第24話 駆け引きの夜
共に若林の陣営に合流しないか――綾瀬からの誘いに、豊島さんの目が見開かれる。
大事な話って、このことだったのか……!
本来であれば立候補者はお互いライバル同士。
だが、選挙という戦場においては時に同盟が結ばれたり、あるいは裏切りが起きたりするらしい。
万願寺にスキャンダルが発生した今、次点で有力候補である若林は追い風の状態だ。
そこに他の候補、特にネットユーザーの支持を集めている綾瀬が合流すれば、一気に「当選」の二文字が現実味を帯びてくる。
「若林さん、神経質な感じだけど話せば分かる人だよ。陣営に加わるなら私の政策を反映してくれるんだって。実際ね、今日の演説から同性婚のこと取り入れてくれたの。見る?」
綾瀬はスマホでYouTubeに上がっている若林の演説動画を再生する。そこでは確かに、彼がこれまで触れてこなかった性的マイノリティ支援に関する内容が盛り込まれていた。
「直央ちゃんはさ、賢そうだからちゃんと現実見えてるよね? どれだけ優れたヒトであっても、後ろ盾がなければ泡沫候補のラベルを貼られて、初めから勝ち目なんてないってこと。まあ、良くて供託金返還ラインまでは行くかもしれないよ? けど、当選なんて夢のまた夢。だって変わらないことが幸せだと思ってる人間がほとんどの世の中だもん、一生懸命頑張っても私たちの声はほんのひと握りのヒトにしか届かない……そう、有権者に対してはね」
彼女は再び電子タバコを手に取り、ふうと白い煙を吐き出した。
「私、気づいたんだ。一千万人の無関心な有権者に訴えるよりも、たった五十数人の中から生まれる将来の都知事候補のヒトに訴えた方がよほど近道なんじゃん? ってね」
悔しいが綾瀬の言うことには一理ある。
選挙運動をしていると、日々少しずつ支援してくれる人が増える喜びがある一方で、どれだけ都民のために演説しても誰も足を止めてくれない、見向きもしてくれない虚しさもまた募っていく。
このまま無謀に踊り続けるよりも、他の候補に協力して政策を反映してもらう方が、確かに建設的な選択肢なのかもしれない。そういう身の振りができる方がよほど政治家らしいとも言える。
……けれど。
俺は知っている。豊島さんがどんな想いをこの選挙に懸けているか。
「誘ってくださってありがとうございます。でも、この話はお受けできません」
豊島さんは丁寧に頭を下げながらそう言った。
「わたしにはこの都知事選でやるべきことがあります。それまでは戦い続けると決めているんです」
「……やるべきことって何?」
「青春のやりなおしです」
大真面目に答える豊島さん。
予想もしなかっただろう答えに、綾瀬は引き攣った笑みを浮かべた。
「え、マジで言ってる?」
「はい。大マジです」
「いやいやいやいやいや。だってさ、直央ちゃんてどう見ても青春時代充実してたタイプでしょ? 彼氏だって途切れたことないんじゃない? 私、ヒトを見る目は自信あるんだけど」
そう言ってまつ毛バチバチの瞳を指した。
「確かに、お友だちや恋人と呼べる人はいました。それでも、たった一人大事な人を傷つけたことをずっと後悔しているんです。過去を都合よくやり直すことはできないけれど……あの時の自分にできなかったことを実現するために、伝えられなかったことを言葉にするために、この選挙をやっているんです」
「あ、そう……そうなんだ」
綾瀬はなんと返せばいいのか分からなくなったのだろう。一度彼女が黙り込むと、豊島さんは一度お手洗いのため席を立った。
残された綾瀬と、空気のような俺。
豊島さんがいなくなるなり、綾瀬は頭を抱えた。
深いため息を吐くと、長く装飾された爪をぎりりと噛んだ。
「マジか……計算狂うんですけど……」
取り繕った笑顔のない、鬱屈とした暗い表情。
もしかするとこれが彼女の本性なんだろうか。
俺に見られることを気にしていないあたり、本当に空気扱いで悲しくなってくる。ここはいっそ、ちょっとつついてみるか。
「あの、綾瀬さん。計算が狂うとは一体……?」
「あぁ?」
俺の方を振り向いた綾瀬は尻尾を踏まれた猫のような形相であった。
金につながらない男に対しては本当に容赦がない。
「気安く話しかけないでくれる? 寒気がするんですけど」
比喩じゃなく、本当に彼女のノースリーブで晒された腕には鳥肌が立っていた。
いくら嫌悪してたとしても、普通そこまで身体に出るだろうか?
