第4話 部屋とYシャツとオカネ
古今東西のラブコメ・恋愛ものにはいくつかの「お決まり」がある。
たとえば良い感じの二人の男女、初めて相手の部屋を訪れる甘酸っぱいシーン。
招き入れる側はだいたい「部屋散らかってるけど……」なんて前置きをするが、実のところ小ざっぱりしていたり、表には出さないが相手のために気合い入れて掃除していたりして、招かれた側はその奥ゆかしさにまたグッとくるというのが定番だ。
だから、
「部屋散らかってるんだけど、気にしない?」
なんて上目遣いで聞いてきた時、俺は「全然気にしないよ」なんて言いながらめちゃくちゃ期待していた。
どうせもともと整理されたお部屋なんでしょう?
そうじゃなかったとしても、気遣いのできる豊島さんのことだ、俺のために一生懸命掃除してくれたんでしょう?
部屋を片付けるのに必死だったせいで、ベランダの洗濯物を片すのを失念していたとか、そんなことがあっても全然オッケー、むしろラッキー。
最寄駅から徒歩五分のところにある彼女のアパートまで、案内されるあいだむくむくと膨らんでいた期待は、玄関扉を開けた瞬間急速に萎むことになる。
まず俺を出迎えたのは、玄関に置かれたゴミ袋。その中には男物のYシャツ、部屋着、そして使用済みの歯ブラシなどが雑に詰められていた。
「こ、これは?」
「元カレのだよ。今日捨てるつもりだったんだけど、寝坊してゴミ出しの時間逃しちゃって」
彼女はてへ、と気まずそうに笑う。
ラブコメだったらマイナス百点の展開である。
いや、前向きに捉えてみれば、彼女は今現在付き合っている人が他におらず、俺に気を遣って元カレの痕跡を消そうとしてくれた……ともとれるのではないか。
だがしかし。
そうだったとして、この1Kの廊下と部屋の床に散らばっている大量のA4紙たちはいったいなんだ。
文字通り足の踏み場がない。
「さっき窓開けたら散らばっちゃって……もうどれがどれだかわかんなくなっちゃったんだよね」
彼女は眉をハの字に曲げながら言った。
試しに一枚、足元に落ちている紙を拾い上げてみると、【選挙公報原稿用紙】だった。うおおおい、いきなり選挙手伝う相手の公約踏むところだったぞ。
「……とりあえず、片付けようか」
「そう、だね」
頭の中でかちりとスイッチが切り替わる音がする。
プライベートモードから、仕事モードへ。
さよなら、甘いラブコメ展開。
さっさと書類を拾い集めていくと、全部で三十枚超。
驚くべきことに、全部都知事選に関する申請書類だった。
候補者届出書、選挙公報原稿用紙、政見放送申込書、候補者経歴書、収支報告書様式……どれも重要そうなものばかりだ。
シャープペンシルで下書きが入っているのも数枚あったが、他はほぼ白紙である。
「これもしかして全部出さなきゃいけないやつ?」
おそるおそる尋ねると、彼女はこくりと頷いた。
「あと他にも、新聞社とかからの質問票があって」
確かここに、と彼女は部屋のデスクの上にできている山を漁ろうとしたが、そこからまた雪崩が起きて再び床を埋め尽くした。
思わず二人とも無言になる。
さっきまでの片付けがほぼ水の泡だ。
「ごめん、こんなはずじゃ」
「いやいいよ。仕事柄、とっ散らかってるのを片付けるのは得意だし」
彼女はきっとそうではないのだろう。
再び書類を集めながら部屋の様子を盗み見てみると、本棚にはジャンルや本の高さがバラバラな状態で入っているし、キッチンには調味料が出しっぱなし、よくよく眺めると部屋全体も統一感がなくて、カーテンは緑でベッドカバーが赤色系と六月なのにさながらクリスマスであった。
「びっくりした……よね?」
「ああまあ、よくこんな状態で人を呼ぼうと思ったなとは」
「そっ、そうじゃなくてっ!」
豊島さんは書類の束を指して言う。
「こっち! 立候補に必要な書類の量のことっ!」
「ああああそっちか! うんうん、驚いた! めっちゃ驚いた!」
彼女の顔は真っ赤で、瞳はちょっと潤んでいる。
うわあ、やらかした。
とりあえず意地悪な言い方になってしまったのは猛省しよう。
でもちょっとだけ、彼女のこんな表情が見れて役得と思ってしまっている俺がいる。
立候補者の手伝いをする選挙運動員というのは、買収にならないよう原則ボランティアになるようなので、これくらいの恩恵は受けても咎められないと思いたい。ね、神様?
