第23話 綾瀬の誘い


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文:編集部ライター


「『終わったら最新機種を買ってあげよう。だからこれはもう要らないね』って。スマホを高級ワインの中に入れられてしまったんです。それで一気に酔いが覚めて、ホテルから逃げ出しました。翌朝、起きたらポストに本当に最新機種が入っていて……。口止め料ってことなんでしょうか。お金があればなんでも解決できちゃう世の中なんだなって、どうしようもない絶望感がありました」


 涙ながらにそう打ち明けてくれたのは、都内在住の二十代の女性・Aさんである。

 彼女が万願寺保雄氏(72)に出会ったのは六月某日、都知事選出馬を決めた決起会の二次会の場だった。

 Aさんはそこにコンパニオンとして呼ばれ、万願寺氏や彼を支援する人々にお酌をして回ったという。


「万願寺さんの隣に座ったら、急に肩に手を回してきたんです。でも、『幼少期にアメリカで育ったからつい距離が近くなってしまうんだよ』と言われて妙に説得力があって……。確かにその時はそれ以上何かしてくる感じもなかったですし、振る舞いは紳士的だったので嫌悪感はなかったんですよね」


 その後、一つのミニゲームが開催された。

 じゃんけんで勝ち残ったら最高級ホテルのスイートルームで、万願寺氏所有の最高級ワインを飲めるというものだ。

 浮わついた空気のその場で棄権するという選択肢はなく、いかがわしい気配を薄々察しながらもAさんは参加せざるを得なかった。

 そして彼女はじゃんけんで勝ち残り、万願寺氏と共にホテルへ……。


「二次会の会場でのボディタッチが嘘みたいに、部屋に着くまで一切触れてくることはありませんでした。でも部屋に着いて、ワインの準備が終わった後で『記念写真、撮らなくていいの?』って。その流れでスマホを出したら……」


 Aさんの場合は未遂に終わったが、万願寺氏については選挙期間中にも関わらず女性にまつわるウワサ、特にパパ活についての疑惑が多数、まことしやかに囁かれている。


「あの人はいつも仕事が忙しいと言って、自宅に帰ってくることはほとんどありませんでしたよ。ワイシャツに口紅や香水の匂いが染み付いていることなんて日常茶飯事でした。テレビでも若い女性タレントのことばかり見ていましたし、相変わらずお盛んなんですね」


 呆れた様子でそう語るのは万願寺氏の元妻・Bさんである。


 強い東京を築く前に、己の強すぎる欲望をどうにかした方がいいのではないか。

 東京都知事選では最有力候補と言われていた万願寺氏の行く末に、暗雲が立ち込める――



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 週刊誌の報じた万願寺のスキャンダルは瞬く間に世に広まった。

 取り上げたのはもちろんマスコミだけではない。都知事選の他候補にとっても格好の蹴落としの口実となり、SNSや演説の場において万願寺批判が加速した。

 特に、いの一番に反応したのは綾瀬である。


〈許せない〉


 たったその一言だけ添えて、週刊誌のポストを引用リポスト。

 彼女のフォロワーにはフェミニストが多いので、そこから一気に炎上が広がった形だ。


 そしてその直後、なぜか綾瀬から豊島さんのアカウントへダイレクトメッセージが届く。


〈今晩、ちょっと飲まない? 大事な話があるの〉


 どうにもきな臭い。

 もちろん豊島さんは万願寺のこととは無関係だし、スキャンダルが出回った後も彼女は万願寺の件には一切触れないようにしていた。事実かどうか分からないのに加え、彼女は原則他候補について政策以外は批判しない信条を掲げているからである。

 そんな豊島さんに綾瀬から一体なんの話があるというのか。


「嫌な予感がするよ。選挙期間中だし、断った方がいいんじゃない」


 ダイレクトメッセージが来たと聞いた時、俺は豊島さんにそう言った。

 けれど、豊島さんは申し訳なさそうに「ごめん、もう返事しちゃった」と。

 さすが陽の人。飲みの誘いには反射的に「行きます!」と返してしまう性質らしい……。


「大丈夫だよ、わたしお酒強いし」


 ふんすと息巻く豊島さんだが、そう言う人ほど実際は弱々だったりするのがお決まりのパターンである。

 ちょっと過保護かもしれないが、俺はなんとかごねてその飲み会について行くことにした。


 綾瀬が指定してきた待ち合わせ場所は六本木の会員制バーである。

 夜な夜な東京の富裕層が集う秘密の場所。

 薄暗い照明に、高級感のある黒と金を基調としたデザインの内装。白黒のパリッとした制服に身を包むスタッフは口数少なく、忍者のようにほとんど足音も立てない。客に対してもてなすよりも、この空間において黒子に徹することを主義としているような雰囲気があった。

