第21話 都知事選に出る理由
「アスベスト」あるいは「石綿」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
安価で使い勝手の良い建材であることから、1960年代の高度成長期の頃に多く使われてきたという。
だがアスベストから発生する目に見えない繊維は空気中に漂い、人の肺に蓄積してじわじわと健康を蝕んでいき、やがて肺がんを引き起こす可能性があることが発覚した。
俺たちが子どもだった頃――00年代後半はまさにアスベスト問題が多く話題になった時期だった。
アスベストの健康被害に関する訴訟が相次ぎ、2006年9月にはアスベストの使用が全面禁止となった。
それ以降もアスベストが使用された建物の取り壊しには事前の調査が義務化され、アスベストが含有されている場合にはきちんと除去作業を行程に含むべきとされている。
ところが十二年前。
老朽化した都営住宅の建て替え工事において、事前調査でアスベストが含まれていることが分かっていたにもかかわらず、その証拠が隠蔽されたまま除去作業なしで工事が決行されるという事件が発生した。
除去作業にはそれなりに金がかかる。その予算をケチったために起きた事件だった。
当時の都知事は責任を追及され辞職。
しかしこの件に関わったのは当然都知事その人だけではない。
当時、その工事を受託していた建設会社の事務職員として働いていた蓮根さんの母親は、事件発覚前に上司からとある書類をシュレッダーにかけるように依頼された。
不要書類の処分は日々発生する仕事だったので、彼女は特に疑問を持つことなく言われた通りにシュレッダーにかけた。
それが、例のアスベストに関する事前調査の結果を記したものだとは知らずに。
事件が表沙汰になり、建設会社内でも調査書類を誰が隠したのかという話が持ちきりになった。
そして上司は彼女を裏切ったのだ。
「大切に保管していたのに、非正規職員が誤って処分してしまった」と――。
「なんだそれ。酷すぎるだろ……!」
話を聞いているだけなのに、腹の中で怒りがぐるぐる渦巻いて気持ち悪い。吐き気がした。
しかし同時に思い出す。
世の中は日々変わっていて、今ではありえないと思うようなこともたった十年前には当たり前のように横行していた。
俺たちが高校生の頃は、パワハラという言葉でさえまだ市民権を獲得していなかった時代である。
「あおいちゃんのお母さん、それでショックを受けちゃってしばらく自宅で療養することになったの。起き上がることもままならない日があって、あおいちゃんはお母さんの分も家事をしたり、きょうだいたちの面倒を見たりしてたって……」
豊島さんは時々言葉を詰まらせて瞳の端を拭った。
高三に進級したばかりの頃、蓮根さんはあまり学校に来ていなかった。
担任は特に触れることはなかったが、まさかそういう事情だったとは……。
「ちなみにね、わたしが今話していることは全部後から知ったことなの。あおいちゃんが学校に来なくなってから、何度かメールしてみたけど返事が返ってこなくなっちゃって……。あんまりしつこいのは良くないって思ったけど、心配で一日一通だけ送るようにしてた。そしたらそれから二ヶ月後にね、久しぶりに返信が来たんだ」
でもそれは、蓮根さんのお母さんが亡くなったことを知らせるものであった。
メールを見てすぐ、豊島さんは蓮根さんに電話をかけた。
――もしもしあおいちゃん。今、電話大丈夫?
――……うん。ちょうどお葬式終わったところだから。
久々に聞いた蓮根さんの声は、ずいぶんと掠れて弱々しいものだったという。
その時の電話で、豊島さんは蓮根さんの抱えていた事情を知った。
例の事件に巻き込まれてお母さんが体調を崩してしまったこと、忙しくて学校に行けなかったこと、豊島さんに返信する余裕もなかったこと。
普段あまり自分のことを語りたがらない蓮根さんだが、この時ばかりは
――私、もう疲れちゃった。勉強ももうついていける気がしないし、学校辞めようかな。
ふとこぼれ落ちた弱音。
豊島さんは、友だちとしてなんとかしなければという思いに駆られた。
「ねえ、もしこの時話を聞いていたのが中野くんだったら、あおいちゃんになんて言ったと思う?」
「ええっ、俺?」
すぐには返答が浮かばなかった。
人生の中でこんなに深刻な状況に対面したことはなかなかない。
ましてや他人の身の上に深く突っ込んだことも……。
「ありのまま、中野くんの思いつく答えでいいよ」
豊島さんにそう促され、俺は思いつきそうにない「正解」を考えるのを諦めた。
「うーん……。俺だったら、辞めても良いんじゃないって言っちゃうと思う。俺でさえ何度も高校辞めたくなったもん、蓮根さんみたいな状況だったらそう思って当然かな」
我ながら、何の為にならない回答である。
豊島さんもさすがに引いただろうか。
……と思いきや、彼女は目を丸くして「さすが」と呟いた。
え、「さすが」って何……?
