第31話 栄多の葛藤


「ふう。今日も疲れた……っ!」


 汗ばんだ身体をそのままベッドに投げ出す。

 風呂、入らなきゃ。でも少し休みたい。

 なんとなくスマホを見れば、PM11時。あと一時間で日付が変わる。


 毎日が怒涛のごとく過ぎていき、今日は七月五日だ。

 都知事選十六日目。いよいよ明日で選挙期間最終日になる。


 先日撮った若林との八丈富士での対談動画は再生数三十万回を超え、豊島さんが出ている動画の中では過去最高のものとなった。

 おかげで豊島さんの認知度は一気に上がり、Xのフォロワー数も順調に増加中。鮫洲との合同討論会の前は15,000人だったのが今や80,000人を突破し、二日後の投票日当日には100,000人にも届きそうなペースだ。

 ちなみに、八丈富士の動画は若林自身の動画の中でも比較的再生数の多い動画になっている。普段厳しい論調で万願寺を批判することの多い若林だが、この時は豊島さんと防災政策について前向きに意見を交わしていて、彼の好感度も上がるきっかけになったようである。

 それでも地上波で豊島さんが取り上げられることはやはりなかったが……八丈島に行った翌日、ついにとある新聞社が中盤情勢の分析で彼女の名前を掲載した。


〈万願寺氏が先行するも、氏のスキャンダル以降、若林氏が破竹の勢いで迫る。元都職員の豊島氏は伸び悩みか。都知事選には他に五十三名が立候補し、独自の戦いを繰り広げている〉


 政治経験も後ろ盾もない人物がこうして名前を掲載されたのは異例のことである。豊島さん本人をはじめ、支援者一同が大盛り上がりしたのは言うまでもない。俺だって今自室の壁にその記事の切り抜きを貼ってある。

 新聞離れという言葉を目にするようになって久しいが、それでもネットより新聞の方が情報が伝わる人がいる。それを証明するかのように、新聞掲載後にポスター貼付率はぐんぐん伸びていった。今では都内全部の掲示板に対してなんと貼付率は93%。もしかすると100%も夢じゃ無いかもしれない。それだけ、豊島さんの知名度や支援者の数は日を追うごとに勢いを増している。


 八丈島から戻ってきてからも豊島さんは他の候補へのアタックを続け、返答があった人と積極的に合同演説やネットでのライブ配信を行った。最初は返事を渋っていた候補も彼女の評判が上がるにつれ興味を持ち始め、ここまでにコラボをしたのは鮫洲・若林を含めて合計十二人。

 それだけじゃない、日頃YouTubeで時事を扱っているYouTuberのチャンネルからも声がかかることがちらほら増えた。

 嬉しい悲鳴で、やばい日は十五分単位で何かしら予定があるという超過密スケジュールになったが……これはなんとか乗り切った。過去に仕事で炎上プロジェクトの進行管理を担当した地獄の経験がまさか選挙の手伝いで生きることになるとは。人生いつ何が起こるか分からないものである。


 一方、万願寺には何度も連絡を取ってみたが、いまだに返事は来ていない。

 だから、いよいよ最後の手段だ。

 メディアが最も注目するマイク納めのタイミング、そこで直接対決を挑む。

 万願寺はスキャンダル以降マスコミの出待ちを防ぐために演説場所を事前公開していないので、マイク納めの場所も明かされてはいないが……それについては若林と綾瀬からある程度信ぴょう性の高そうな情報を得た。

 万願寺は選挙最終日の夜に歌舞伎町の行きつけの店を予約しているらしい。

 だからおそらく、マイク納めは新宿だ。

 それに合わせて豊島さんの最終日の演説回りの予定ももう固めてある。


 ただ……気がかりは。

 今日の最後の演説が終わって撤収作業をしている時、俺は豊島さんに思いきって尋ねてみた。「蓮根さんと連絡は取れた?」と。しかし彼女は首を横に振った。


「大学の同級生から『都知事選出てるじゃん』って連絡が来たのもつい昨日のことだし、まだまだ選挙に出てること自体気づかれてないのかも。投票所にはさすがに全候補者名載ってるし、きっと気づいてくれるんじゃないかな」


