第32話 マイク納め
激しい雨が新宿の街に降り注ぐ。
ゲリラ豪雨だ。
ここ最近、夕方になると突然降り出して雷とともに大荒れになる日が続いている。雲の動きは早く、天気予報によれば数十分もすれば雨雲は通り過ぎるらしい。
「”新宿は、豪雨”……」
豊島さんがぼそりと呟く。
俺たちはJR新宿駅東口の屋根の下で雨宿りをしているところだった。
「東京事変の『群青日和』だよ。知ってる?」
「ああやっぱりそれか。聞いたことのあるフレーズだと思った」
2004年にリリースされた曲で、ファンに愛される名曲である。今でもYouTubeで歌ってみた・弾いてみた動画をアップする人が多い。
「あおいちゃんがね、カラオケ行くとよく歌ってた曲なんだよね。わたしたち二人とも大して歌うの上手じゃないけど……でも、あおいちゃんの歌う姿ってカッコよかった」
「へえ、なんか想像できないな」
「ふふふ。聞いたら中野くんもきっと驚くよ。あおいちゃんってね、中学時代ソフトボール部だったんだって。厳しい部活で毎日声枯れるまで練習してたらしくて、そのせいか、すっごくよく声が通るんだ」
予報よりも早く雨がおさまってきた。
慌ただしかった往来も落ち着きを取り戻し始め、街を彩っていた傘たちは閉じていく。
同じくどこかに雨宿りしていたのか、万願寺のテーマカラーのえんじ色のTシャツを着た陣営スタッフたちがどこからか姿を見せ始めた。演説のための場所取りをしようとしているのだろう。
「俺たちもそろそろ行こう」
豊島さんにタスキを渡す。
彼女はこくりと強く頷くと、拡声器を握って屋根の下から躍り出た。
「新宿駅の皆さん、こんばんは。東京都知事選に立候補している豊島直央、豊島直央と申します!」
選挙カーも大勢のスタッフもいない俺たちは身軽だ。
豊島さん本人と拡声器と小さな脚立、それから選挙七つ道具の旗。
これだけあれば演説ができる。
新宿駅東口の一番人通りが多い場所で豊島さんが演説を始めると、周囲にいた万願寺のスタッフたちは一瞬困惑した表情を浮かべた。そりゃそうだろう、万願寺が喋る予定だった場所を先に取られてしまったのだから。だが、彼らは特に何かしてくるわけでもなく打ち合わせや陣取りを続けた。
……舐められている。俺はそう思った。
たかだか泡沫候補の一人、万願寺本人が来たらどうとでもなると思われているのだろう。
せいぜい今は高みの見物でもしてろ。一泡吹くことになるのはそっちの方だ。
豊島さんの前に次第に人だかりができてくる。
ちょうど十八時を過ぎ、学校や仕事を終えた人たちが駅に集まってくるタイミングだった。
「誰? この人も都知事選に出てるの?」
「あ、ネットで見たことある。けっこう良いんだよね、政策とかまともでさ」
「実は面白そうだからポスター貼りちょっとだけ協力したわ」
「え、偉すぎ。あれってボランティアなんでしょ」
そんな声がちらほら聞こえる。
初日、豊島さんの地元・練馬で演説した時とは全然様子が違っていた。元々彼女と繋がりのなかった人々が、東京の雑踏の中でただすれ違うことでしか交じりあうことのないはずだった人々が豊島さんを見ている。
演説の輪はあっという間に十人、二十人と増えていき、豊島さんが三分尺の演説を終えた頃には五十人近くの人々が足を止めていた。
通りすがりの人だけでなく清瀬くんたちを始めとしたボランティアで関わってくれたメンバーも駆けつけてくれて、豊島さんが話し終えると温かな声援と拍手が湧いた。
こうなってはさすがの万願寺陣営も焦りを覚えたらしい。
俺たちの隣でいそいそと準備をし始め、スタッフの一人がマイクを取る。
「えー新宿駅をご利用の皆さま、こちらに間もなく万願寺保雄さんが到着いたします。東京都知事選、最後の演説です。どうぞこのままお待ちいただき、万願寺さんの都政にかける熱い思いをお聞きいただければと思います。その前に、万願寺さんについて同じくA党所属の都議会議員・上野さんにご紹介いただきたいと思います」
マイクが別の人物に渡される。
なるほど、万願寺が到着するまで応援演説で時間を稼ぐつもりのようだ。
