第9話 都知事選告示日
都庁第二本庁舎十階、会議室。
候補者の届出受付は八時半開始予定だったが、実際には一時間前の七時半から仮受付が始まった。
俺たちは都庁に到着したのは七時頃である。だが、その時にはすでに二十人以上の候補者、あるいはその代理人が集まっていた。
なぜって?
早いうちに受付を済ませ、選挙活動を開始したいという思いも当然ある。
だがもう一つ大事なことは、「届出順」だ。
新聞やテレビのニュースでは立候補の届出を出した順に候補者が紹介されることが多い。つまり若い順番の方がある程度有利だと考えられているのだ。
ただ、早いもの勝ちにして前日から張られたりするとそれはそれで迷惑なので、八時半より前に仮受付を済ませた陣営についてはくじ引きにより届出順が決定される。
ちなみに、ポスター掲示板内の掲示位置もこの届出順と連動する。
従来は掲示板の右上に「1」が来て番号順に並んでいたが、近所にすでに設置されていた掲示板をいくつか見たところ「1」が中段に来るような変わった並びに変更されている。
一週間ほど前に掲載されたニュース記事によると、選挙管理委員会曰く、前回の都知事選の候補者数(約二十人)を踏まえて今回は平均三十人分貼れる巨大な掲示板を用意した。想定よりも候補者が少なかった場合に余白が目立ちポスターが見づらい位置に来ないようにするために、並び順を変える配慮を行った、ということらしい。
……残念ながらそれは杞憂となり、予想を遥かに超える五十人以上の候補者が今日ここに集まってくる予定なわけだが。
「それではこれより、届出順決定のくじ引きを行います」
各陣営でくじを引く者たちが前に出る。
主要候補として注目されている万願寺と若林本人は見当たらないが、ジャケットの内側にそれぞれの陣営のテーマカラーのTシャツを着た人がくじ箱の近くに立った。どうやら代理人が来ているらしい。
「届出の瞬間とか、けっこう重要な場面なのに来ないんだな」
「お、あんちゃん。心意気を大事にするタイプかい」
豊島さんに話しかけたつもりが、二人の間に小柄なおっさんが割って入っていた。
白のTシャツにポケットがたくさんついたメッシュベストを着ていて、首にはタオルを巻いている。
休日の下町ならまだしも、スーツ姿が大半を占めるこの空間ではやや場違いな雰囲気である。
「もしかして
豊島さんが尋ねると、おっさんはくしゃっと笑いドンと胸を叩いた。
「おう、もんじゃ党の月島
「も、もんじゃ党……?」
「中野くん、知らなかった? 月島さんは今回の都知事選で五回目の出馬なんだよ」
「五回目!?」
どんだけ出てるんだ。
というか、それでも東京生まれ東京育ちの俺が知らないって……。
俺がこれまで政治に見向きもしてこなかったせいは当然あるのだが、考えてみると過去の都知事選に誰が出てたかなんて数名くらいしか思い浮かばない。現職と戦った対立候補以外は、ネット起業家とか、芥川賞作家とかの元々知名度があった人物くらいだ。
「あんちゃんが知らないのも無理ねェわな。俺は毎度孤軍奮闘をモットーに戦ってんのよ。江戸っ子だからよう」
へん、と鼻の下を擦るおっさん。
政治団体の名前もさながら、なかなか個性的な人物のようだ。
「話を戻すぜ。万願寺や若林がここにいねェのは訳があってな。
「え、もう?」
「そりゃあだって、第一声ってのは一番マスコミが注目するからな。いち早く、大々的にやりたいのさ」
なるほど。素直に目から鱗である。
第一声とは、立候補の届出が完了した後に初めて行う演説などの選挙活動を指す言葉だ。
大々的にやるにはそれなりに準備がいる。
選挙カーひとつとっても、通勤ラッシュ時間帯の都内主要駅前に移動させるにはかなりの余裕を見ておかなければいけない。
そのため分担制で、届出は代理人にやってもらうのだろう。
当然、そんなことは組織力のある候補者にしかできない芸当で、たった二人で選挙をやる俺たちのような後ろ盾のない候補者には無縁の話なのだが。
「とはいえ、だ。選挙活動ってのは届出が済んで、七つ道具をもらってからじゃなきゃ公職選挙法違反になる。こりゃ責任重大なくじ引きだぜ」
七つ道具――街頭演説中に掲げる旗や、選挙運動員用の腕章などの選挙活動必需品のことだ。
言われてみれば、代理人として来ているスタッフはかなり緊張した面持ちである。
なにせくじ引きする陣営は二十以上。
よほど手続きがスムーズにいって一人当たり三分で終わったとしても、一番と二十番じゃ選挙活動開始に一時間の時差が生まれる可能性がある。
「んじゃ、俺もいっちょ引いてくるか!」
ぶんぶんと腕を回しながら気合十分、月島がくじ引きの場へと向かう。
俺たちも行かなくては。
たぶん、豊島さん本人が引くのだろうけど……。
「中野くん」
「うん」
「中野くんって、運良いタイプ?」
「え、どうだろ」
思わぬ質問が飛んできた。
ここ最近、ツイてる出来事はあっただろうか。すぐには思い当たらない。
だが、そういえば高校時代はけっこう運が良かったのだ。
席順を決めるくじ引きでは望んでいた場所を引き当てることが多かった。
窓際の後方の席、かつ豊島さんをほんの少し離れたところから眺められる場所。
もしかすると青春を日陰で過ごしていた者に与えられた、神様からのお情けだったのかもしれない。
「わたし、今朝の星座占いで最下位だったんだよね。だから……もらっちゃおっかな」
そう言うと、豊島さんは急に俺の両手を握ってきた。
「へっ!?」
いきなりの行動に思わず変な声が出る。
何事かとこちらを見る人がいる。
ほんのコンマ数秒のことだったが、体感時間はその十倍くらいには感じた。
狼狽する俺に対し、豊島さんは何食わぬ顔である。
やがてむふーと少女のように満足げな表情を浮かべると、「じゃ、行ってくるね!」と軽やかな足取りでくじ引きに向かった。
そうして、彼女は届出順ラッキーセブンを勝ち取った。
俺はというと、都庁を出てすぐ頭にカラスの糞をくらったのであった。
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