 前向きな言葉でそうは言っていたものの、内心不安なのだろう。たびたびメールボックスや通話履歴を見ては肩を落とす姿を見かけていた。

 二人のために何かできることはないか、俺なりに色々考えてはみたものの……正直お手上げだ。蓮根さんの近況について手掛かりがなさすぎる。彼女の名前でGoogle検索とかもかけてみたのだが、Facebookアカウントを持っている気配はなさそうだったし、彼女の名前が載っているサイトも特にヒットはしなかった。

 あとは明日全力尽くして豊島さんの言う通り投票日を迎えるしかない。

 ……いや、でも本当にそれで気づいてくれるだろうか。

 投票所で全候補者の名前を見てから投票する人は少ない。真面目な人はあらかじめ投票する人を決めてから投票所に行くだろうし、そうじゃなくても投票所に並んでいる間にポスターを見てなんとなく決めるだろう。あるいは特に入れたい候補者がいなくて白票を投じるか、そもそも投票所に行かない可能性だって……。


〈クッキーさん、お返事遅れてごめんなさい。メッセージありがとう、嬉しかったです〉


 Xから新着通知があり、開いてみるとダイレクトメッセージが届いていた。うめさんからだ。

 ちなみに「クッキー」というのは俺のXでのハンドルネームの略称である。正式には「@cookie_tabetai」。考えるのが面倒でメールアドレスと同じにしてしまっている。IT業界で働く者としてあるまじきガバガバセキュリティだが、どうせ豊島さんにしか聞かれたことのないメールアドレスだし、好んで俺のアカウントを探してくる人なんていやしないので別に構わない。その証拠に、豊島さんは未だに俺個人のXアカウントには気づいていないらしい。


〈ようやく仕事が落ち着いてきたので久々にログインしました。みねあ氏、まだ選挙ウォッチ続けててびっくりしました〉

〈わかります。ゲーム実況もチュートリアルで投げ出すほどの飽き性なのに〉

〈ほんとそれwww まさかの政治ネタが天職だったとはwww〉


 ……よかった、いつものうめさんだ。

 レスの速さと文面の雰囲気を見てホッとする。


〈DMに書かれてましたけど、クッキーさんもお仕事お忙しかったんですか?〉

〈あ、いや俺は〉


 返信を書いている途中でふと手を止めた。

 真っ正直に選挙の手伝いをしてたなんて伝えてどうする。

 うめさんは元々みねあの選挙行かない発言で炎上した動画を共感しながら見ていた人だ。仕事が忙しいから病んでいるという理由でXから離れていたが、このタイミングで戻ってくるってことは、やっぱり本心は推しが政治ネタばかり話題にするのがしんどかったのではないか。

 そんな人にわざわざ選挙の話題を振らない方がいい。その方がきっとお互い仲良いままでいられる。


 だけど――それでいいのか、栄多。


〈わたしの政策に共感してくださった方へ。無理のない範囲で構いません、お友だちやご家族に豊島直央のことをお伝えください。一人でも多くの方に知ってもらえると嬉しいです〉


 豊島さんの演説やSNSの告知で何度も使用したこのフレーズ。

 実際、多くの人が拡散協力してくれて、クチコミによって支持者の輪が広がってきた。

 それなのにこの選挙期間ずっと豊島さんのそばにいた俺は、俺自身は……。

 家族には豊島さんが高校の同級生で彼女の手伝いをしていることを伝えた。ただ、それだけだ。職場の人とは政治の話ができるほど深い仲ではないし、学生時代の数少ない友人とも卒業してからしばらく会っておらず今どうしているかすら分からない。普段からやりとりがあるのは推し活を通じて繋がっているネット上の友人だけで、その筆頭がうめさんだった。


 うめさんにさえ豊島さんのことを伝えられないのか、俺は。


 高校時代の陰気な俺がじっとりとした視線で見つめてくる。

 政治ガチ勢と勘違いされて、腫れ物のように同級生から距離を取られて。教室で息を潜めて日々を過ごし、一刻も早く卒業の日が訪れるのを待っていた、ちっとも面白くなかった青春時代。

 ネットのおかげでようやく手に入れた友人を、また同じ過ちで失う気か?


