2章 都知事選 開幕

第8話 あさきゆめみし ゑひもせす



 窓から差し込む夕陽。茜色に染まる教室。

 クラスメートのほとんどは明日から始まる文化祭で使う方の教室に行き、ここに残る生徒は俺ともう一人だけ。

 俺たちは机を向かい合わせにくっつけて、黙々と折り紙で輪飾りを作っていた。

 クラスの出し物はお化け屋敷なのに、果たしてこれは必要なんだろうか……そんな疑問が無いと言ったら嘘になる。だけど、異論を唱えるつもりはないし、意味を尋ねるような野暮なこともしない。文化祭において俺の演じる役は「空気」だ。なるべく波風を立てない。クラスの和を乱さない。それが、盛り上げる気のない人間にできる最大限の貢献である。


 目の前の彼女も、同じ考えなのだろうか。

 作業をしながら、ちらりと向かいに座るクラスメートを見やる。

 長い前髪がカーテンのようにしなだれ、表情は窺えない。ぽったりとした厚い唇はへの字に結ばれており、顎には痛々しい大きなニキビが三つもできている。

 受験ストレスで制服がはち切れる寸前まで太って年中汗をかいている俺が言うのもなんだが、あまり清潔に見えるタイプではない。

 彼女の制服はしばらくクリーニングに出していないのかだいぶよれていて、なんだか湿っぽい匂いがする。カースト上位女子たちが使う制汗剤の甘ったるい匂いが苦手なので、それに比べたらマシではあるが。


「……何か?」


 俺の視線に気づいたらしい。

 前髪のカーテンの奥から、濁った瞳がこちらを見ている。


「あう、あ、いや……なんでも」

「だったら見ないでよね」


 オドオドする俺の言葉を待たず、ばさりと切り捨ててくる。なかなか辛辣な人だ。


「というかさ」


 彼女は作業する手を止めると、畳み掛けるように小さく溜め息を吐いた。


「早く帰りたいんでしょ。だったら帰れば。子どもっぽい文化祭に付き合わされるくらいなら、家で受験勉強したいでしょ。わかるわかる」

「で、でも」

「私? ああ気にしないで。受験しないことになったから」

「え……」


 俺たちが通っていた都立高校は、そこそこの進学校だった。

 進学先の偏差値はかなりまばらではあるものの、ほとんど全員が受験をする。そういう学校だった。


「あの……何かあったの?」

「別に。なんで中野くんに話さなきゃいけないの」

「それは、そうだけど……」

「なんでもない。本当になんでもないって。さっさと帰ってよ。サボりだって告げ口する気もないから」


 彼女はキツい口調でまくしたてる。

 だが……もしかすると、同類だからだろうか。

 それが強がりだと、俺には分かってしまった。

 さっきから俺のことを一度も見ない。

 顔を両手で覆い隠して、目が合わないようにしている。


 こういう時、どうしたら良いのだろう。

 とりあえず保健室に連れていくべきか。

 それとも、彼女の言う通りおとなしく去るべきか。

 もたもたしているうちに、彼女は呟いた。


「学校なんて嫌い」


 ぐしゃりと、作ったばかりの輪飾りが彼女の肘の下敷きになる。


「頭の出来も、家の事情も、考えも、好きなものも違う人ばっかりの集まりなのに、どうして無理やり窮屈な箱に閉じ込めるの。住む世界が違う人間同士を、どうして横並びで比べようとするの。学校なんて嫌い、嫌い、みんな嫌いっ……!」


 泣きじゃくる彼女。

 どうすれば、どうすれば、どうすれば……!?

