第22話 暗転

 夕暮れ前、圭一郎けいいちろうは一人である喫茶店へ向かっていた。まだ終業時間前なのに仕事をさぼって歩いているので、心なしか人目が気になる。尤も誰もそんなことは思っていないのだが、後ろめたいことがある人間は殊更そう思うものである。


 店の前で、圭一郎はそっとドアを開けた。ドアベルが鳴る音を極力抑えるためである。そんな事をする客は逆に目立つのだが、今の圭一郎は思考がいっぱいいっぱいでそこまで思い至れない。

 不思議な顔をして近づいてくる店員を軽やかに制して、圭一郎は指定された席まで迷わず進んだ。そこにはすでによれよれの背広姿の男が座っていた。


「社長、お疲れさんです」


 肩を竦めて前傾姿勢で座るその男は、圭一郎が雇った探偵の濱家はまいえだ。圭一郎は彼の前に座って小声で確認する。


「どうだった?」


「バッチリですよ」


 言いながら濱家は近くの写真館の封筒をガサガサと音を立てて探る。そして二枚の写真を広げて見せた。


茨村しむらももさんは、デパートに向かう途中である男と接触しました、それがこの人です」


 示された写真を圭一郎は穴が開くほどに凝視する。そこには路地裏で佇む一人の男が写っていた。白いスーツに黒のシャツ、黒いサングラスで茶色い髪の毛を七三に分けている。


貫井ぬくい遊馬あすまです」


 その濱家の言葉が、圭一郎の胸に重たく沈んだ。そして次の瞬間を切り取ったような二枚目の写真を見て絶句する。

 桃が、手を振って彼に近づく後ろ姿だった。


「……」


 またもや圭一郎の顔はミイラの様になっていた。それで濱家は不安になる。


「ええっと……まだ見ます?」


 その問いに、圭一郎は突然瞳をギラリと光らせて頷いた。


「当たり前だ。出しなさい」


「では……」


 濱家は恐る恐るもう一枚写真を出した。

 路地裏の男がサングラスを取って、桃に笑いかけている。とてつもなく、男前だった。


「ねえ?ビックリするくらいハンサムでしょ?社長さんもかなりですけど、貫井遊馬もタイマンはれまっせ」


「も……」


「も?」


「も、桃の様子は……?」


 写真の桃は常に後ろ姿で、その表情が窺い知れない。圭一郎は濱家が見たことを信じるしかない状況にある。


「さすがに会話までは聞こえませんでしたけど、楽しそうでしたよ。久しぶりに彼氏に会ったみたいなはしゃぎ方で」


「……」


 圭一郎はまたミイラになった。


「もう、見ない方が……」


 濱家が戸惑うが、圭一郎は更に瞳をギラギラと輝かせて言った。


「いいや。全部、出しなさい」


 その剣幕に、濱家は震える手で写真数枚の束を取り出す。圭一郎はそれを引ったくって一気に見た。

 連続して撮られた写真で、貫井遊馬が何かに気づき、桃の手を引いて路地裏に連れ込んだ所が写っていた。


「こ、これは……?」


 圭一郎は写真を持つ手をワナワナと震えさせながら濱家に確認する。濱家は悪びれずに舌を出して答えた。


「いやあ、尾行に気づかれちゃって。さすがに大極道の若頭は違いますなあ、鋭いもんですわ」


 濱家の言動は、秘書の山内やまうちに入れ知恵されたものであった。だが、圭一郎に寵愛されている山内ならいざ知らず、まだ関係の薄い濱家がやっても効果がないどころか、逆に圭一郎の神経を逆撫でた。


「……何が可笑しい」


 氷のようなドス低い声が圭一郎の喉から漏れた。濱家はうっかりチビりそうになった。


「この後、二人はどうした……?」


 濱家を睨みながら問う圭一郎の顔は、閻魔様も腰を抜かすほどの恐ろしいものだった。


「いやいや、なんにもあらしませんよ!ボクもすぐに隠れ直したんですけどね、数分と経たないうちに桃さんだけ出てきてデパートに行かはりましたわ!」


「ほう……?」


「ああ……でも、ちょっと髪の毛が乱れてたよう……な?」


 プッチーン

 突然、店内が停電になった。


「ヒイィ!!」


 まさかこの社長は人智を超えるのか、と濱家は思わず悲鳴を上げる。

 暗くなった店内で、圭一郎だけが真っ赤に光っているように見えた。


 しかし、すぐに店の電気が点いた。店員が数人慌ただしく動いている。

 明るくなったところで圭一郎を見れば、またミイラのように放心していた。


「……」


「しゃ、社長さん……大丈夫ですか?」


 おずおずと声をかけると、圭一郎はにわかに瞳を白黒させた後、真顔で濱家を見た。


「ああ。とにかく、よくやってくれた。ありがとう」


 おお……痩せ我慢している、と濱家は思った。虚勢でも張っていなくては人の形を保てないのだろう。


「これは少ないが取っておいてくれ」


「あ、ありがとうございます」


 圭一郎が懐から出した封筒を、濱家は中身も確認せずに受け取って立ち上がった。早く帰りたかった。


「また何かあったら連絡する」


 まだあるのかよ、と濱家は内心こりごりだった。山内はよくこんな奇天烈お坊っちゃまについていられるなと尊敬すら覚える。

 だが、金払いがいい。そこがとても魅力的だった。


「い、いつでもどうぞ……」


 濱家はようやくそれだけ言って、脱兎の如く喫茶店を後にした。








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