第30話 若林を追って
「うーーーーみーーーー!!」
ああ、本当に来てしまった。
美しい青い海に囲まれた、都心から最も近い南国・八丈島。
空港から3キロほどの港まで来て、海風をいっぱい浴びながら豊島さんはくるくると楽しそうに回っている。綾瀬の車と飛行機の移動中、合計二時間ずっと寝ていたのですっかり疲れはとれたらしい。
「おやおや。新婚さんかい」
「ちちちち違いますっ!!」
観光案内所のおじいさんに尋ねられ、思わず食い気味に否定しまった。
こうして声をかけられるのは実のところ本日三度目である。
良い歳の男女が二人で島に来ているとどうしてもそう見えてしまうらしい。豊島さん、すまん。
今はタスキをかけていないので、残念ながら都知事選の候補者とも気づかれていないようだ。
「そいじゃ、プロポーズ旅行かい。それなら夜がええよ。ここは星がよく見えるし、ロマンチックだからなあ」
頑張れよ、と背中を叩いておじいさんは去っていく。
だからそういうんじゃないんだってば。日帰りだし。
「あ、中野くん。あっちに掲示板あるよ」
「ほんとだ。せっかくだから貼っていこう」
実を言うと、昨日まで島しょ部エリアには豊島さんのポスターが一枚も貼られていなかった。これは豊島さんに限った話ではなく、ほとんどの候補がそうだ。ここに来るまでも何ヶ所か掲示板を見かけては貼ってきたが、すでに貼られているのは万願寺と若林、そして相変わらず謎に組織力のあるテレポートゆうこくらい。
選挙戦十日目ともなれば、23区であれば住宅街でも十数枚くらいはポスターを見かけるようになったが、島に関してはよほど地盤があるか、こうして自分の足で訪れない限りはポスターが増えないようだ。
「うん、綺麗に貼れた! さて、この後どうしよっか」
「ええと……とりあえず八丈島に来てるってことはさっきXでポストしておいたから、午前中は人通りの多そうなところから演説で回っていこうか。今みたいに掲示板見つけたらポスターも貼りつつ」
「オッケー! あ、昨日の配信見た人からポスター貼り協力したいって連絡来たから、十三時には港に戻ってきたいな」
「となると、回るルートはこんな感じで……」
地図に印をつけながら順路を決めていく。
どこかで若林を捕まえて合同演説を申し込みたいところだが、残念ながら空港では見当たらなかった。その後、SNS上の目撃情報を元にここに来たのだが、どうやら行き違いになってしまったらしい。もうすでに撤収した後のようである。
若林は次にどこに行くのだろう。ゲリラ的にやるつもりなのか、彼の公式SNSでは詳しい演説場所を明かしてはいない。
そうなると、島内の人通りが多い場所を順に追っていくのが手っ取り早そうだ。
観光案内所でレンタサイクルを借りて、まずは島の南にある温泉地へ。海沿いの道路を走りながら、あちこちに咲いているハイビスカスや潮風になびくヤシの木を見ていると、ついつい旅行気分になってしまう。
いっそ一泊して明日は他の島を巡るプランでも……。
「あはは、気持ちいいー! 泊まりたくなっちゃうねー!」
自転車を漕ぎながら豊島さんが無邪気に言った。
ええん、「俺もだ」って言いたいよう。
でも今は大事な選挙期間だ。島に来たことで今日もともと回る予定だった場所は別日に回さなければいけない。知名度がないぶん足で稼がなければいけない選挙、遊んでいる余裕はない。
……それに、この一ヶ月付きっきりで一緒にいるからだんだん分かってきたんだ。彼女のこういう発言は社交辞令でも媚びでもなんでもなく、ただの天然! 深い意味などありゃしない。ここで下心丸出しで真に受けたところで恥をかくのは俺の方。
だから心を鬼にしてだんまりを決めるのである。
聞こえなかったふり、聞いてなかったふり……。
