパクと食べ始めたのである。

 私は半ば呆れながら「調理場に返却してあげた方がいいですよ。もうしゅうまいの皿の数を数えてるのよ」と言っても、どこ吹く風。

 咲香は、相変わらず平気な顔で、貼りついたような笑顔を浮かべながら「いいじゃない。一個食べる」と言い出す始末である。

 まったくこの咲香という人物は、一体どんな神経をしているんだろう。

 いや、それより以前にどんな世界の中で生きてきたのだろう。

 私は、逆に咲香に興味を抱くようになった。


 咲香は日がたつにつれ、ますます馴れ馴れしくなっていった。

 図に乗ってきたとしか言いようがない。

 迷惑がる独身の野田チーフにしつこく色目を使い、まとわりついてくる。

 まあ、既婚者ではなく、独身者であることだけが唯一の救いであるが。

 

 野田チーフは、咲香と目を合わそうとはしなかった。

「話しかけるな」という素っ気ない返事にも、咲香はおかまいなしにまとわりついてくる。

「やっと野田さんと冗談言えるようになったわ」と言い出す始末である。

 なぜ咲香は、迷惑がる野田チーフにまとわりついているのだろうか?

 その謎は、あとからになって明白になっていった。

 

 野田チーフがロッカーで着替えをしていると、なんと咲香が入室してくるのだった。

 相変わらず貼りついたような笑顔で、ニタニタ笑いながら

「いいじゃない。野田さんのパンツ姿なんて見慣れてるわ」と言い出す始末である。

 野田チーフは呆れたような表情で、叱りもしなかったというよりも、叱る気力もなく無表情を決め込んでいた。

 失礼な人に対処する方法として、無視はあまり効果がない。

 バカ丁寧な敬語を使うことで、相手との距離を置き、何を言われてもただニタニタと薄笑いを浮かべることだという。

 相手は自分を傷つけようとしているので、怒ったり悲観的な顔をすると相手の思うツボである。

 まるで人形のように、ニタニタと笑っていると、相手も傷つけようとする気力が失せてしまい、降参状態になるという。


 咲香は地下アイドルをしていた過去があったと語っていたが、芸能界は着替える場所があまりないという。

 だから、スタッフに衝立になってもらって着替えることもある。

 上沼恵美〇氏などは、半世紀前、芸人の集まる小屋で姉に衝立になってもらって着替えをしていると、男性芸人から

「女芸人たるもの、素っ裸になって楽屋を飛び回るくらいやなかったら、あかんで」

などという、今では考えられないセクハラ、パワハラを受けたという。

 いくら男性社会とはいえ、現代では、考えられないことである。


 咲香は、男を誘惑することが勲章だとでも思っているのだろうか?

 咲香がうつ向け状態になり、上着の胸の谷間を見た男性アルバイトから

「胸が見えるよ」と言われると、ニタニタ状態で

「私のバスト、拝ましてやろうか」などと言い出す始末である。

 これには男性アルバイトの方が、興ざめだった。

 男性はハンター精神で、追いかけるのが好きだという。

 女性の方から迫ってこられたら、かえって重いだけである。


 それとも、咲香は地下アイドル時代、ハニートラップの体験者いや加害者なのだろうか?

 無名アイドルは金欲しさから、有名人相手にハニートラップをしかけるという。

 もちろん、その裏には糸を引いている男性がいるのは、定例パターンであるが、一度、悪事に加担した女性はなかなかそのスパイラルから、脱け出すことが難しい。

 一度、罪を犯してしまったという罪責感から、悪の世界へと利用されることもある。

 もしそうだとしたら、私は咲香がはるか別世界の謎の人物に思えてきた。


 私はいつものように、朝の掃除のとき、滑り止めのマットを、調理台の下に置くのが日課となっていた。

 本日のホール廻りは、咲香と共に組むことになった。

 最初はスムーズに客の注文に応えて、料理も一階から運ばれてきて、客からも苦情も言われることはなかった。

 

 ところが、想定外のことが起った。

 五分後、調理台から料理をとろうとすると、つま先がつるりと滑り、身体のバランスが崩れた。

 うつむくと、調理台の前に置いてあったマットの位置が、30㎝ほどずらされていたのだった。

 途端に腕がすべって、右に持っていたラーメンと、左にもっていたチャーハンを落としそうになって、こぼしてしまったのだ。

 幸い客には、一滴もかからなかったが、私は団体客からこっぴどく叱られ、平身低頭のスタンスでひたすら頭を下げるしかなかった。

 また、コックにも謝り、こぼしてしまったラーメンとチャーハンを、新たに作り直してもらう羽目になってしまった。

 これで私は、団体客とコックという違った立場の人に、迷惑をかけ、頭を下げる羽目になってしまったのである。

 それにしてもマットを30㎝もずらした犯人は誰だろう?

 ホール廻りの足を、引っ張る嫌がらせのつもりなのだろうか?

 まさか、客がマットをずらすとは考えられない。

 もしかしたら咲香の仕業なのだろうか? 

 いや、そうに違いない。


 翌日、私の疑問は当たっていた。

 私が朝の掃除のとき、調理台の前に敷いたマットを、咲香が十秒もしないうちに、腰をかがめてずらし始めたのである。

 私は咲香に「それ、なにか意味あるの?」と尋ねると、咲香はキョトンとした上目遣いで「あのう、滑る?」

 滑ることがわかっているのならなぜ、マットをずらそうとするのだろうか?

 不思議としか言いようがない。

 そういえば、この頃、咲香の息は少々酒臭い。

 

 咲香は相変らず、迷惑がる野田チーフに上目遣いで話しかけている。

 全くどういう神経をしているのだろうか?

 もしかして、野田チーフさえ味方につければ、自分は何をしても赦されるという算段でもあるのだろうか?


 

 

 

 

 

 

 


 

 

 




 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る