第34話 都知事選投票日



【7月7日 午後11時 VTuber 千石みねあの配信】


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 こんばんみねあ〜!!

 ついに都知事選投開票日!

 さっそく開票速報行ってみよ〜〜〜〜!!


 あんたらちゃんと投票行ってきたんだろうねー?

 アタシ? もちろん行ってきたわ!

 〈行かない宣言してたじゃん〉?

 あーそうね、そんなこと言って炎上した日もありましたけどね、今回ばかりは心を入れ替えましたよ、ええ。

 〈今回ばかり?w〉――あーあー聞こえなーい。

 やっぱね、選挙ウォッチしてたらね、主張の合う合わないは置いといて、みんな頑張ってんのよ、ほんと。

 アタシもさ、事務所所属じゃない個人VTuberだからさ、チャンネル登録者数ゼロから地道に活動してきた時のこと思い出して、共感しちゃったりなんだったりしたわけ。


 〈当確見たよ〉? そうそう、ついさっきね。

 リスナーさんの情報でさあ、開票してすぐ結果出ることが多いって聞いたから、アタシ8時から配信開始できるように待機してたんよ?

 けど案外時間かかったね。

 〈接戦だったからね〉――うん、マジそうなんだわ。

 ってか、当選した人だけじゃなくてね、そうじゃない人にも何票もらえたかってドラマがあるわけだから。その辺わかるのは選挙ウォッチしてた人間のダイゴミってやつ?


 てなわけで、早速速報を見ていこー!

 今回ほんとすごいことになってるから!


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 少し時を遡り、開票前――。


 今朝は泥のように寝ていた。

 昨日は日付が変わる前には横になったというのに、目が覚めたのはまさかの昼過ぎ。

 起きてすぐ、慌てて投票所に行ってきた。

 本当は「ゼロ票確認」と呼ばれる、投票所に一番乗りした有権者が投票箱が空であることを確認するイベントに参加したかったのだが、早朝アラームが鳴ったことに全く気がつかなかった。

 選挙期間中は毎日早起きできていたのに、よほど疲れが溜まっていたか、気が抜けたということなのだろう。


 天気は晴れ。湿気も少なく、からりとした夏晴れだ。

 選挙活動がぴたりと止んだ東京の街は、心なしかいつもよりも静かである。

 投票を終えてなんとなく近所をぶらぶらし、行きつけの二郎系ラーメンの店に入った。店はそれなりに賑わっていたが、みんなラーメンを啜るのに夢中で誰一人選挙の話をしていない。

 案外、こんなものか。

 目の前にラーメンが運ばれてきて、割り箸を割る。

 パサリと隣で紙のようなものが落ちる音がした。隣に座っていたおっちゃんが席を立つ時に落としたらしい。俺の椅子の下に入り込んだので、拾ってやる。


「落としましたよ――あ」


 選挙のお知らせの封筒だった。

 ポケットに入れていたのかしわくちゃに折りたたまれている。


「ああどうも」

「もしかして投票帰りですか」

「ええ、まあ」

「俺もです。投票お疲れ様です」


 おっちゃんは少しはにかんだように笑うと、「じゃ」と言って店を出て行った。

 ……なんだ、俺だけじゃなかった。

 みんな言わないだけで、何かしらの思いを抱えて投票しているのだ。

 その思いの矛先を、五十六人のうち誰が一番受け止めるのか。

 豊島さんはいったい何票獲得することになるのだろう。




 家に帰り、特にやることもないのでダラダラとスマホを見ていた。


〈中野くん、今日まで本当にありがとう。あおいちゃんにもう一度会えたのも、中野くんのおかげだよ。直接お礼を言いたいんだけど、明日また会えるかな〉


 昨晩24時過ぎに豊島さんからメールが来ていた。俺はもう寝ていた時間だ。

 投票を終えてから返信したのだが、その後彼女からの返信はない。寝過ごして返信が遅れたこと、怒っているだろうか。いやいや、彼女はそういう人じゃないから、単に気づいていないだけだろう。とはいえ今日会うんだったらいつどこで会うのかとか、選挙道具の片付けをどうするかとか、そういえば選挙の後のことって何も決めていない。

 彼女の返信を待とうと思ったのだが、どうにも気になって何も手がつかないので電話をかけてみることにした。


『……ツーツー。お掛けになった電話は、ただいま電波の届かない場所にあるか……』


 ダメだ。繋がらない。

 まさか、燃え尽き症候群?

