第6話 踊る東京都知事選
都営大江戸線に乗る上で欠かせないものは何か?
イヤホンである。
都内には蜘蛛の巣のように複数の地下鉄路線が走っている。
中でも大江戸線は比較的歴史が浅く、他の路線を避けるように線路を通したため、急なカーブや坂道が多いらしい。
そのぶん車輪とレールの摩擦音が大きく、さらに感染症対策で窓が開いている場合は車内アナウンスが聞こえないほどの騒音が発せられることがある。
だから、イヤホンが必需品というわけだ。
俺は目的地に着くまでの間、推しのVTuber千石みねあがリリースしているオリジナルソングを聴いていた。
江戸時代の米農家の娘が現代に転生したというプロフィール設定になぞらえた曲、「ロッキン☆イナサック」。
なぜかパンクな曲調で、サビで「稲!」と叫ぶ箇所がいくつもあるのだが、イントネーション的に「
しかも必ずドレミファソラシの「シ」で音程を外す音痴っぷりなのだが、これがなぜか癖になる。
とにかくツッコミどころ満載で頭がいっぱいいっぱいになるので、ストレスや極度の緊張にさらされている時の気分転換にはもってこいの曲だ。
〈ロッキン☆イナサック聴いたら気が楽になってきた。みねあ活動再開まだかな #千石みねあ〉
Xに投稿。
するとすぐフォロワーのうめさんから反応があった。
〈お疲れですか?w いつもの傾向だと炎上から二十日したらしれっと活動再開するんで、今日あたり何かあると踏んでます。あとちょっとの辛抱ですね〉
七十五日もたないあたりがみねあらしい。
〈さすがうめさん。考察たすかります〉
〈いえいえ。では午後の仕事も乗り切りましょ〜〉
その返信を見て、うめさんも仕事してるんだな、とふと思った。
今はちょうど世間では昼休みの時間である。
うめさん、わりと四六時中Xにいるイメージがあるので勝手にニートだと思い込んでいた。すまん。俺も人のこと言えない中毒っぷりなのに。
曲の切れ目、顔を上げれば都庁駅前に着いたところだった。
途切れたうめさんと入れ替わるように、豊島さんからメールが届く。
〈入庁ゲート前にいるね!〉
そう。俺たちは今日、東京都庁に来ている。
事前審査通過の連絡を受け取ってすぐ、豊島さんは都庁の記者クラブに連絡を入れて出馬表明の記者会見を開きたい旨を連絡した。
そもそも記者クラブとは?
官公庁などの情報が集まる場所には取材のために各大手メディアの記者たちが常駐している拠点があり、それを記者クラブと呼ぶらしい。
都庁にも庁舎内に記者クラブがあり、記者会見もその場でできるようになっているという。
駅のホームに降り立ち、俺は新調したばかりのネクタイを締め直した。
IT業界は私服勤務が常だから、スーツを買ったのは就活の時以来だ。
別に俺がカメラの前に立つわけではないけれど、彼女のアシスタントとしてふさわしい格好を考えたら自然とこうなった。
自然と気が引き締まり、背筋が伸びる感じがする。
ついに、来てしまった。
出馬表明をするということは、もう後に戻れないということだ。
豊島さん、本当に都知事選に出るんだな。
じわじわと実感が湧き上がってくると同時に、緊張で身体が強張っていく。
だが、本人はきっとその比じゃないはずだ。
あまり待たせては悪い。
俺は、なんとかして重い足を庁舎に向かって進めるのだった。
さて、こちら庁舎内。
豊島さんは緊張で固まる様子などなく……踊っていた。
一応彼女の名誉のために補足しておくと、初めから踊っていたわけじゃない。
時間どおりに記者会見が始まらなくて、会見が行われる会議室の外で待つことすでに三十分。
暇を持て余しすぎたので踊っているのである。
振り付けはなんだか盆踊りっぽい和風の動きだが、時折軽やかにステップを踏んで膝を高く上げるので、よくもまあタイトスカートを履きながら踊れるものだと感心する。なお、下着は見えない。そこら辺のガード意識は案外しっかりしているのかたまたまかは分からないが、股の隙間は裾にゆとりのあるデザインのスカートがひらりと覆い隠すのでギリギリ見えないようになっている。残念。いや、記者会見前に何を考えさせられているんだ、俺は。
「これ、演説中に踊るつもりなんだけどどう思う?」
「やめた方がいいと思う」
豊島さんの言葉で、良からぬ方向へ行きかけていた意識が現実に戻ってきた。
