第14話 人間だもの。


 オンラインショップの宅配業者くらいしか立ったことのないうちの玄関の前に、豊島さんがいる。

 外の湿気とマスクのせいか顔は少し汗ばんでいて、栗色のミディアムショートの髪が一筋張り付いていた。


「豊島さん、だよね……?」


 俺は目をこすりながら目の前の状況を確認する。

 熱にうなされて幻覚でも見てるのだろうか。

 彼女は胸に手を当ててふーっと長い息を吐く。


「良かった……中野くん、生きてたんだね……!」


 再び顔を上げた彼女の黒の大きな瞳は、ほんの少し潤んでいるように見えた。

 ああ、なんて都合のいい幻覚だろう。

 彼女が俺を心配して、家まで訪ねに来てくれるなんて。


「何度メールしても返事ないから、心配で来ちゃった」

「ごめん。ずっと寝てたから」

「部屋、入るね。ほら、中野くんも」

「え、ん、部屋?」

「だってごはんまだでしょ。身体に良いもの作るからちょっと待ってて」


 俺が何か言うのを待つことなく、彼女はずいと部屋に入ってきた。

 よく見ると、片手にぶら下げてるレジ袋からは長ネギが顔を出している。

 ちょっと色々心の準備が追いつかないんですけど、あの、そういえばキッチンには三日分の洗い物がそのまま……


「ふふ、中野くんの部屋って感じ!」


 散らかりまくった部屋を眺めて彼女は悪びれずそう言った。辛い。


「俺、横になっててもいい……?」


 心なしか熱が上がってきた気がする。


「うん、どうぞどうぞ! 休んでてね」


 彼女はそう言ってテキパキと狭いキッチンを片付けると、まな板を取り出してトントンと小気味良い音で野菜を切り始めた。

 何この状況? 俺、このまま死ぬんだろうか。

 すぐに出汁と生姜の良い香りが部屋じゅうに漂い始め、まだ食べてもいないのに身体に染み渡ってくる感じがした。


「病院は行った?」

「いや……」

「とりあえず解熱鎮痛薬と総合感冒薬買ってきたから、もし症状に合いそうだったら飲んでね。今のところ熱だけ?」

「うん。咳は、ない」

「じゃあ解熱鎮痛薬だけで良さそうだね」


 キッチンからニコッと微笑みかけてくる豊島さん。熱で視界がぼんやりしているせいか彼女の後ろにキラキラエフェクトが見える気がした。女神だ……。


「はい、卵うどん! ゆっくり食べてね」


 ちゃぶ台に置かれたホカホカの卵うどん。

 感覚的にはさっきカップ麺を食べたばかりのような気がしていたが、立ち昇る湯気とほっこりする和風の優しい匂いで食欲が目を覚ます。


「い、いいのかな」

「うん、食べて食べて!」

「ありがとう……いただきます」


 ふうふうと冷ましながら一口。

 うまい。

 身体の芯まで染み渡る出汁の効いたうどん。

 生姜とネギが効いていて、指先がぽかぽかと温まってくる。


「美味しい」

「ほんと!?」

「うん。めちゃくちゃ美味しいよ」


 油断したら涙が出そうだった。

 湯気の中に顔をうずめ、無心で柔らかな麺をすする。

 冷ますのを忘れて口の中を火傷しかけた。

 でもスープ一滴たりとも溢したくなくて、気合いで飲み込む。

 ヒリつく舌の感覚に、少しずつ頭が冴えていく。

 夢じゃ、ない。

 なのに、どうして。


「豊島さん、どうしてここに?」


 うどんを食べ終わり、俺はやっとその疑問を口にすることができた。


「どうしてって、中野くんのこと心配だったからに決まってるじゃん。一人暮らしだとごはん食べるのも一苦労でしょ」

「そうだけど……」


 時刻は六時過ぎ。予定通りであればもう一件演説に行っていたはずだ。

 俺が言いたいことを察したのか、彼女は「ああ」と手を叩く。


「演説ね、サボっちゃった」


 てへ、とはにかむように笑う豊島さん。可愛い。

 そっかーーーー、サボっちゃったか。

 まあ、そういう日もあるよね。人間だもの……


「って、えぇッ!? サボり!? 豊島さんが!?」

「え、そんなに驚く?」

「驚くよ! 俺の中で豊島さんって超優等生ってイメージだから! それだけじゃなくタフだし! 正直ちょっと人間かどうか疑うレベルで!」