 けど、同時にもう一人が俺に励ますような視線を送ってくる。

 いつの間にか心のうちに棲みついたちっちゃな豊島さんだ。


「高校生の時はみんな子どもだっただけ。青春はやり直せるよ。自信を持って、中野くん!」


 青春……青春か。

 思い返せば、豊島さんと久々に再会して今日までの怒涛の日々こそ、かつて憧れた青春そのものだった。

 しんどい時もあった。恥を晒した時もあった。

 でも、それを乗り越えたからこそ得られたものがある。

 達成感、感動、……そして豊島さんとの結束。


 俺は、彼女と過ごしたこの日々のことを、偽りたくはなかった。


〈実は、高校時代の同級生が今、都知事選に立候補しているんです〉


 俺はありのままをうめさんとのダイレクトメッセージに綴る。


〈俺は彼女の手伝いでここ最近バタバタしてました。もしうめさんも都民で、まだ投票する人決めてなかったら……動画だけでも見てあげてくれませんか。彼女、豊島さんって言います〉


 そうして、豊島さんが政策や都政への想いを語る名刺代わりのショート動画のURLを貼りつける。

 時刻は24時を回ろうとしていた。

 10分くらい待ってみたが、うめさんからの返事はない。

 もう寝ているだろうか。……いや、やってしまったのかも。

 いくら気が合うとはいえ、やっぱり直接会ったこともない相手に政治の話なんて振るべきじゃなかったんじゃないか。

 後悔の念がわっと襲ってくる。

 それでも、だ。

 嘘をついてごまかしたら、もっと後悔していただろう。

 ……なんて、豊島さんみたいな考えが湧いて、思わずふっと笑みがこぼれた。

 しばらくそばにいるうちにずいぶん影響を受けたみたいだ。

 思い出せば彼女と再会したあの日、舐められたくなくて一生懸命取り繕っていたっけ。そうしなくても良くなったのはいつからだったか……ああ、俺が風邪を引いて豊島さんが看病しに来てくれた日のことだ。

 あの日彼女が座っていた場所、作ってくれた卵うどん、ころころ変わる表情……全部、覚えている。


 思わず、通話ボタンを押していた。


『え、中野くん!? どうしたの? そっちから電話かけてくるなんて珍しい……何かあった?』


 豊島さんの声はやや慌てた様子だった。

 確かに、彼女からいきなり電話がかかってくることはあれど、俺からはあまりなかったかもしれない。


「いや、特に何か用事があるわけじゃないけど。……起きてた?」

『うん。ちょっとだけ明日の演説の練習。でももう寝るよ』

「そうだよね。俺ももう寝ると思う」

『明日が最後だもんね』

「……だね」


 明日が、最後。

 これが終われば俺も来週には仕事に復帰して、日常に戻るわけで。

 仕事を辞めてしまった豊島さんはどうするつもりなのだろう。

 もちろん当選すれば都知事になるわけだが、そうじゃなかったら?

 いずれにせよ、毎日八時間以上顔を合わせていた日々は終わりを告げ、もう彼女と会う理由がなくなってしまう。


 それは……嫌だ。


「豊島さん」

『ん?』

「伝えたいことが、あるんだけど」

『うん』

「……………………」

『中野くん?』


 言いたい。

 言いたいけれど……今じゃない。

 思わずこぼれ出そうになった言葉を、俺はぐっと飲み込んだ。


「……おやすみ。また明日」

『えっ。あ、うん、おやすみ! また明日ー!』


 通話が切れた。

 彼女の陽気な声が鼓膜に余韻として残り、じんじんと耳が熱い。


 ……決めた。

 選挙が終わったらちゃんと言おう。

 豊島さんのことが好きだ、って。

 恋人になれなくてもいい、友だちとしてこれからも会えると嬉しい、って。

 

 相変わらずうめさんからの返信は来ていなかった。

 だが、不思議と豊島さんの声を聞いたおかげか気分は落ち着いて、自分でも驚くくらいよく眠れた夜になったのであった。



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