この人、本当に選挙のことしか考えてない。
「ええー、そうかなあ。けっこう目立つ気がするけど」
彼女は不服そうに口を尖らせる。
目立ったとて「近づいたらヤバい人」認定されてかえって避けられるだけだぞ、たぶん。
そんなことせずとも、豊島さんなら華やかなルックスと張りのある明るい声音で十分注目を集められそうだ。
「可愛すぎる都知事選候補」「エリート美女、都知事選に参戦」……記者会見後、こんな見出しがネット記事を飾ることを想像しながらここへ来たのだが、記者たちは彼女を放置して一体何をしているというのだろう。
俺はそっと会議室の扉に耳をそばだてる。
しばらく話し声が聞こえていたが、やがてガタガタと椅子を引く音がしたのでさっと身を引いた。どうやら終わったようだ。
ガチャリと扉が開く。
中から出てきたのは百八十はあるであろうひょろっとした長身に、黒縁の眼鏡をかけた四十代くらいの男であった。
気難しそうな、どこかで見たことがある顔。
「若林さん」
俺が思い出すより先に、豊島さんが男の名を呼んだ。
そうだ、都知事選にすでに出馬表明をしている有力候補のもう一人、若林だ。
名前を呼ばれた若林の顔が、スイッチが入ったかのように切り替わる。
口角をきゅっと吊り上げた、人好きのしそうな笑顔だ。
「都庁職員の方ですか。お仕事お疲れ様です」
すっと手を差し伸べ、慣れた風に豊島さんの手を握った。
すげえ、本物の政治家のコミュニケーションってこうなのか。
有無を言わさず人の心に立ち入ってくるこの感じ。
日陰暮らしが染みついた俺には絶対無理の所業。
唖然としている俺に対し、豊島さんは余裕の構えである。
ニコッと屈託のない笑みを返し、ぎゅっとその手を握り返す。
「ありがとうございます。都庁職員というのは、元ですが」
「元?」
「はい、先月まで。今は無職で、都知事選に立候補予定です」
そう、俺も事前審査の書類を書く手伝いをした時に知ったのだが、豊島さんは元々都庁に勤めていたという。
都庁職員は公務員である。
豊島さん曰く、選挙に関する法を定めた公職選挙法によると、一部例外を除き公務員は公職に立候補した時点で退職しなければいけないことになっているらしい。
なんとなく誰でも立候補できるものと思っていた俺にとっては少し意外な情報だった。
「そう……。立候補ですか」
若林の表情が引き攣っている。
すっと豊島さんから手を離したかと思うと、ポケットから何か取り出した。
青いシルクのハンカチだ。
若林は俺たち二人の目の前で握手したばかりの手を拭う。
まるで汚いものに触れたかのように。
「失礼。急ぐので」
彼はくいっと眼鏡の位置を直すと、スタッフらしき人を連れ立って足早にその場を去っていった。
か、感じわるっ!!
塩対応の地下アイドルもびっくりだぞ!!
たとえ候補者同士ライバルの立場だとしても、俺たちが同時に投票権を持っているってことを忘れてないか。
そう、立候補した人にだって投票権があるのだ。
普通は自分に入れるだろうけど、万が一、万が一にも落選した時だって、俺たちには都民の一人として都知事になった人物を見定める権利がある。
若林は今、俺たち二人分の票を確実に失うようなことをしたのだ。
なんてやつ!!
こんな男が次の都知事の有力候補の一人だなんて、この国は本当に大丈夫か。
暴露系YouTuberにでもタレ込んでやろうか。
ああくそ、怒りで頭が沸騰しそうだ。
当事者の豊島さんはさもありなん……と思いきや。
くんくんと自分の手の匂いを嗅いで呟く。
「気合い入れてお昼にお寿司食べたから、臭かったかなあ」
なんという鋼メンタル。
やっぱり後ろ盾もなしに都知事選に出ようと思う人は何かが違う。
空気の抜けた風船のように、膨らみ上がった怒りが急速に萎んでいくのを感じた。
「ちなみに何食べたの?」
「しめ鯖10皿!」
「……マジ? 30なってから俺8皿でギリギリなんだけど」
というか豊島さん、回転寿司で同じネタばっかり頼むタイプなんだな。
俺は価格帯ごとにまんべんなく頼むタイプ。
どうでもいい寿司トークでそこそこ盛り上がっていると、ようやく会議室の中から記者の一人が出てきて、俺たちは会見場に案内されるのであった。
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