そういえば、ネット討論会の時も異常なまでに顔色が悪かったような……。
彼女がぷいとそっぽを向いてスマホを見始めてしまったので、それ以上話しかけるのは難しそうだった。
いや、でも一つあるぞ。綾瀬と会話をする手段。
〈計算が狂うって、どういうことですか?〉
テキストを打ち込んで送信すると、すぐさま綾瀬のスマホが震えて彼女がびくりと反応した。一瞬焦った様子できょろきょろと周囲を見回したので、俺が自分の手元にあるスマホを指差すと、あからさまに顔を
そう、今俺は豊島さんのXアカウントにログインして、綾瀬のアカウントにダイレクトメッセージを送ったのだ。
そもそも豊島さんのアカウントを作ったのは俺だし、選挙手伝いの一環で代わりにSNSを更新することは多々あるので当然ログインする権利は持っている。
〈ちょっと、これ本人が見たらどうするつもりなの〉
綾瀬が返信を打ってきた。
〈大丈夫です。豊島さんが戻ってきたら履歴全部消します〉
豊島さんはお手洗いに行く際にスマホを置いて行ったので、このやりとりを見ることはできないだろう。
綾瀬はぐしゃりと左右に流した長い前髪を掴むと、やがて観念したようにタタタタとスマホをタップした。
〈ぶっちゃけ断られると思ってなかったの。女って打算的な生き物でしょ。男と違って目的を果たすためには合理的になれるはずだから〉
〈はあ、そうなんですかね〉
綾瀬の言うことはかなり偏っている気がしたが、指摘するほど俺は男女のことをよく知らないので曖昧に相槌を返す。
まあ少なくとも豊島さんに関していえば、打算的な人ではないことは確かだ。彼女は夢や理想に向かって茨の道でも真っ直ぐ突き進むタイプである。
〈相手が男なら、夢は恋で奪えるの〉
〈怖っ……〉
〈けど直央ちゃんは女だしさぁ。あの言い方からすると、昔傷つけちゃった男のこと忘れられてない感じじゃん?〉
蓮根さんは男じゃない。
性別については一言も触れてないはずだが、綾瀬マインドだと勝手に男と思い込んでいるようだ。
〈同盟をきっかけに直央ちゃんとお近づきになりたかったんだけどなぁ〉
〈別に同盟じゃなくてもなればいいじゃないですか〉
〈え、いいの? そんな簡単に敵に塩送っちゃって〉
うん? 敵?
〈あなただって直央ちゃんのこと好きなんでしょ〉
あなただって?
いや、俺が豊島さんに憧れているのは昔から変わらずだが、待て、綾瀬の言う「お近づき」っていうのは、友人としてという意味ではなく?
顔を上げると、綾瀬がニヤリと意味深な笑みを浮かべていた。
「すみません、お待たせしました」
「うわあああああああッ!!」
豊島さんが戻ってきて、俺は慌ててダイレクトメッセージの履歴を消した。綾瀬、あんたもニヤニヤしてないでさっさと消せよ! 俺の下心が豊島さんにバレるッ……!
「どうしたの中野くん。何か連絡来てた?」
「ううううん、何も! 推しの投稿がないかチェックしてただけで」
誤魔化すようにみねあのプロフィール画面を見せる。
と、ちょうどその時スマホが通知に震えた。
みねあの新着ポストの通知である。
〈え、万願寺おじいちゃん正直すぎでは? これは逆に好感度上がっちゃうわ〉
……なんのこと?