 プライベートへの配慮か、全席防音の個室になっているらしい。

 この妙にベタついた空気といい、煙草と香水の入り混じった臭いといい、どう考えても場違いな俺が言うのもなんだが、なんというか……ちょっとカラオケっぽい。いや、さすがに口に出しては言わないけど。


「なんか、カラオケみたいだね」


 言った。豊島さん言っちゃったよ。

 ほら、店員さん不快そうに眉間に皺寄せてるじゃないか、も〜〜。


「こちらのお部屋です」


 店員さんは怪訝そうな視線を俺たちに向けながらも、一番奥の部屋へと案内してくれた。扉を二回ノックすると中から「は〜い」と甲高い声が返ってくる。綾瀬だ。


「いらっしゃい、直央ちゃん」


 彼女は黒い革のソファに腰掛け、豊島さんに向かって隣に座るよう手招きする。なんとなく察してはいたが俺に対しては見向きもしない。透明人間のような扱いである。まあ綾瀬はもともと豊島さんと二人きりで飲みたかったらしいので致し方ない。

 彼女たちとは距離を置いて、扉に近いソファの端っこに座った。

 綾瀬は慣れた様子で豊島さんの分の飲み物も注文したが、当然のように俺の分はなかったので、不憫に思ったのか店員がビール瓶とグラスを置いていってくれた。さっきはカラオケみたいって言ってごめん。いや、よく考えたら言ったの俺じゃないが……。


「直央ちゃんはこういうお店、初めて?」

「はい。六本木で飲むこと自体初めてです」

「そおなんだ。かわい〜〜」


 猫が甘えるような仕草で、綾瀬は豊島さんにしなだれかかりながらさりげなく腰に腕を回す。その時、今日初めて綾瀬と目が合った。そして俺に向かって「ベー」と舌を出してくる。

 は、腹立つ女……!

 当の豊島さんはというと、綾瀬が接触してきても全く動じず背筋をピンと伸ばしたままだ。

 彼女が作ったロックのウイスキーを一口含むと、「凄い、濃厚な香り」なんて普通に感想を述べている。顔色ひとつ変えないので本当にお酒に強そうだ。

 俺はいったい何をしにここに来たんだっけ――目的を見失いかけた時、綾瀬の放った一言でハッと目が覚めた。


「万願寺のニュース、見た?」


 ウイスキーの二口目を口に含む途中だった豊島さんは、ごくりと喉を鳴らして頷いた。


「見ました。週刊誌の情報だけですが」

「そう。直央ちゃんはどう思った?」


 綾瀬の声の響きが冷たいものに変わる。

 先ほどまでの甘えるような様子とは打って変わって、こちらを試しているような。


「どう、ですか。まだ事実かどうか分からないですから、あまり深くは考えていなくて……」

「それでも、火のないところに煙は立たないでしょ?」


 綾瀬はそう言って電子タバコを口に咥えた。

 言っていることとは真逆で、火はついていないのに彼女の口からは白い煙がゆらりとくゆる。


「若い女の子を金で黙らせようとするようなジジイが首都のてっぺんに立って良いわけがない。直央ちゃんはさ、力の弱い人の味方でありたい、ってアピールしてるじゃん? なら私と一緒の考えかと思ったんだケド」


 綾瀬は豊島さんに向かってニコリと微笑んだ。

 豊島さんも合わせて微笑み返す。


「わたしの政策、見てくださったんですか?」

「うん、見てる。ネット討論会の後からね、直央ちゃんの挙げてる動画、Xのポスト、ホームページの隅々まで、ぜんぶ見たよ。だからこそ、今日ここへ呼んだの」


 綾瀬は電子タバコをテーブルに一度置き、豊島さんの手を両手で包み込んだ。


「ねえ、直央ちゃん。私と一緒に若林さんの陣営に合流しない?」


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