第5話 破られた卒業写真


 豊島直央としまなおはあの輝かしい高校生活の何が不満だったというのだろう。


 翌日、俺は小金井市にある実家のマンションに帰り、押し入れにしまってあった高校の卒業アルバムを見ていた。

 オリエンテーション合宿、修学旅行、学園祭、部活動。

 あらゆる行事のどこかには必ず彼女がいた。しかもどれも生き生きした顔で写っている。

 高二の時の学園祭の生徒会長あいさつなんて綺麗な横顔のアップで写っていて、俺は思わずそのページをスマホで撮って保存した。


 こうして見ると現在の彼女よりはさすがに幼い感じだ。化粧をしていないのと、当時の流行りもあって少し眉が細い。あと、頬は心なしか高校時代の方がふっくらしていて多少痩せたように思う。不健康な感じではないから、単純に実家にいた頃にたくさん食べさせてもらってたとか、そういうことだろう。同じことは俺自身にも言える。


「えーちゃん、おしゃしんみてる? りんちゃんも、りんちゃんも」

「あっこら、そのページは」


 姪っ子のりんがいつの間にかソファの隣に這い上がってきて、無理やりアルバムのページをめくった。

 三年三組の生徒一覧の写真が載ったページである。

 当時受験のストレスでぷくぷく太った過去の自分とご対面だ。


「わー、高校の時のお兄ちゃん懐かしっ! この時荒れてたよねえ」


 しししと笑いながら娘をひょいと抱き抱えるのは、二つ下の妹・穂花ほのかである。

 俺より先に結婚して、今は二歳児を育てるワーキングママだ。

 滅多に実家に帰らない俺と比べ、土日になるとしょっちゅう娘を連れて遊びに、もといジジババに面倒を見させているらしい。


「ええい見るな見るな。別に俺は自分の黒歴史を確認したいわけじゃない」

「じゃー何よ。初恋の人の顔でもわざわざ確認しにきたってわけ?」


 ほぼほぼ図星だったが、答えてやる義理はないので俺は黙ってページをめくった。

 やっぱり、アルバムを見たところで豊島さんが青春をやり直そうとしている理由は見つからない。

 俺みたいに、行事写真でほとんど写り込んでいないようなやつならまだ分かるのだが。

 ほら見ろ、この申し訳程度の学祭準備写真。リア充どもが肩を組んで満面の笑みを向けている背景で、今から買い出しに行こうと教室を出ようとする後ろ姿の俺が写っている。


 ふと、写真を見て思い出した。

 も、確か同類だったよな。

 学祭の準備をしていた時期、よく作業が一緒になった女子が一人いた。

 お互いクラスの隅っこに生息するタイプで、学祭にも積極的じゃなかったため余った仕事を振られたもの同士。

 ほとんど会話を交わすことはなかったが、すげえ憎々しそうに「学校なんて嫌い」と言っていたのだけが妙に記憶に残っている。


 豊島さんじゃない。名前は……えーと、何だっけ。

 もう一度クラス写真のページに戻る。薄ぼんやりと顔は覚えているのだが、生徒一覧には見当たらなかった。

 違うクラスだっただろうか? いや、でも学祭準備を一緒にやったってことは同じクラスだったはずだが……。もしかして高二か高一の時の記憶とごっちゃになっている?

 三十歳なんてまだ若いだろとたかを括っていたが、いつの間にかザルのように記憶が抜け落ちていることにゾッとした。

 豊島さんのことも、再会することがなければいつの間にか忘れてしまっていたんだろうか。

 そう考えると、彼女が俺のことを覚えていたことがとんでもない奇跡のように感じる。

 入学初日の自己紹介で大失敗して以来、できるだけ目立たないように息を潜めてきた三年間だった。豊島さんとは確か一年と三年で同じクラスだったが、ほとんど言葉を交わした記憶がない。

 彼女が俺に片想いしていたとか、そういうことならまだしも……ないない。さすがに分かる。冴えたルックスではないし、性格も捻くれていて卑屈な自覚がある。

 なら、いったいどうして?