 急に不安になってきた。

 彼女とこんなにも連絡がつかないのは初めてのことだった。


 俺は意を決して豊島さんの家を直接訪問してみることにした。

 彼女の家の最寄駅に着いたのはもう6時になる頃だった。投票締め切りまで、あと二時間だ。

 彼女の住むアパートの前でもう一度電話をかけてみる。……やはり出ない。カーテンは締め切られている。

 なんだか自分がやっていることがストーカーじみているような気がしてきたが……ええい、ここまで来たらもう一緒だ。

 最後の手段、インターホンを鳴らす。


 ピンポーン。


 ピポピポピポピポピンポーン。


 そういや、いつぞやも彼女がこうやって俺の家を訪ねてきてくれたんだっけ。

 そんなことを思い出していると、勢いよく豊島さんの部屋の扉が開いた。


「ごめん、めっちゃ寝てた!!」


 化粧をせず、いつもより少しあどけない表情の豊島さんが、寝癖ボサボサの状態でそこに立っていた。




 慌てて投票所に向かう彼女に付き添う。

 候補者自身も一人の有権者として投票することができるのだ。

 どうせ自分に入れるのだから期日前投票をしておくこともできたけれど、最後まで各候補者の主張を聞いてから投票先を決めてほしいという思いから当日投票することに決めていたのだ。


「ほんと、中野くんが起こしに来てくれて助かったよ。貴重な一票を自分でなくすとこだった」


 しばらくして、彼女が投票所から出てきた。

 さすがにすぐ近くにポスター掲示板があるせいか、他に投票に来ている人たちがちらちらと豊島さんを見ている。「本人?」「え、本人だよね……?」そんな声が今にも聞こえてきそうだ。


「中野くん、明日からお仕事復帰だよね。この後忙しい?」

「いや、そんなことはないよ。別に事前の準備とかもないし」

「そっか! じゃあ……うちで一緒に開票速報見ない?」

「良いね」


 と、即答してしまってから、俺は数日前くらいに彼女の部屋を(事務的な用事で)訪れた時の光景を思い出した。

 とてもじゃないけど、大人二人テレビの前に並んで座れる状況じゃない。

 彼女の部屋は選挙活動で必要なものの荷物置き場になっていて、立て看板がテレビの前を塞いでいたり、余ったポスターが山積みであちこち占拠していたりするのだ。

 そして、俺が来るまで爆睡していた彼女。

 当然部屋の状況が改善しているはずもなく。


「もしかして、片付けの手伝いも込み?」

「ご明察!」

「はは……まあここまで来たら最後まで手伝うよ」


 そんなわけで、彼女の部屋を片付けていたらあっという間に午後8時。

 豊島さんが頼んでくれたピザを片手に、俺たちはテレビの前で開票速報を見守った。


『午後8時となりました。本日投票が行われた東京都知事選の開票速報をお届けします』


 アナウンサーの言葉に緊張が高まる。

 ここ何回かの都知事選では8時を迎えると同時に出口調査の結果が発表され、それを元に当選確実が報じられることが多かった。開票作業は始まったばかりではあるものの、当確が出た時点で候補者は勝者と敗者に分かれてお気持ちなどをインタビューされるわけである。

 なお、もはやお決まりなので何も感じなくなってきたのが悲しくはあるが、当然のごとく主要候補者以外の元にはテレビ局の中継スタッフは来ていない。


『えー、それではまず十七日間に渡って行われた東京都知事選挙について、映像とともに振り返っていきましょう』


 おや?