「と、豊島さんはどう答えたのさ」
「わたしはね、『辞めないで。あおいちゃんと一緒にまだ思い出作りたいよ』って」
豊島さんこそ「さすが」な回答である。
ところが本人の表情は暗い。
「わたし、分かってなかった。あおいちゃんが求めてた答えは、きっとそうじゃなかった……」
豊島さんは再び語り出す。
彼女の言葉に、蓮根さんも一度は励まされたように見えた。
次の登校日から彼女はちらほら学校に姿を現すようになったという。
豊島さんは何をするにもなるべく蓮根さんに声をかけるようにした。
お昼ご飯、学校行事、放課後の勉強。いつも人で賑わう彼女の隣。豊島さんは明るく輝かしい青春の舞台に蓮根さんを立たせてあげることで、彼女を元気づけられると信じていた。
……そう、この時の豊島さんはまだ高校生で、良くも悪くも陽の当たる場所しか知らなかったのだ。
俺には少し蓮根さんの気持ちが理解できるような気がする。
急に眩しい場所に連れ出されては、目を開けていられない。光の強さに身が焦がれそうになる。
豊島さんと彼女を取り囲む同級生たちの人の良さ、快活なエネルギー、みんなで協力して何かを成し遂げることを正とする王道の価値観。すべてが毒のようにじわじわと蓮根さんを蝕んでいったのだろう。
やがて文化祭の準備が始まった頃。
豊島さんが一緒にお化け屋敷のキャストをやろうと蓮根さんを誘った時、彼女はついにその手を振り払った。
――直央、お願いだからもう私に構わないで。
――今度は直央のためじゃなくて、私自身のためにそうしたいんだ。
――……直央のそばにいると辛いんだよ。自分が惨めになる。
――だから、ごめん。友だちやめさせて。
豊島さんは一瞬、何が起きたのか分からなかったという。
だって彼女は彼女なりにベストを尽くしていたつもりだったのだ。
だけど、無意識のうちに傷つけていた。それは紛れもない事実。
じゃあどうすれば良かったというのだろう。
分からない。分からないけれど、とにかくちゃんと謝りたくて、豊島さんは何度も電話をかけたりメールをしたりした。
それでも、彼女から返事はなかった。
「そんな時だよ。教室であおいちゃんと中野くんが話しているのを見かけたのは」
「それって、まさか……」
教室でって、前に夢で見たあの日のことだろうか。
というかそれ以外蓮根さんとまともに話した記憶がない。
俺たち二人の他に教室には誰もいなかったと思っていたが、まさか豊島さんに見られていたとは。
「わたし、びっくりしちゃった。あおいちゃんが人前で泣くの、初めて見たんだもん」
「え、そうなの?」
「うん。お母さんが亡くなった時だって、電話越しでもわたしには泣くそぶりすら見せなかったからね。……正直、ちょっと嫉妬した」
豊島さんはぷくっと頬を膨らませて俺の方をじっと見てきた。
か、かわいい。
じゃなくて、なんだこれ。
なんで俺が豊島さんに嫉妬されちゃってるの。
どういう状況??