 リビングの壁掛け時計を見ると、もう昼時に差し掛かっていた。

 卒アルは確認できたし、そろそろ帰るか。

 母が張り切って昼食の準備を始めているので少し悪い気はするものの、あまり居座ると「結婚はまだか」「仕事はどうだ」など質問攻めにされるのでそうなる前に退散しておきたかった。

 だが、荷物をまとめて立ち上がろうとした時、ちょうど父親が帰ってきてタイミングを逃してしまった。


「おお栄多。帰っていたのか」

「ああ、うん。ちょっと荷物を取りにきて」

「そうかそうか。たまにはゆっくりしていきなさい」

「まあ、そうしたいところではあるけど」

「いいから、せめて昼食くらい食べていきなさい。この家もいつまであるか分からないからな」

「それもそうだ……って、ん?」


 父さん今、しれっと不穏なこと言ったような。


「この家がいつまであるかって、どういうこと?」

「あら、栄多には言ってなかったかしら」


 母さんが台所から声をかけてくる。


「このマンションね、修繕積立金が全然足りてなくって、あちこちガタがきても直せないのよ。だから、そろそろ引っ越そうかなってお父さんと話をしていて」

「え、そうなの」

「今日も理事会だったが、まるで話にならん。みんな他人事だ。数千円の積立金の値上げすら渋るんだから」


 父さんは眼鏡を外すと、眉間の皺を揉みながらどさっとソファに座り込む。

 こんな風に怒りを露わにしているのは珍しかった。普段はわりと冷静で温厚な人である。


「これだから老朽化マンション問題なんてのが起こるんだろうな」

「老朽化マンション問題?」

「知らないのか。東京には築45年を超えるマンションがけっこうあってな、そのうち1万棟近くが修繕や建て替えを怠っていて、古いまま放置されているんだよ」

「げっ、そんなに」

「古いマンションは今の時代の耐震基準を満たしていないから、たとえば震度6とか7の地震が来ると倒壊する危険があるんだ。そういうわけで、金に余裕がある世帯は逃げるように出ていってしまう。残された世帯は危険を承知で住み続ける。金がないから修繕や建て替えはできない。そんなマンションに入居したがる人なんているわけがなく、空き家が増える。負の連鎖だ」


 ちなみに、うちの家庭だってそんな裕福じゃない。

 サラリーマンの父親と専業主婦の母親の一般家庭である。

 二人とも地方出身なので都内に地縁もない。

 できればこの家で長く暮らし、介護が必要になったら施設に移るつもりだと話していたのを聞いたことがある。

 それでも引越しを検討するというのだから、よほど危機感を感じているのだろう。


「世知辛いわよねぇ。こういう時、行政が助けてくれるといいんだけど」

「残念だがそれはないだろう」


 父さんがテレビをつけると、デカデカと政治家の顔が写った。

 今度の都知事選の有力候補である万願寺だ。

 万願寺は記者たちの前で老眼鏡をかけると、手元の原稿を見ながら語る。


『えー、わたくしが目指す東京の姿はですね、現職の池上都知事が築き上げられた東京をさらに超える、、これをですね、えー、スローガンとして掲げていくものとして、近々公約としてお示しできればと、えー、今ですね、まさに、準備に邁進しておるところであります』


 目線はちっともこちらを向かないまま最後まで読み上げる。

 一人の記者が手を挙げた。


『万願寺さんにおかれましては、昨年政治資金パーティーのキックバックへの関与が疑われておりましたが、そのことについてはどのようにご説明いただけますでしょうか』


『えー、それについてはですね、昨年末にご説明させていただいた以上のことはございません。私はその日体調不良で欠席しておりまして、当日の事情を詳しくは把握してないものですから、ええ、あとは捜査関係者の皆様にお任せするとして、今は先のことを、都知事選を見据えてですね、精一杯頑張って行きたいと思うところであります』


 そう言うと、公約については改めて会見で発表すると言い、そそくさと会場を後にしてしまった。


「相変わらず、ザ・政治家って感じ」


 穂花がうへぇと呆れた様子で呟く。

 父さんも「まあ、そうだな」と言ってテレビを消してしまった。


「万願寺さんは今年で72歳。高齢者の支持も多いし、先のことより目先のことで成果を上げるのを優先するんじゃないか。オリンピックは池上さんがやっちゃったし、万博は大阪に持っていかれたから、なかなか大変そうだがな」