 豊島さんと目が合う。

 テレビ画面には選挙初日の各候補の演説の様子や、空白の目立ったポスター掲示板の様子などが映し出された。

 当確はまだ出ないらしい。


 一通り見覚えのある映像が流れた後、画面が切り替わった。

 6時時点の出口調査の結果を棒グラフで表したものだ。あくまで正確な投票結果ではないのでパーセンテージなどの値は出ていない。

 画面に映っているのは上から順に、万願寺、若林、それから……


「豊島さんっ!!」


 ちょうどピザを頬張っていた彼女も興奮気味にうんうんと頷いた。


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 万願寺保雄 ■■■■■■■■

 若林由輔  ■■■■■■■

 豊島直央  ■■


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 彼女の名前が地上波で初めて放映された瞬間である。

 急いでスマホで写真を撮って、豊島さんのアカウントでXにアップすると、物凄い勢いで「いいね」「リポスト」がついた。こちらが投稿する前にもすでに気づいていた人たちもいたみたいだ。


「うーん、でも万願寺さんと若林さんがやっぱり強いかあ」


 喜びも束の間、豊島さんはもう冷静に開票速報を見ていた。


「あくまで出口調査の結果でしょ。蓋を開けてみたらどうか分からないよ」


 スマホでネットの開票速報サイトを見てみると、随時開票結果が更新されていた。開票が終わったところから集計していっているのだろう。現在はまだ開票率7%。得票数が多い順に全候補者の得票数と得票率が並んでいる。

 万願寺が35%、若林が37%。おお、こっちだと若林の方が優勢なのか。どうりですぐに当確を報じられないわけだ。

 それで次点の豊島さんは……


 俺は思わず立ち上がった。


 現在、得票率「9.5%」。

 

 待って、もう一度確認させてくれ。

 この一ヶ月、何度見たか分からない、総務省の選挙についてまとめたウェブページを確認する。

 そこにはこう書かれている。

 都道府県知事選挙の供託金没収ラインは、有効投票総数の十分の一未満であること。

 逆に言えば、10%以上の得票率であれば、供託金が返ってくる。


 行け! 10%……なんとか届いてくれ!


 祈るような気持ちで何度もリロードした。

 数字は10%の前後を行ったり来たりしていてなかなか定まらない。

 気づけばテーブルの上からピザがなくなり、時刻は10時半すぎ。


『たった今情報が入りました! 万願寺保雄さんが当選確実、万願寺さんが当選確実です!』


 ごとんと鈍い音をたて、俺のスマホは床に向かって滑り落ちた。

 豊島さんは静かにテレビに向かって拍手を送っている。


「万願寺さんになったかあ。おめでとうございます」


 再び画面上に流れる万願寺の演説風景。アナウンサーによると四割以上の票を獲得して当選確実の判断となったようだ。しばらくすると画面が切り替わり、万願寺陣営の中継の様子が映し出される。


『万願寺さん、当確発表を受けて今のお気持ちをお聞かせください』

『はい。えー、まずは応援してくださった都民の皆様、支援者の皆様へお礼を申し上げるとともに、事実無根とはいえ選挙期間中にお騒がせすることになったことを改めてお詫びさせていただければと思います。この度大接戦を繰り広げることになったのも、例の件で皆様からの信頼が揺らいでしまった、これが少なからず影響はあるだろうと、勝って兜の緒を締めるではないですが、身を引き締めて公務に向き合って参りたいと思うところであります』


 万願寺がしおらしくカメラに向かって頭を下げた。

 背後に映っている陣営内の様子を見てみれば、確かにあまりお祝いムードという感じはなく、喜びを押し殺しているような、そんな静けさが漂っていた。

 選挙期間中、若林と綾瀬が講じた策がなければこういう万願寺の姿を見ることはなかっただろう。そう思うと、やり方はアレだがちょっとだけ清々しい。


『それでは最後に、新たな都知事としての意気込みをお聞かせください』

『そうですね、えー、意気込みはですね』


 その時、一瞬万願寺の視線が泳いだ気がした。

 何かを迷ったような仕草だった。

 そして改めて息を吸い、彼は言葉を続けた。


『この選挙を通じて、東京にはいかに様々な考えの人々が暮らしているかを実感いたしました。私が池上さんに続きスローガンとして掲げてきた『強い東京』、これをぶらす気はございません。ですが』


 またひと呼吸おき、万願寺はカメラをまっすぐ見据える。


『皆様のお声を聞いて、改めて『強さ』とは何であろうと、考える機会をいただけました。鍛え上げた力ばかりでない、寄り添う力もまた『強さ』であり、必要とされていることが分かりました。ですから改めて幅広い視点で政策を検討し、『』そんな理想の街を皆様とともに築いていければと思うところであります』