昨日配信中に手を繋いだのだって、深い意味はない。思い出すな、考えるな……。
「中野くん、顔赤くない? 熱中症?」
「そ、そうかな」
「飲み物持ってる? わたし水持ってるよ」
「ほんと? もらおうかな」
「うん、いいよー。あ、ちょっと口つけちゃったけど気にしない?」
「……やっぱ海水でも飲んでくるから平気!! 塩分あってちょうどいいし! ね!」
なんとか誤魔化し、自転車を漕ぐ足に力を入れる。
天然ってこわい。
俺、今日無事に島から帰れるだろうか……。
お昼頃、島の南側を半周した俺たちは再び空港付近の島の中央部まで戻ってきた。この辺りは八丈島の中心地だ。観光客向けの店だけでなく、町役場や学校・病院など住民にとっても必要な施設が立ち並んでいる。ここで午前最後の演説をして、いったん昼休憩にすることにした。
「若林さん、全然見つからなかったね」
「うん。回ってるルートは一緒だったと思うんだけどな」
入ったのは地元の料理が食べられる食堂だ。店内に出汁と魚介の匂いが満ちていて、期待のあまり思わず腹が鳴る。午前中自転車漕ぎまくった疲れもあり、このままビール飲んで温泉に浸かりたい……が、ここはぐっと堪えて豊島さんと作戦会議である。帰りの便は17時だ。それまでに若林を見つけないと。
「若林さん、わたしたちより移動するの早いよね。町役場前で演説してたのが一時間前だっけ」
「たぶんね。支持者の人がSNSに上げてたのがその時間だから、実際はもう少し前かもしれない」
映像の様子を見るに、若林は地元の支持者の人の車を借りて移動しているようだ。当然自転車で移動している俺たちより早い。
もう一つ特徴的なのは、一回一回の演説が一分以内と短いことだ。そのぶんなるべく多くの場所で演説をする作戦らしい。演説の尺が短いメリットは他にもあって、忙しい人も一分なら聞いてみようという気になるし、ここ最近人気のTikTokやYouTubeショートの動画としてもそのまま上げられるフォーマットだ。改めて見てみると、若林という候補はかなり戦略的に選挙に挑んでいることがよく分かる。
『一分だけお耳をお貸しください。わたくし、東京都知事選に立候補している若林と申します。みなさん、古い政治にうんざりしていませんか。わたくしは地元・北海道でITを取り入れて農業改革を行ってまいりました。恩恵を受けたのは誰か。ITを使いこなす若者や新しい企業ばかりではありません。ベテランの方や伝統的な産業を支える力となったのです。改革する勇気と行動力、この二つにおいてはどの候補にも負けない自信と実績がございます。どうかこの若林、若林由輔にみなさんの貴重な一票をお願いいたします』
若林の主張は、現職の池上や万願寺に対して不満を持つ人をターゲットにした内容が多い。
政党やベテラン政治家を中心とした古い政治からの脱却。
ITを取り入れた行政の効率化。
23区外への企業誘致。リモートワーク推奨。
子育て世帯向けの助成金に関する所得制限の撤廃……などなど。
比較的新しい考えの政策をどんどん取り入れる姿勢なので、若者ウケは良いが高年齢層の支持を獲得するのに苦戦している印象だ。
だが……。
「さっき若林さんとかいう人と話したんだけどねえ、写真やテレビで見るよりも優しそうな人だったわ」
「言っとることは難しくて理解できんかったが、悪いやつじゃなさそうだな。ああいうやつは信用できる」
「万願寺さん一択かと思っとったけどなあ、こりゃちょっと悩ましいなあ」
演説回りをしながら街の人たちに話を聞いてみると、思ったよりお年寄りにも評判が良い。
いったい何がそんなに刺さっているのだろうか。
「はい、お待ちどうさま」
店員が定食を二つ運んできた。
俺が頼んだのは海鮮丼だが、豊島さんのは――うおっ、なんだこの匂い!!