だがすぐに知名度のある政治家が出てこないということは、まだ準備が間に合っていないということだろう。
それに比べ、こちらは準備万端だ。
豊島さんに合図を送ると、彼女は頷き再び拡声器をとった。
「それではここから、応援演説をしてくださる方をご紹介したいと思います。まずは都職員時代に大変お世話になりました、新宿区長の三ノ輪さんです」
聴衆がどよめく。
無名の候補の応援演説にまさか23区の区長が現れるとは思ってもいなかっただろう。
東京都内の市区町村の首長の立場はというと、現職・池上が支持する流れから万願寺を後継者として応援する者が多いとは言われているが、それでも全員ではない。中には池上が推し進めてきた「強い東京」に批判的な人物もいる。
もともと都職員として勤めていた豊島さんは、そのあたりの嗅覚が鋭かった。万願寺を支持しない、あるいは中立的な立場を取ろうとしていた首長たちに声をかけ、応援演説に出てもらえないか掛け合ったのである。
最初はなかなか受けてもらえなかったが、彼女の知名度が上がるにつれ風向きが変わった。その中でも最初に承諾してくれたのがこの新宿区長だった。
「あの辛いコロナの時期を乗り越えた、それこそが池上都政の成果だと、池上さんや万願寺さんはおっしゃいます。本当にそうでしょうか? 否、まだ終わっていません。都が厳しい制限をした影響で、店を閉めざるを得なかった事業者がいます。職を失った人たちがいます。その人たちにとっては、まだ全然終わっていないんです。豊島さんの政策をご覧になりましたか。彼女は分かっている。本当に優しい人です。彼女ならきっと終わったことにせず必要な支援を優先させてくれると、私は確信しております」
新宿区長だけでなく、豊島さんの大学時代にお世話になった教授や選挙活動を通じて繋がったシングルマザーのインフルエンサーなど、続々と頼もしい人々が小さな脚立の上に立った。
正直、これだけ豪華な顔ぶれがゲストとして駆けつけてくれると決まった時、最終日の一日だけ選挙カーを借りる案も出てはいた。だが、そこは「有権者の皆さんとできるだけ同じ目線に立ちたい」という豊島さんの意向で、初日から使い続けているお立ち台だけでやることになったのである。
「栄多さん栄多さん、ちょっと! これ、やばいっす!」
脇で演説を聞いていたら慌てた様子の清瀬くんに小突かれた。
何かトラブルだろうか?
彼にはこの演説のライブ配信のチェックをお願いしていたのだが……。
清瀬くんがパソコンの画面を見せてきた。ライブ配信のコメント欄。そこには、
〈ポスター掲示板、100%になってるよ!!〉
とある視聴者の書き込み。
まさか、本当に?
慌ててポスター貼りゲームの管理ツールを確認する。
……マジだ。
全ての掲示板が「貼付済み」のステータスになっている。
都内全域1万4000ヶ所。ここに豊島さんのポスターが貼られたのだ。
急いでカンペ用のスケッチブックに「ポスター100%」と書き込んだ。
応援演説をしてくれた人へのお礼を述べていた豊島さんに見せると、彼女はハッと目を見開く。それから聴衆たちに向き直り、大きく息を吸って高らかに告げた。
「速報です。皆さんのご協力のおかげで、ポスターの掲示率がたった今100%になりました!」
割れんばかりの拍手と歓声が辺りを包み込む。
「直央! 直央!」
「ええじゃないか! 直央!」
自然と湧き起こるコール。
なんという熱気だ。
豪雨の後の冷えた空気はどこへやら、まるでアイドルのライブ会場だ。
豊島さんは満面の笑みを浮かべ「ありがとうございます」と連呼する。汗が滲み、頬を火照らせた彼女は、この十七日間のどの瞬間よりも輝いていた。やっぱり豊島さんはこうでなきゃ。人に愛され、囲まれる天性の素質を持った人。選挙序盤、なかなか注目されず苦戦した日々のことを思うと、ぐっと胸にくるものがあった。
万願寺の取材目的で足を運んだのであろう記者たちも、なかなか本人が現れない万願寺陣営よりこちらにカメラを向け始めている。
いいぞ、狙い通りだ。
だが、万願寺陣営も無策ではなかった。