 万願寺のインタビューが終わる。


「……今の、聞いた?」

「うん」


 豊島さんは満面の笑みだった。

 だって万願寺のあの言葉――どう考えたって豊島さんに影響されたものじゃないか。


「すごい。すごいよ豊島さん」

「え、ちょっと、中野くん泣いてるの?」

「だって……だってさあ……!」


 選挙には負けた。

 けれど、彼女は人生をかけた勝負に勝ったのだ。

 これが感動せずにいられるか。

 本人よりも先に俺は感極まってぼろぼろ泣いてしまった。

 豊島さんがタオルを持ってきてくれる。……バスタオル。でかいわ!

 けど正解! 俺は、推しの頑張りの成果が出る瞬間、とかくこれに弱いのだ。




【7月8日 午前4時 開票結果】


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 万願寺保雄 2,764,219票 (40.2%) 当選

 若林由輔 2,579,975票 (37.5%)

 豊島直央 688,200票 (10.0%)

 テレポートゆうこ 332,101票 (4.8%)

 鮫洲愛斗 245,448票 (3.6%)

 熊川勝紀 91,641票 (1.3%)

 綾瀬しょう子 76,298票 (1.1%)

 月島大志 23,736票 (0.4%)

 御徒町ハイル 23,791票 (0.4%)

 田端健介 22,016票 (0.3%)

 初台みこと 19,883票 (0.3%)

 大門道夫 7,568票 (0.1%)

 ・

 ・

 ・


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 当確が出た後も豊島さんの得票率が10%行くか行かないかは最後の最後まで分からず、俺たちは一晩中ずっと開票速報に張り付いていた。

 当然一睡もしていない。めちゃくちゃ眠い。


「供託金返還、いえ〜い」

「いえ〜い……」


 嬉しいはずなのに二人とも寝不足が祟ってローテーションのハイタッチとなった。


「やべ、そろそろ始発だし帰らないと」

「お仕事復帰初日だったのに、こんな時間まで付き合わせちゃってごめんね……」

「大丈夫大丈夫。とりあえず今日は在宅だし、うちの会社ゆるいから隙見て寝るよ」

「あはは、悪い社会人だ」


 玄関まで彼女が見送ってくれる。

 すでに日は昇っていて、朝日が徹夜明けのしょぼくれた目に染みる。

 スズメの鳴き声を聞いて、そういや一晩過ごしておきながらやましいことは何一つ起きなかったのを思い出す。選挙の手伝いをし始めた頃なんか下心でいっぱいだったのに、少しもそんな気は起きなかった。どうかしちゃったのか、俺は。


「中野くん。本当に本当にありがとうね」


 豊島さんはぺこりと玄関で頭を下げた。


「いや、俺こそありがとう。大変だったけど、すごく楽しかった」


 頭がぼーっとして気の利いた言葉が全然出てこない。もうちょっとこう、なんか言えないのか。さっき彼女のSNSやメールにメディアからの取材申し込みが山ほど来ているのを見た。選挙期間中は透明人間のような扱いだったくせに、終わった途端、無名から供託金返還ラインまで票を獲得した新進気鋭の若手として注目しようというのだろう。悔しいが彼女はとってはまだまだこれが始まりであり、もう一般人とは別の世界の人間になろうとしている。もしかしたら……こうして会えるのは最後かもしれない。


「豊島さん、あの……」


 一度腹を決めたはずなのに、想いを伝える二文字はなかなか喉の奥から出てこなかった。

 そんなおどおどしている俺を急かすようなことはせず、彼女はふと思いついたように言う。


「そういえばさ、供託金が返ってくるなら、もう一回選挙できちゃうよね」

「……え!?」

「ほら、たとえば、もうそろそろ衆議院議員選挙じゃない?」

「い、いや、そうかもしれないけどっ!」


 確かにさっき都知事選楽しかったみたいなことは言ったけれど、今すぐもう一度別の選挙をやる気になるかというと話はちょっと違いまして、有給取れるかどうかは差し置いても、気持ち的には一年くらいは休みたいというか……!