「えへへ〜。くさや定食でーす」
くさや。それはくさや汁という発酵した漬け汁を使って作られた魚の干物で、この辺りの名産品らしい。その独特の匂いは強烈で、腐敗臭、あるいは公衆トイレの臭いとたとえる人もいる。
店じゅうに香りが漂っているのか、他の観光客らしいお客さんがチラチラとこちらを見ては「勇者だ……勇者がいる……」と呟いていた。
「わたしはこの匂いけっこう好きだけどなあ」
そう言って彼女は躊躇なくひと口食べると、「美味しい〜〜〜〜!」と言って頬をおさえた。
そういえば豊島さんって回転寿司でしめ鯖10皿食べる人でしたね。
「中野くんも食べてみる? 旨味たっぷりでお酒に合う感じの味だよ」
「そう言われると気になるな。じゃあ、一口だけ」
おそるおそる口に運ぶ。
あ……美味い。
「ほら、いけるでしょ?」
「うん。これは確かに、お酒が飲みたくなる」
「ね。何事も第一印象だけじゃ分からないものだよ。食べ物も、人も」
豊島さんは意味ありげに微笑むと、バッグから一枚のビラを取り出した。若林が演説の際に配っていたもので、誰かが捨てたのか道端に落ちていたのを拾っておいたのだ。目立つところに「八丈島のみなさん」とわざわざ地域名が入っている。全エリア使い回しではなく、島用に中身を微妙に変えてあるようだ。
「23区で配ってるのも見たことあるけど、明らかに違う場所があって。それが、ここなんだけど」
彼女が指したのは若林の経歴が書かれた場所である。
「23区版は『大学卒業後に大手メーカーに勤務。その後地元・北海道に戻り政治家の道へ』って書いてあったの。でもこのビラには、北海道に戻る前にもう一文足されてる」
その一文とはこうだ。
「岩手県の工場に転勤となり、東日本大震災に遭う」。
よく見るとビラに書かれた政策も、普段あまりアピールしていない災害対策に関する内容が多い。
「もしかして、若林さんは……」
俺の言いたいことを察してか、豊島さんはこくりと頷いた。
「わたし、若林さんが次に行きそうな場所が分かった気がするんだ。ちょっと賭けだけど、ついてきてくれる?」
八丈島は東山・西山という二つの山から成る、ひょうたんのような形の島である。
この二つの山は四百年近く噴火はしていないものの指定上は活火山であり、2000年頃には近辺を震源とする地震が活発化した影響で八丈島が五センチほど移動するという事象が確認されているらしい。
俺たちが向かったのは富士山のように優雅な円錐形をしている西山、別名・八丈富士である。
午前中に回ったエリアが東山の周辺だったので、午後に行くとしたら西山ではないかという豊島さんの推測は……見事当たったらしい。
標高854mの山頂にその男はいた。
若林由輔――都知事選最有力候補の一人である。
「若林さん、奇遇ですね!」
山登りで額に滲んだ汗を拭いながら、豊島さんは爽やかに声をかける。
何の準備もしていなかった普段着の俺たちに比べ、若林はどこかで着替えたのかばっちりトレッキングスタイルである。
「奇遇、ですか。こんなひと気のない場所で演説やるわけでもあるまいに」
若林は眉間に皺を寄せていかにも迷惑そうな表情である。
彼の傍らにはガイドらしき人物が一人いるだけで、他に選挙関連のスタッフは見当たらない。ただ、若林の手には自撮り棒が握られていたので、ここでSNSにアップする動画か何かを撮影するつもりだったのだろう。
「せっかくなら一緒に撮影してもらえませんか。若林さんのお考えについて、いろいろお聞きしたいですし」
「あいにく、そんな時間は……」
「特に災害対策について。詳しく聞かせてくれませんか。わたしも都の職員時代に少し勉強しましたけど、若林さんの考えるITとの連携についてはあまり明るくなくて」
若林は黒縁眼鏡越しに同行しているガイドにちらりと視線を向ける。時間を気にしていると思ったのか、おおらかなガイドは「全然構いませんよ!」と言って二人の撮影を許可してくれた。
「……仕方ないですね」
若林は渋々、自分の隣に来るよう豊島さんに手招きをした。