書類を集めながら、とりあえず提出期日ごとに仕分けをしてみることにした。
一番期日が早いのは、次の水曜の6月5日から三日間だけ実施される「事前審査」に必要な書類だ。
そもそも都知事選に立候補するには、あらかじめ選挙管理委員会に連絡して必要な書類を受け取り、選挙初日の「告示日」である6月20日に都庁に届出を出す必要があるという。
ただその書類の量が膨大にあるため、告示日当日に円滑に手続きが進むように任意で行われるのが「事前審査」だ。
ここまではネットで調べることができた。
だが、その書類の中身はというとネット上にはあまり情報がなく、今ここで初めて目にしたものばかりである。
そのうちの一枚に触れ、思わず指先が震えた。
【供託書】。
選挙の立候補は、無料でできるわけじゃない。
売名行為防止などの目的であらかじめ供託金を預ける必要があり、ある程度票数を獲得できなかった場合は没収となる。
都知事選の場合は300万。
没収ラインは、有効投票数の10分の1。
具体的に言うと、前回の都知事選の投票率が55パーセントだったので、有効投票数はおよそ620万。その10分の1だから、62万票がボーダーラインとなった。
候補者22人のうち、そのラインを越えられたのは実はたったの3人である。
残る19人は惜しくも返金ならず……というわけではない。
19人中17人は5万票以下だ。
それだけ都知事選とは無名の新人にとって厳しい戦いなのだ。
「供託金、本当に払うの?」
聞かずにはいられなかった。
彼女は京大に進学したほど賢い人である。
俺なんかより数十倍は頭の出来が良いはずで、こんな単純計算はとうの昔に終えているはずだ。
現実的に考えて、300万は返ってこない。
彼女がどれだけ魅力的な人であっても、組織力のある大物政治家たちを相手に60万票も獲得するなんて夢のまた夢。
……それでも。
「払うよ」
豊島さんは一瞬も迷うことなくそう答えた。
どうやら意思は堅いらしい。
しかし、どうやって300万なんて大金を用意するのだろう。
人から借りるつもりだろうか。
まさか、俺!?
いやいやちょっと待ってくれ、確かこの前口座を確認したら100万切ろうとしててそろそろ節約しなきゃなと思ってたんだ。
一人暮らしのオタ活ライフだとつい際限なく浪費してしまう。
結婚の予定も無いから貯める気もないし……あ、結婚?
俺はふと玄関のゴミ袋に詰まった元彼の痕跡を見やる。
何を考えているのか察したのか、彼女はニッと微笑んだ。
いつも純粋無垢な彼女の表情に、ほんの少しだけ陰が差していた。
「お金のことは心配しなくていいよ。こつこつ貯めてたお金でなんとかなりそうだから」
「そ、そうですか」
「だからこの書類は自分で準備するね。中野くんには、他の書類の記入を手伝ってもらいたくて」
「あ……あのさ!」
声を張り上げた俺を見て、彼女は「ん?」と首を傾げる。
こぼれそうなほど大きな瞳に、控えめにカールしたまつ毛。
歳を重ねてもシミひとつない綺麗な肌。
同じ選挙に出るならアイドルの選挙に出た方がよっぽど票を取れそうな美人。
そんな彼女が、半同棲するような彼氏がいて、結婚資金まで貯めていたのに……なぜ。
「ちゃんと聞いてなかったけど、豊島さんってなんで都知事選に出るの?」
今度はすぐに返事が返ってこなかった。
彼女は「んー」と天井を仰ぎ、ほんの少し考えるような素振りを見せた。
もしかして、たいして理由はなくて今考えているのだろうか。
「まさかとは思うけど、彼氏と破局した腹いせで勢いのままに立候補を決めた、とか?」
おそるおそる尋ねると、彼女はぷっと吹き出した。
「違う違う。そんなんじゃないよ」
「じゃあ、何?」
「えっとね、これは……そうだね」
彼女は部屋をきょろきょろ見回していたかと思うと、目的のものを見つけたようですっと立ち上がった。
何をする気だ?
彼女が向かったのは本棚。
そこから取り出したのは、高校時代の卒業アルバム。
厚紙のケースから取り出すと、彼女は眉間に皺を寄せながらぱらぱらとページをめくり、一人納得したように深く頷いた。
「これはね、青春のやりなおし!」
そう言ったかと思うと、彼女はアルバムをびりびり破き始める。
それはもう、とても晴れやかな笑顔で。
生徒や先生の顔が写っていても、容赦なくびりびりにしていった。
なんという不謹慎。
だけど……なぜか綺麗だった。
舞い落ちるアルバムの破片は、さながら舞台の上のスターを輝かせる花吹雪である。
ああ、また散らかる。
頭の片隅でそんなことを思いながらも、俺はただ茫然と彼女の姿を見つめることしかできなかった。
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