「もしくは、三百万でできること、他にもあるよね」

「え……?」


 豊島さんが俺の服の裾を引っ張っている。

 まるで必死に引き止めるように、少し震えた手で。

 彼女は俯いていた。俺に顔を見せまいとしているようだった。

 三百万で他にできること。

 そう言われて、彼女が供託金をもともと何に使う予定だったかを思い出した。


「……豊島さん、顔見せて」


 おそるおそる彼女は顔を上げる。

 耳まで真っ赤だった。

 交差する視線。

 引っ込んでいた気持ちがせり上がってくる。

 やっぱり、これで終わりは嫌だ。

 もっとこの人の隣にいたい。


 俺は、片膝をついて彼女の手を取った。


「もしかして俺……豊島さんの夫に立候補する資格、ありますか?」


 彼女の瞳からつうと涙がこぼれる。

 ……って、待て待て待てっ!

 俺、なんかつい寝不足の頭で口走っちゃったけど、恋人の申し込みを通り越して結婚前提の話って、さすがに飛ばし過ぎたんじゃ――

 そんな後悔は、彼女の表情にかき消される。

 夏の花のように輝かしい笑顔。

 彼女はもう片方の手で瞳の端を拭うと、俺の手をぎゅっと両手で包み込んだ。


「もちろんです。中野くん、これからもよろしくね」






【7月6日 午後11時 @新宿三丁目】


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「あれ、中野くんどこに行ったんだろ」


 直央は涙を拭いながら周囲を見渡す。あおいとの再会のことで頭がいっぱいで、栄多がいつの間にかいなくなっていたのに気づかなかったのだ。


「あー……こりゃなんか余計な気を回した感じかな」


 呆れたように肩をすくめるあおい。


「余計な気? どういうこと?」

「直央がここに来る前、高校の時のこと話してたんだよね。私たちってその、お互いにちょっと依存しあってたんじゃないかって話」


 直央は否定も肯定もしなかった。

 高校生の時、たくさん友人はいたけれど、その中でもあおいは特別だった自覚はある。だって彼女は自分の人生の恩人なのだ。憧れ、尊敬……そんな眩い感情に混じって、彼女と思うように仲良くできないことへの澱んだ苛立ちや焦燥が常にあった。高校生、未熟ゆえの不安定な思いは、時に友情よりも恋情に近く変幻することもあった。

 依存、確かにその通りなのかもしれない。

 あおいもそう思っていたのは少し意外だったが、それをそのまま言うのはやはり彼女らしいと思った。

 自分には言えない。過去のこととして曖昧なままにすると決めた。

 あおいとこうして再会できて……そして彼女の指に光るものを見たから。


「あおいちゃん、結婚するの?」


 無理やり話を変える。

 あおいはハッとして指輪を隠すように手を覆った。


「これは……うん。職場の人からプロポーズされて」

「そっかあ、おめでとう! ふふ、先越されちゃった」

「そ、そう言う直央はどうなの。まさか一度も良い人がいなかったわけじゃないでしょう」

「結婚するつもりで付き合ってた人はいたけど、選挙出たいって言ったらドン引きされちゃって。それきり」

「げ、それ本当!?」

「その前の人ともそこそこ良い感じにはなったけど、結婚したら仕事辞めて全国転勤についてきてほしいって言われて合わなかったんだよね」

「まあ、そこはなんか直央らしいというか……」

「それからその前の人も、またその前の人も」

「いったい何人いんのよ!」


 あおいが全力で突っ込んでくる。

 ……ああ、この感じ。

 昔と変わらない、あおいちゃんだ。

 自然と二人、ベンチに隣り合って座っていた。

 十二年前、学校帰り。マックフルーリー片手にこうして何時間も他愛もない話をしたっけ。

 青春が、戻ってくる。

 青春はやり直せる。

 30歳になっても、もう一度。


「……中野くんは?」

「へっ!?」


 突如あおいの口から出た名前に、直央は思わず飛び上がった。


「中野くんが、何?」

「いや、どう思ってるのかなって気になって。そもそもあんたたち高校時代にほぼ接点なかったはずだよね? なのに選挙の手伝いしてるって聞いてすごくびっくりしたんだけど。あ、もしかしてあれ? 中野くんって高校の時に政治ガチ勢って勘違いされてたらしいけど、それを真に受けて今回のこと相談したとか」