たぶん、ガイドがこの場にいなければ断られていただろう。第三者の人目があったからこそ受け入れたのだ。
カメラが回り始めると、二人は島しょ部の災害対策について活発に議論を交わしだした。地震発生時の津波対策、備蓄品や避難所施設の充実、噴火リスクへの備え、緊急時の医療体制、台風や豪雨時の土砂災害、ハザードマップのリアルタイム化……。二人とも、なんだか楽しそうだ。
あっという間に三十分が過ぎ、撮影終了。編集はこちらでやり、若林の事前監修のもと双方のSNSで公開するということで合意を取ることができた。これで、一歩前進だ。
「まさかこんなところまで追いかけてくるとは思いませんでしたよ。昨日の配信といい……あなた、ずいぶん度胸がありますね」
半ば呆れた様子で若林は言った。
豊島さんは言葉通りに賛辞と受け取って、「恐縮です」と照れ笑いを浮かべている。
「もう一度聞いてみますが」
若林は小さくため息を吐いて眼鏡を掛け直す。
「豊島さん、私の陣営に入る気はないですか。あなたにとってそう悪い話じゃないはずです。あなたの掲げている政策は私のものとも組み合わせやすい。なるべく取り入れるようにしましょう。それから、私が都知事になったら……あなたを副知事もしくはそれ相応のポジションにつけてもいい」
山の上に分厚い雲が流れてきて、俺たちの上に大きな影を落としていった。島の天気は変わりやすい。今日も朝は快晴だったが昼前は少し小雨が降ったり、山登り中も雲行きが怪しいこともあった。
けれど、彼女の意志は変わらない。
「ありがたいお話ですけど、ごめんなさい。お断りします」
ぺこりと丁寧に頭を下げ、豊島さんは迷わずそう言った。
「わたしのことを評価してくださったのは嬉しいです。でも、わたしと若林さんではどうしても相容れない部分があること、若林さんが一番ご存知ではないですか」
「……万願寺のことですか」
若林がフイと視線を逸らす。
「言っておきますけど、万願寺が日頃若い女性を連れ込んでいるのは事実ですよ。EDで誤魔化していましたが、あれは元奥さんと別れる前の話です。今は完治していると、裏も取れている。それを客観的な証拠として表に出すすべがないだけでね」
「事実でも、事実じゃなかったとしても、選挙で争うべきでないことで相手を貶すやりかたは……わたしは賛同できません」
「ふっ。潔癖なひとだ」
どっちがだよ、と俺は心の中で突っ込む。
出馬会見の場で初めて会った時、豊島さんと握手した後ハンカチで手を拭いたの、覚えてるからな。
「だが、残念ながら綺麗事だけじゃ権力は得られないものです。そして、汚れた権力の方が救えるものがある」
「……それが、若林さんの守りたいものなんですか」
若林は黙って空を仰ぐ。
いつの間にか雲はどこかへと去っていき、代わりに黄金色の日差しが青々とした山肌を照らしていた。
「私は古い人間が嫌いだ。そういう人間が目先のことしか考えない結果、本来守れたはずのものを失ってしまう。万願寺のような老人を居座らせるくらいなら、汚い手を使ってでも都知事の座を奪いとる。それが、私の使命だと思っています」
若林はその使命の裏にある思いを多くは語らなかった。
だが、綾瀬の言った通り彼は守りたいもののために戦っている――その重みが言葉に乗って、俺たちの胸にずしりと響いた。
「豊島さん。あなたの考えはよく分かりました。私の話を聞いてもなお筋を曲げないと言うなら……あとは一千四百万人の都民に信じてもらうしかない。結局私たちは民主主義の国の候補者だ。答えを決めるのは有権者。票数を見れば、あなたのようにまっすぐな人間が政治の世界に望まれているか、きっと分かる」
「……そうですね。初めからそのつもりです」
豊島さんは力強く頷いた。
選挙十日目、八丈島。
こうして俺たちは若林との接触を終え、その日のうちに都心に戻ったのであった。
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