 いかん、体調悪いせいか理性の歯止めが効かない。普段面と向かっては絶対言わないようなことまで口走ってしまった。

 しかし彼女は気にしていないようで、ぷっと笑う。


「人間だよ、ちゃんと。朝のうちは中野くんの分まで頑張ろうと思ってたんだけど、隣にいてくれないとなんかやる気出なくて」

「えええ……」


 そんなこと言われたら惚れてまうやろ。

 いや、もう十数年前にすでに一目惚れしているんですけども。


「だから、今日はちょっとお休み。まだ三日目だし、ね」

「それでここに?」

「うん」

「わざわざありがとう。助かったよ。……ただ」

「ん?」


 彼女の濁りのない瞳を直視できなくて、俺は俯いて言葉を続ける。


「正直さ、俺がいなくても豊島さんは平気なんじゃないかと思ってた」


 さっき確認したところ、スマホのメールフォルダには、彼女宛のメールが一件下書きで残されていた。選挙の手伝いを辞退したいという内容のメールだ。昼に送信した気になっていたが、途中で寝落ちして下書きで残されていたらしい。

 せっかくお見舞いに来てくれた彼女にこんな卑屈な言葉をぶつけて、俺は一体何をしたいのだろう。自分でもよく分からない。

 でも、この先きっと彼女を支援する人が増えるたび同じことを思う。

 だから、知りたかった。彼女が俺を切り捨てない理由を。


「あのさ、もう気づいてるよね? 俺が別に政治や選挙に詳しくない人間だってこと」


 彼女に頼られた手前、ここまで必死に調べながらやってきた。

 期待を裏切らないよう知識があるふりをした。

 けど、記者会見の時に彼女以上に緊張したり、告示日の時に他の候補者の顔を知らなかったりと、ところどころで本性が露見していた自覚はある。


「えっと、それは……」


 珍しく彼女の視線が泳ぐ。その視線の先には、壁に貼られた昔推してたアイドルのポスター。今はもうアイドルグループを卒業して、地方局のアナウンサーをしている。


「もしかして、初めから知ってた? 俺が言ってた総選挙が、アイドルの総選挙だって」


 おそるおそる尋ねると、彼女は気まずそうに頬をかいた。


「うん、実はなんとなく気づいてた……。メールアドレス、当時流行ってたアイドルソングのタイトルに似てるなって思ってたし……。確信に変わったのは、今だけど」


 うわああああ。顔が赤くなるのを感じる。また熱が上がってきたかもしれない。


「そ、それじゃどうして今まで黙っててくれたわけ? 豊島さんだったら、俺以外にももっと頼れる友だちとかいるでしょ」


 彼女は否定しない。

 けど、肯定もしなかった。


「中野くんにしか、声を届けられない人がいるからだよ」


 いつになく真剣な表情で、ひょっとするとどこか思い詰めているようにも見える顔つきで、彼女は言った。

 俺にしか、声を届けられない人?

 それって誰だ。全然検討がつかない。

 彼女と違って友だちが多いわけでもない、誰か特別なつながりがあるわけでもない。

 豊島さんになら声を届けられる人がいるのは分かる。けど、俺?

 ぽかんとしていると、彼女はいつも通りの明るい表情に戻っていた。


「そういうわけで、これからもお手伝いよろしくね。頼りにしてるんだから」

「あ、うん……」

「ほら、おうどん冷めちゃうよ。食べて食べて」


 なんだろう、このお茶を濁された感じ。

 俺の察しが悪いだけ?

 いやでも、やっぱりしっくりこない。

 俺にしか声を届けられない人って誰だ。豊島さん一人じゃダメってこと? 彼女の声が届かない……そんなことってある?

 待て待て、推し活をする者の悪い癖が出ているぞ、栄多。

 推しを妄信しすぎてはいけない。推しだって人間なのだ。二十四時間笑顔でい続けるわけではないし、非合理な恋に落ちることもあるし、トイレだって行く。

 推し活歴十数年、さまざまな推しを転々としてきた結果、いつしか過度な期待は応援になるどころか推しを傷つけていたことが分かってきた。先代の推しが精神を病んでアイドルを卒業して以降は一転、人としてダメなタイプの千石みねあを推すことに落ち着いた男、俺。