「ち、違うよ! 中野くんのことは――」


 実は初めから知っていたのだ。

 彼が政治ガチ勢ではなくアイドルを推しているだけの普通の男の子だったということ。高校時代、あおいと二人きりで話しているのを目撃してから、彼のことを分かる範囲で調べていたので知ってはいたのだ。

 それからずっと気に掛かっていた。どうしてあおいは彼にだけ心を許したのか。彼はいったいどういう人間なのか。けれど彼は自分と違う人間とは交流を避けるようにしていたから、メールアドレスを聞く以外、話しかけることは叶わなかった。


 彼を選挙に誘うのは正直かなりの勇気がいった。

 十二年という長い年月の間、人が変わったようになる人だっている。

 だけど、再会したあの日。

 ひと目見てわかった。……嬉しかった。

 

 久々に会う同級生を警戒して一線を張り、自信のなさからかどこかちぐはぐな背伸びをしてはいるけれど、瞳は濁らず澄んでいた。優しい人の瞳だ。仕事でもプライベートでも様々な人と触れ合ってきた直央には無意識のうちにそれを見抜く力があった。


 それから一ヶ月行動を共にして、彼にはたくさんの力と勇気をもらった。

 応援する人のためにどこまでも一生懸命になれる、それが彼の最大の強みだった。

 彼がそばにいてくれたからこそ、今の自分がここにいる。

 これからもずっと隣にいてくれたら、どこまでも頑張れる気がする。


 ……これからも、ずっと?


「直央、顔赤いよ」


 あおいがニヤニヤと悪戯な笑みを浮かべていた。

 両頬に触れてみると、確かに熱かった。

 自覚するとますます火照りに拍車がかかる。


「……そうか。わたし、中野くんのこと好きになってたんだ」


 思わず呟くと、あおいがぷっと吹き出した。


「まあ、そうなのかなって、演説見てた時から思った」

「ええ!? バレバレ!?」

「だって直央、中野くんと目が合うときにめちゃくちゃ生き生きしてたし」

「そんなあ……恥ずかしすぎる」

「まあ、中野くん本人は気づいてないと思うけど」


 あおいはしししと笑うと、直央の頬にコーラ缶を押し当ててきた。

 夏の熱気の中、ほんのわずかに残っていた冷たさが、あっという間に直央の温度に吸い込まれていく。


「直央ってさ、昔から運動部のエースとか、学年一の秀才くんとか、色んな人から告白されてたけど……本当は自分と違うタイプの人のことが好きでしょ。だから中野くんとなら、良いコンビになると思うよ。二人の友だちとして、応援してる」


「あおいちゃん……ありがとう」


 新宿の夜更け。酔っ払った人々が駅に向かって目の前を通り過ぎていく。

 間もなく日付が変わり、いよいよ投票日当日だ。

 終電の迫るあおいと別れを告げ、直央は帰りの電車の中でメールを打った。

 たった一言、明日会おうと書けば良いだけなのに、なかなか文章が決まらない。

 書いては消して、書いては消して……。結局、ようやく送信ボタンを押せたのは24時を過ぎて家に着いてからだった。栄多からの返信はいつも早いけれど、なかなか連絡は返ってこない。


(たぶん寝ちゃったかな。……でも大丈夫だよね、中野くんだもん)


 待ち遠しいけれど、不思議と不安ではなかった。

 この選挙期間、色んなものを乗り越えてきたから、もはや恋人よりも熟年夫婦のような絆ができているのかもしれない。


「ふふ。楽しかったな」


 直央はそう呟くと、枕を抱きしめ目を瞑る。

 濃密な十七日間。

 その思い出がどっと湧き出して、彼女の頭の中に新たなアルバムを紡ぐのであった。






〈了〉




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 本編はこれにて完結、これ以降は各キャラの過去やアフターエピソードを描いた番外編を更新予定です。

 本作を楽しんでいただけたら星評価・レビューをいただけると嬉しいです。

 (すでに評価してくださった方、ありがとうございます!)

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