「ご注目ください! 現職の池上都知事が駆けつけてくださいました!」
そう、ここは新宿。都庁のお膝元である。
直前に万願寺が演説していたらしい渋谷よりは、はるかに距離が近かった。
本来は万願寺と池上が並んで立つのが効果的だろうが、豊島さんの陣営が想定以上に盛り上がっているので、スタッフが慌ててヘルプを出したのだろう。
池上は颯爽と万願寺陣営の街宣車の上に立つと、都民にとっては聞き慣れたアナウンサーばりの美声で往来の人々に呼びかける。
「皆さん、お仕事・お勉強お疲れ様です。現職都知事の池上です。まもなくこちらに万願寺さんが到着されます。都知事選最後の演説です。明日の投票日に向けて、ぜひ一度耳を傾けてみてください。東京がより豊かになっていく、そんな未来を任せられるのは万願寺しかいません。一度お話を聞けば、そのことがきっとお分かりになるかと思います」
池上が時間を稼いでいるうちに、万願寺のポスターが貼られた選挙カーがゆるりとこちらに向かってくるのが見えた。
「万願寺さんご到着! 万願寺保雄マイク納め、始まります!!」
陣営スタッフたちが大声を張り上げた。気を取られたこちらの聴衆をしれっと輪の中に囲い込み、俺たちを追いやろうとしている。
「おい、ちょっと! こっちが先に場所を取っていただろう! ずるいじゃないか!」
抗議してくれる支援者がいた。
しかし向こうのスタッフは見向きもしない。勝手にこちらの聴衆を取り込んでどんどん陣を広げていく。百人、いや二百人以上だろうか。あっという間に人だかりができて、人一人通行する隙間もあるかないかくらいの集まりになった。
豊島さんは負けじと演説を続けようとする。
「わたしがみなさんと一緒に作っていきたいのは、もう二度と冷たい街なんて言わせない、優しい東京、助け合える東京で――」
だが、かき消される。
姿を現した万願寺を出迎える拍手。質の良いマイクの大ボリューム。大勢の陣営スタッフによるコール。
豊島さんの周囲に集まっていた人たちはつい気を取られ、ひとり、ふたりとその場を去っていく。記者たちのカメラはもう、こちらを向いていない。
圧倒的力の差。
俺は支援者たちと必死に去って行く人々を呼び止めた。でも、まるで透明人間のように無視される。気づかないふり。
熱が、冷めていく……。
豊島さんが脚立を降りた。
諦めた? 否。彼女はこんなことで折れる人ではない。
彼女は拡声器を持ってずんずんと万願寺陣営の方へ歩いていき、万願寺が最初の挨拶を終えたタイミングで声を上げた。
「万願寺さんっ! 同じく都知事選に立候補している豊島直央です! これが最後のお願いです! 一分で構いません! 一緒に東京の未来について、議論させてもらえませんか!!」
大声を出しすぎたせいか、拡声器からキィンと嫌な音が響いて近くにいた人たちが苦笑する。
万願寺は気づかなかったふりで再び演説を再開した。
豊島さんはじっと待っている。候補者の演説途中で拡声器による発言をするのは妨害行為になってしまうからだ。
再び、万願寺が一度話し終えたタイミングで豊島さんは声を張り上げた。
「お忙しい中お時間を割いていただくのは申し訳ないと思っています。だから、議論させてもらえないなら一つだけ質問させてください。万願寺さんは『強い東京』を築くことをテーマとされていますが」
豊島さんの声が途切れた。万願寺の聴衆の一人がぶつかってきたからだ。
「あんたうるさいなぁ。万願寺さんの話聞いてんだから、あっち行けよ」
そうだそうだ、と周囲にいた人々が同調して豊島さんに迫ってくる。俺は咄嗟に間に入ったが、あっという間に万願寺の支持者たちに囲まれてしまった。彼らは容赦なく俺たちを押してきて、陣の外に排除しようとする。
くそっ、力が強い。
清瀬くんたちがこちらに駆けつけようとしてくれたが、人混みのせいでなかなか近づけそうになかった。
もみくちゃにされながらも豊島さんは問いかけをやめない。
「万願寺さん! お答えください! 行政にしか手を伸ばせない人たちのことをどうお考えなのか――」
万願寺、そしてその応援演説にやってきた池上。
二人は……街宣車の上で笑っていた。