 困惑しすぎた俺は、つい思わぬことを口走っていた。


「み、みんなって……俺のことも嫌い?」

「……は?」


 きょとんとする彼女。

 恥ずかしさのあまりカーッと顔に熱がのぼる。

 でも、だけど、だって。嫌われる理由なんて無いじゃないか。

 これまでほとんど接点なかったし、教室の中で彼女より優位な立場にいるわけでもない。定期テストではここ一年ずっとクラス最下位を死守し、体育祭の徒競走では順位を争うどころか走り切れるかも怪しくてみんなに応援されたくらいだ。家庭だって父親の会社がリーマンショックの影響をもろに受け、ここ最近の弁当はおにぎりと味噌汁だけである。それだとストレスによる空腹を満たせないので、泣く泣く貯金を崩してコンビニのカップ麺やポテチを買い足す日々だ。


 とんちんかんな俺の言葉に、思わず彼女の涙は止まっていた。

 それからどれだけ沈黙があっただろう。

 やがて彼女は、深いため息を吐いて俯いた。


「中野くんは、どうでもいい」


 ……ですよね。


「どうでもよかった」


 過去形?


「でも、もしかしたら」


 彼女はカバンからハンカチを取り出して目元を拭う。


「あの子じゃなくて、君と友だちになれば良かったのかもね」


 あの子とは一体誰のことなのだろう。

 気になったが、何事もなかったかのように彼女が作業を再開したので、俺もつられるようにして黙々と輪飾りを作るのに専念した。

 その後二人の間に会話はなく、他のクラスメートたちが戻ってきて解散を告げられたので別々に教室を後にした。


 彼女の制服に染みついた匂いが線香のものだと気づいたのは、校門を出た時のことだ。

 なんとなく気になって教室まで引き返してみたが、彼女はもういなくなっていた。

 次の日も、またその次の日も、会うことはなかった。

 彼女は自分たちが作った輪飾りがどう使われるかも見届けないまま、学校に来なくなってしまったのである。


 文化祭が終わった後、本格的に受験シーズンが始まって登校日もまばらになった。

 最後の追い込みに必死で、クラスメートの様子なんて気に留めている暇がなくなった。

 あの後どうしていたのだろう。

 なぜ、卒業アルバムに載っていなかったのだろう。


 彼女の、名前は――






蓮根はすねさん」


 自分の声で目が覚める。


 そうだ、思い出したぞ。

 蓮根あおい。

 それが彼女の名前だ。


 直後、スマホから大音量で「ロッキン☆イナサック」が鳴り出したので、慌てて止めた。

 画面には6月20日(木) 6:00と表示されている。

 今日は都知事選の告示日。

 いよいよ今日から選挙戦の始まりだ。


 通知を見れば5分前に豊島さんからメールが来ている。


〈おはよう! いよいよ今日からだね! がんばろ!〉


 二週間前に行われた出馬表明記者会見。

 あの時、若林との圧倒的な注目度の差を見せつけられても、豊島さんは落ち込まなかった。

 むしろ、無名の新人でも5,000人近くの人が見てくれたことを前向きに受け止めたようだ。

 コメント数は若林のそれに比べたら少なかったが、政策について非難する声は見当たらなかったのも彼女の自信になったらしい。


 本人が諦めていないのに、手伝う人間が弱気になってどうする。

 打ちひしがれそうになっていたところをなんとか奮い立たせ、なるべく余計なことは考えず、この日までひたすら選挙の準備をしてきた。


 それでもやっぱり、不安が無いと言えば嘘になる。

 あらかじめメディアに注目されている主要二候補に加え、告示日前に立候補表明をしたのはついに五十超。

 思想も年齢も経歴もみんなバラバラ。

 普段はつるまないはずの連中が今日、立候補の受付をしに一斉に都庁に集結する。

 まるで学校の教室のようだ。

 大学、社会人と似たような人間のコミュニティに属することが当たり前になってきて、久しく忘れていた感覚。

 それが今朝の夢を呼び起こすに至ったのかもしれない。


 豊島さんは、蓮根さんのことを覚えているだろうか。

 きっと覚えているだろう。

 俺なんかのことを覚えていたくらいなのだから。

 もしかすると豊島さんなら、彼女がその後どうなったかを知っているかもしれない。


 気になるが……今はとにかく選挙だ。


〈起きました。今から都庁に向かいます〉


 両頬を叩き、メールに返信する。

 寝坊防止にもう一つセットしていた「ロッキン☆イナサック」のアラームが再び鳴ったが、不思議とサビが「行け!」に聞こえるような気がした。


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