 俺としては画面端のテロップに書かれていた「立候補予定者すでに35」という文字が引っかかっていたのだが(一週間前より15人増えている)、うちの家族は誰も気に留めていなさそうである。


「そんなことより、子育て世帯の家賃補助とかしてほしいよ。東京、ファミリー向けの家少なすぎだし、買うにしても高すぎだし」

「あら穂花、あなたこの前埼玉のマンション買って移住する気満々だったじゃない。東京に未練あるの?」

「あるある、ありまくり。てか埼玉はやめたよ。なんだかんだ言って、東京都心の方が保育園とか充実してるんだもん。埼玉に移住した途端、保育園難民になる可能性あるから今は無理かなって」

「はー、そうなんだ。都心じゃない方が子育てしやすいのかと思ってたわ」


 口を挟むと、家族三人がぎょっとした顔で俺を見た。


「な、なに?」

「栄多が……」

「お兄ちゃんが……」

「お前がこういう話に入ってくるなんて……! いつもは興味なさそうにスマホいじってるだろう! 一体どうした、もしかして結婚を考えている人でもいるのか!?」


 父さんが肩を掴んで揺さぶってくる。

 くそ、どうして親というのは適齢を超えた子どもの変化を全部結婚に結びつけたがるんだ!

 結婚じゃなくて、選挙の手伝いのことを考えてるんだよ!

 ……なんて、きっと話しても冗談だと笑われるだろうが。


 そこへちょうど、豊島さんからの着信でスマホが震えた。

 ソファにスマホを置きっぱなしだったせいで、画面に表示された「豊島さん」の文字が家族全員の目に晒される。


「え、彼女?」

「彼女かしら?」

「彼女なのか!?」

「かのじょー?」

「〜〜〜〜知らんっ!!」


 ここで「違う」と否定できないのが俺の弱いところである。

 逃げるように家を飛び出して、マンションのエレベーターの中に避難すると、ようやく通話ボタンを押す。


『あ、中野くん。いま大丈夫だった?』


 彼女の明るく華のある声を聞いた瞬間、全身の細胞という細胞からぶわーっと惨めさが噴き出して鼻の奥がツンとした。


「うん、大丈夫。ちょっとバタついてただけ」


 顔を合わせているわけではないのに、エレベーターの鏡の前で無意識のうちに髪を整える自分がいる。


『あのね、昨日相談しそびれちゃったことがあるんだけど』


 なんだろうか。

 一応、昨日のうちになんとか事前審査に必要な書類は準備したはずだ。

 事前審査に必要なものだけでもA4紙15枚分はあって大変だったが、二人で分担して記入し、漏れがないよう何度もチェックしたはずなので間違いはない。


『事前審査が通ったら、一緒に来てほしいところがあるんだ』

「豊島さんの家じゃなく?」

『うん』


 それってどこだ。

 家じゃないってことは、選挙の準備じゃない可能性がワンチャン?

 選挙と関係なく二人で出かけるって、実質デート、


『記者会見』


 キシャカイケン。


『出馬表明の記者会見をしようと思うから、手伝ってほしいんだけど……来れそう?』


 そうでした。豊島さんはそういう人でした。

 まっすぐで、これと決めたら寄り道はしない人なのです。


 来週はまだやり残した仕事があるが、そこまで忙しくはない。

 半休なら取れそう、と伝えると電話の向こうの豊島さんは弾んだ声で『ありがとう!』と言って、通話はそれで終わった。


 それにしても、記者会見とは。

 さっきテレビで見た万願寺のインタビューを思い出す。

 豊島さんはやっぱり不思議な魔力のある人だ。

 無所属で後ろ盾も何もない立候補とはいえ、あんな風にテレビに映ったらきっと彼女の可憐さ、素直さ、人の良さが世に見つかってしまう。

 そうなったら続々とあらゆる人から声をかけられたりして、二人きりの役得な時間はもうなくなってしまうのかもしれない。優秀な選挙コーディネーターみたいな人が味方についたら、俺なんてお役御免かも。


 嫉妬、しちゃいそうだな。

 もともと身分不相応なのにさ。


 口の中に苦味が広がるのを感じながら、帰路に着く。


 そう。この時の俺はまだ、

 これから始まる選挙戦がどれだけ厳しいものになるか、一ミリもわかっちゃいなかったのだ……。



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