まあでも、ここにきてようやく答え合わせというか、十二年前に直感でうっすら感じていたことがすとんと腑に落ちてきた。
蓮根さんはやはり、俺と同類なのだ。
本性を他人にさらけ出す勇気のない「見栄っ張り」。
豊島さんと自分が釣り合っていないとは分かりつつも、隣に立っていたくて背伸びを続けた。なかなか弱音を吐き出せなかった。だから限界が来るまで苦しむことになってしまった。
蓮根さんが俺の前で泣いたのは、俺が背伸びしなくて良い相手だったからだ。ただそれだけのことではあるけれど……ああなるほど、だから。
「豊島さんが昨日言ってた、俺にしか声を届けられない人がいるってのは、つまりこういうことだったんだね」
彼女はこくりと頷く。
「さっき、学校辞めるって言い出したあおいちゃんに中野くんだったらどう答えるかって聞いたでしょ。今思えばね、あの時のあおいちゃんは背中を押してほしかったんじゃないかな。だから、さすがだなって」
ふわりと夜風が肌を撫で、豊島さんの柔らかな髪を揺らす。
影が差した彼女の顔は、ほんの少し寂しげだった。
「でもさ、俺が蓮根さんと話したのはその日だけだよ。あの後どうなったか豊島さんは知ってるの?」
「本人からは聞いてないけど……先生が言うにはお父さんの仕事の都合で引っ越すことになって、転校したみたいだよ」
高三の学期途中で転校とはなかなか異例だと思うが、それだけ蓮根さんは学校から離れたかったということなのだろう。だから卒業アルバムにも彼女の写真が載っていなかったのだ。
「わたし、ずっとあおいちゃんに謝りたくて。でも連絡が取れないし、同窓会でも会えないし、どうしたらいいんだろうって色々考えて……思いついたのが都知事選だったんだ。あおいちゃんのお父さんの実家が東京のどこかにあるって話は聞いたことがあるの。だから、あくまで勘だけど、あおいちゃんはまだ東京にいるんじゃないかなって思うんだ。万が一もう都外に行っちゃってたとしても、都知事選なら全国的に注目されやすいしね」
そこで都知事選に行くのが豊島さんらしいけど、注目度が高いのは確かだ。
供託金三百万という高いハードルがありながら、立候補者が多数出るのもそれが理由なのだから。
「あっ、でも、それだけが目的じゃなくて、本気で当選するつもりだからねっ。都庁職員だった頃から都政を変えたい気持ちはあったし……!」
「あはは、分かってるって」
豊島さんがこの選挙に真面目に向き合っている姿は何度も見てきた。
そんな彼女を応援したい気持ちは、本心を知った今も変わりはしない。
「……最初の話に戻るけどさ、鮫洲の言ったことなんてやっぱり気にしなくていいと思うよ」
シーソーを軽く蹴ってみる。一瞬の浮遊感。ああ、身体が軽い。
「蓮根さんを傷つけたこと、もう十二年もずっと後悔してきたんでしょ。だったらもう、二度も間違えないよ。豊島さんなら大丈夫。俺が保証する」
身体の軽さに乗じて、ずいぶんフワフワなことを口走っている気がする。酒も入っていないのに酔ったような、深夜テンション。
でもそれは俺だけではないらしい。
向かいに座る彼女の大きな黒い瞳が潤んで光る。
「それでも」
豊島さんもシーソーを蹴った。
大の大人が二人、ゆらりゆらりと深夜の公園の宙を泳ぐ。
「やっぱり不安だから。もしわたしが伝える言葉を間違えたら、中野くんに正してほしい」
……そうか。
今、俺は嬉しいんだ。
豊島さんが本音を話してくれて。
抱え込んでいた弱さを打ち明けてくれて。
ずっと遠い存在だと思っていた彼女に、頼ってもらえて。
友だちになるって、こういうことなんだな。
「分かった。そうするよ」
深夜一時。
それから俺たちは少しだけ他愛もない話をした後で解散した。
ちなみに、例の文化祭の直後、豊島さんがメアドを尋ねてきた理由は「蓮根さんに教えてあげたかったから」らしい。自分では連絡が取れないので、代わりに蓮根さんの拠り所になればという配慮だったのだろう。
さすが優しい豊島さん。
全然俺に興味あるとかじゃなかった。
彼女からメールが来るかもと、そわそわしていたあの青い日々はなんだったんだ。
ついでに蓮根さんからメールが来たことも一度もない。
俺は帰りのタクシーの中でちょっぴり泣いた。
……人の本音は、知らない方が良いことも多少ある。
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