眼下の俺たちをいないもの扱いして、司会のスタッフのしょうもないジョークに笑っている。
「東京はまだまだポテンシャルのある街なんですよ。世界の住みやすい都市ランキング第一位を目標にやって行きたいと思いましてね」
「そうそう、大阪には負けてられないですからね」
「国際競争力を考えると、そろそろ老朽化したインフラにテコ入れをするべきでしょう。そうなると大型のイベント誘致はやはり必要だと思っています」
「ここが万願寺さんがこれまで積まれてきた政治経験の手腕を発揮するところですね」
「ええ。それから、コロナ禍で一度沈んだインバウンド消費をより強化して……」
万願寺と池上のトークがひと段落して、豊島さんは再び声を上げた。
「万願寺さん、池上さん。わたしはッ……!」
しかしそれ以上言葉は続かない。何度も声を張ったせいで、連日の疲労も蓄積しているせいで、声が枯れてむせてしまったのである。
もう、限界だ。
それでも彼女は拡声器を手放さない。
街宣車の上を見据え続ける。
誰かが止めなければ、倒れるまで叫び続けそうだった。
俺が止めるべきなのか?
これ以上彼女が侮辱される前に、彼女が傷つく前に……。
いや、そんなことできるわけがない。
これが万願寺と戦えるラストチャンスなのだ。
退くことはできない。
周囲にはますます人が増えてきた。
俺は豊島さんを庇うように前に立った。肩でどつかれる。わざと押される。万願寺に向かって振り上げた腕で殴られる。
「中野くん!」
「俺に構わなくていいから! 豊島さんは豊島さんのなすべきことを!」
「うん……!」
彼女は頷き拡声器を口元に掲げる。
だが、誰かが彼女にぶつかった衝撃で拡声器を落としてしまった。
あっという間に人混みに飲まれ、どこに行ったか分からない。屈む隙間すらない。
万事休す――絶望がよぎった、その時だった。
「直央の話を聞けーーーーッ!」
どこからか女の声が響いた。
群衆のざわめきを掻き消すほど、よく通る声だった。
万願寺と池上も一瞬何事かと声のした方を見やる。
彼らを囲む聴衆の後方、俺たちからも少し離れた場所に、黒い短髪の女性が立っていた。
Tシャツにスキニージーンズのラフなスタイルで、活発そうな第一印象から一瞬誰か分からなかった。
けれど、豊島さんは彼女のことを見違えるはずがなかった。
「あおいちゃん」
蓮根あおい。
豊島さんがずっと探していた親友がそこにいた。
大勢の注目を浴びて彼女はかっと顔を赤くすると、逃げるようにその場から去っていく。
「中野くん、お願い!」
「わかった!」
豊島さんに託され、俺は彼女を追いかけた。
豊島さんだけをこの場に残すことに気がかりがないわけじゃない。
でも……きっともう大丈夫だ。
彼女の瞳に再び光が灯るのを確かに見届けたから。
「……ええー、気を取り直して次の政策についてですが……池上さん?」
万願寺が演説を再開しようとする横で、池上の視線は先ほどまで蓮根さんがいた場所に釘付けになっていた。
「以前にも、こんなことがあったような……」
それは、十二年前の爪痕。
その時初めて豊島さんと池上の視線が交わった。
池上は観念したように瞼を閉じ、頷く。
「そこのあなた、どうぞ発言を」
他の候補の名前すら覚えていない不遜な態度。
それでも彼らを囲む人々は池上の「寛大さ」に拍手を送った。
万願寺も渋々いったんマイクを置く。
豊島さんはそんな相手にまっすぐ感謝の意を伝えながら、最後の訴えを行った。
「誰もが強くあれるわけではありません。普段は強い人でも、時には折れてしまうことだってあります。どうか、耳を傾けてください。今この瞬間にも東京のどこかに辛い思いをしている人がいること、忘れないでください。そうしたらきっと東京はもっと良い街になれる。一候補者としてではなく、一都民としてのお願いです。万願寺さん、池上さん、そしてここにいる皆様。明日の結果がどうあれ、優しくて強い東京、どうか一緒に作っていきませんか……!」
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