 目の前のリアルな豊島さんの眩しさにまた目がくらみそうになっていたが、一度ブレーキをかけ直した方が良いのかもしれない。


「豊島さんも人間だもんな……」

「もー、またそれ?」


 いかん、口に出ていた。

 気づけば彼女も紙皿にうどんをよそって食べている。啜りながら食べるのが苦手なのか、一口ずつ噛み切って食べるスタイルのようだ。うどんの熱気のせいか、ほんのり頬が色づいているように見えた。スープでしっとりと濡れた唇も、よくよく考えたら凄くセクシー。

 こうして一緒にうどんを食べるのは初めてじゃない。選挙の準備期間や演説まわりの合間にチェーンのうどん店でささっと食べることはこれまで何度かあった。

 けどなんだ、俺の部屋で、ベッドの傍らで、手作りの料理を一緒に食べるって、冷静にシチュエーションを俯瞰してみるともはやただの同級生という関係を超えているような気が、


「中野くんこそ、どうして手伝いを引き受けてくれたの?」


 ふがっ!

 うどんが鼻に入る。


「興味ないのに無理して手伝ってくれてるんじゃないかなって、たまに心配になってたんだよね。実際のところ、どう?」

「い、いや別に無理なんかしてないよ! やってみたらけっこう面白いなって思ったし」

「ほんと?」

「本当、本当だって!」


 げほげほげほ。

 言ったことはまま本音ではあるけれど、最初の動機が下心で、相手が豊島さんじゃなけりゃここまで入れ込んではなかったかもしれない。だって俺も人間だもの。


「そっか! それなら良かった」


 彼女は無垢な笑顔でそう言うと、すっと立ち上がって台所を片付け始めた。


「あ、洗い物までやってもらうのは悪いよ。そろそろ帰らないと」

「帰らない」

「え?」


 えええええ?


「中野くんが寝るまでここにいる。そうじゃないとまた無理しちゃうでしょ」


 彼女はごしごしと鍋を泡まみれにしながら口を尖らせている。

 な、なんで急に拗ねてますの!?


「無理なんてしないって! 今日はもうすぐ寝るし」

「だって、中野くん無理してるのに無理してないって言うから」


 日本語って難しいなあ!


「そ、それはその場のノリで! マジでもう倒れるほど根詰めたりはしない! 自分の体力の無さは実感したから! 本当に! 約束する」

「……本当に?」


 豊島さんが手を止めて俺の方を見た。

 目が合う。

 大きな黒い瞳が、少しだけ揺らいでいる。

 彼女の本心はイマイチよく分からない。俺には計り知れない。

 けれど彼女だって完全無欠の人ではないのだと、その瞳が語っていた。


「明日から選挙戦の最後まで、一緒に戦うよ。だから、豊島さんも明日に備えてさ、今日はもう帰って」


 じゃないとむしろ寝られない気がするので!


「……うん、わかった」


 ツンと尖っていた口元は和らぎ、彼女はこくりと頷いた。

 うーーん、やっぱり本音を言えば寝るまでそばにいて欲しかったかも。

 だが、今の彼女は俺だけが独占していい人じゃない。

 東京都民全員の代表になろうとしている人だ。

 たった十七日間という限られた期間で千四百万人もの人々の目に触れ、知られなければならない人だ。

 ただでさえ主要候補よりも不利な戦いをしているのに、これ以上俺のために時間を取らせるべきじゃない。


「今日はありがとう。本当に助かった」


 玄関で彼女を見送る俺は、壁にもたれスウェットのポケットに両手を突っ込んでいた。非常に態度が悪いのは分かりつつも、万が一にも名残惜しくなって彼女に手を出さないようにするための自制のつもりだ。


「明日、待ってるからね」

「うん。今日中に治す」

「ふふ、期待してる!」


 彼女はにこやかに手を振ると、いつも通りのしっかりとした足取りで去っていった。

 アパートの廊下の突き当たりで彼女の姿が見えなくなり、部屋に戻る。

 すると、先ほどまで彼女が座っていた場所にキーホルダーが落ちているのを見つけた。


「なんだこれ。レンコンの、ゆるキャラ……?」


 ぬいぐるみ生地のキーホルダー。表面がやや薄汚れていて、そこそこ年季が入っているようだった。

 豊島さんの忘れ物だろうか。

 明日会ったら渡さなければ。


 とりあえず落としたか心配しているかもしれないので、うちに落ちていたことだけメールして、俺はすぐにベッドに入った。

 腹が満たされていたおかげもあったか、あっという間に寝付けたのであった。


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