よくよく見てみれば、そのポストは引用ポストである。
引用元は万願寺の緊急記者会見の様子の動画だ。
『週刊誌で取り上げられていた女性問題について、詳しくご説明いただけますでしょうか』
『えー、本件に関してはまったくの事実無根であります』
『一人ではなく複数の女性から触れ込みがあるとの噂ですが』
『噂でしょ? いやはや事実だったら良かったんですけどねえ、ここのところ不能なものですから』
『えっ……』
記者一同絶句。当の万願寺は恥ずかしげもなくケロリとしている。
『そんなに気になるんだったら主治医の診断書出しましょうか。それが都民の皆様に対する真摯なご説明になるのであれば、いくらでも出しますよ。でもねえ、誰も七十超えた爺さんのシモの事情なんか知りたくないでしょ』
『そ、そんなことは……』
『というわけで、本件に関して、これ以上ご説明できることはございません』
万願寺はキッパリと言い切ると、記者たちが何か言う前にこほんと咳払いひとつして、カメラをまっすぐに見据えた。老いてもなお鋭い眼光。画面越しに目が合い、思わずどきりとする。
『最後にひとつ。えー、週刊誌の方、並びにインターネットで憶測広めている方。あまり悪質なことをされますと、こちらも然るべきを措置を取らざるを得ませんからね、そこのところお気をつけください。以上』
颯爽と画面外に退場していく万願寺。
凄い。これがベテラン政治家のやり方なのか。
不祥事をのらりくらり誤魔化してきたこれまでの印象とは違う、あまりにも潔い態度。
人は、ギャップに弱い。
ストイックなアスリートの無邪気な笑顔を見た時、完全無欠なアイドルのだらしない姿を見た時、頼りないと思っていた人のたくましい部分を見た時。それまで抱いていた印象が一瞬で別のものへと切り替わる。
万願寺は、ピンチをチャンスに変えてしまった。
ネット上には今、彼に好感を持ったという声が続々と投稿されている。
そして、一方――
「……ちっ」
綾瀬が再び爪を噛む。
さっきから震えが止まらない彼女のスマホ。
万願寺が釘を刺したこともあり、疑惑の矛先は今、週刊誌の投稿に真っ先に反応して拡散した彼女に向けられている。
「まさかとは思いますけど」
ここに来る前に薄々感じていた嫌な予感。
その理由がようやく自分の中で腑に落ちてきた。
綾瀬の本業、それはギャラ飲み女子のアテンドだ。
パパ活に生きる女性たちとはいくらでも繋がりがあるはず。
「週刊誌にタレコミしたのって、綾瀬さんじゃないですよね……?」
綾瀬は俺たちの方を見なかった。
肩をすくめ、「何のことぉ?」と自嘲気味に笑う。
「綾瀬さん」
豊島さんは心配そうな表情で彼女に声をかけた。
しかしこちらを見ようとしなかった綾瀬には、それが責めるような声に聞こえたらしい。
顔を覆い、口元からただ白い煙を吐く綾瀬。
たぶん、図星なんだろう。
「豊島さん、行こう。俺たちには他にやるべきことがいくらでもある」
彼女の背中を押し、俺は部屋の外へと促した。
豊島さんは気がかりなようで綾瀬の方を一度振り向いたが、彼女はやはり俯いたままでこちらを見なかった。
バーの入り口まで戻ると、見覚えのある背の高い男が一人立っていた。
仕立ての良いスーツに身を包み、気難しそうな険しい顔つきの男である。
都知事選候補者の一人、若林だ。
「交渉は決裂ですか」
俺たちを見て、彼はそう呟いた。
「せっかくお誘いいただいたのに申し訳ございません」
何も謝る必要はないと思うが、豊島さんは丁寧にぺこりとお辞儀する。
若林は無表情のまま黒縁眼鏡をくいっと掛け直す。
「……後悔しますよ」
彼はそう言い残すと、俺たち向かう出口とは逆――綾瀬がいる個室の方へと向かっていくのであった。
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