第2話 わたしを都庁に連れてって


 ごふっ!

 飲みかけのアイスコーヒーが変なところに入り、むせそうになったので口元を押さえる。

 鼻からつうと黒い液体が垂れてくるのを感じたが、勢い余って向かいに噴き出さなかっただけ偉いと思っていただきたい。


「だ、大丈夫?」


 バッグからハンカチを取り出す彼女。

 大丈夫じゃない。

 大丈夫じゃない、が。

 もっと大丈夫じゃないのは彼女の方だ。


「都知事選って……まさか、冗談だよね」


 ハンカチは遠慮して、紙ナプキンで鼻を拭いながら尋ねる。

 すると彼女はふるふると首を横に振った。


「冗談じゃないよ。わたし、本気」

「本当に……?」

「うん、ほんとだよ」


 きらきらと強い光をたたえた黒目の大きな瞳に嘘はない。

 そうだった。

 彼女、豊島直央としまなおはこういう人だった。

 だんだん記憶が蘇ってくる。

 入学したての頃に運動音痴向けの同好会「ラジオ体操部」なるものを結成したり、「冬にストッキングを履く権利」を訴えるために生徒会選挙に立候補したり、「学園祭の時の校長挨拶を三十秒に収めるルール」なるものを作ったり……。

 こうしたら良くなる、と思ったものにとにかくまっすぐで、即行動。

 少し変わり者ではあるが、善意に溢れる彼女の周りにはいつも人が集まっていた。


 彼女のような人が組織のトップに立つこと自体はさほど違和感はない。

 だが、それにしても都知事選とは。


 現職・池上清恵いけがみきよえの任期満了により、一ヶ月後の六月二十日から選挙期間が始まる東京都知事選。

 池上は三期連続で務めたが、どうやら次の衆議院議員選挙で国政への最後の挑戦のため、都知事選にはもう出ないつもりらしい。

 それゆえ我こそはと続々と立候補者が集まっており、その数すでにという。


 最も有力視されているのは、ベテラン政治家の万願寺まんがんじだろう。元大手銀行員、元衆議院議員、元防衛大臣……と経歴だけ見れば都知事の座を飾るのに十分な人物だ。しかし万願寺といえばカネにまつわるトラブルや疑惑が多々あり、コワモテなこともあってダーティーな印象がなかなか拭えない。


 対抗馬は、新進気鋭の元町長・若林である。彼はまだ四十代と若く、もとエリートサラリーマンのノウハウを活かして地元・北海道での農業のIT化を始めとするさまざまな改革を行なってきた。ただし、やや感情的になりやすい面があり、たびたびその言動が悪い意味で話題になる男である。


 その他にも各政党が立てたタレントや著名人、宗教団体の押し上げ候補、都知事選常連の泡沫候補、YouTuber、港区女子、経歴不明の謎のニコニコおじさん、エトセトラ。

 イロモノ揃いの顔ぶれで、ネット上ではこんな風に揶揄されていた。


〈もはや妖怪大戦争www〉

〈消去法でしか選べない〉

〈↑そしたら誰も残らなくない?〉

〈これは、都民に対する罰ゲーム〉


 そんな激戦、あるいは蠱毒の壺に自ら飛び込もうとする人が身近に現れるとは、思ってもみなかった。


「それで、中野くんにお願いがあるんだけど」


 彼女は肩をすぼめながら上目遣いで俺を見る。

 はいはい、分かってますよ。


「立候補したら投票してってことでしょ? うんいいよ、応援するよ」


 別に俺はさして政治にこだわりはない。というか興味がない。

 どうでもいい候補に渋々投じるくらいなら、掲げる政策がなんであれ顔見知りの同級生に一票入れた方がよほど価値がある。本心からそう思っている。

 ただし、だ。


「まさかとは思うけど、同級生全員にこうやって会ってるわけ?」


 俺は俯きながらコーヒーを啜った。

 まあ、そうでなければ俺なんかに会おうとは思わないだろう。

 なんて健気な草の根活動。涙ぐましい努力。

 しかし、それでも無謀すぎると、頭の片隅でほんの少し軽蔑する俺がいる。

 東京都の人口はおよそ一千四百万人だ。

 高校の同級生はたったの三百人。そこに彼女がこれまで出会った東京の人々を足したとしても、一パーセントにすら届かない。

 京大に行った成績優秀な彼女がそんな単純計算をしそびれているなんて、思いたくはなかったが……。


 ふと顔を上げると、彼女がいなくなっていた。

 あれ、どこに行った?

 辺りを見渡すと、レジのそばに作られた一角にいるのを見つけた。何かを手に取ってすぐに戻ってくる。


「中野くん、ミルクいる? なんかコーヒー飲む時、眉間に皺寄ってるから」


 えーーーー、優しい〜〜〜〜〜〜。

 これ、もしかして献金までお願いされちゃうパターン?

 どうする。今の俺なら喜んで財布の紐を緩めちゃうぞ。普段は推しのためにしか使わないのに。


「で、さっきの話だけどね」

「うん。いくらいる?」


 彼女は困ったような表情で首を横に振った。


「中野くん、さっきから何か勘違いしてないかな。わたし、別に投票やお金の支援をお願いしたいわけじゃないよ」

「そうなの?」

「それに、他の同級生にも会ってないし」

「え……は!?」


 思わず声が裏返って、周囲の客が一瞬こちらをチラリと見てきた。

 他の同級生に会ってないって、どういうことだよ。

 それって俺にしか会ってないってこと?

 三百人いる同級生の中で、俺だけを選んで……。

 いかん、動揺で頭がうまく回らない。


「中野くんにお願いしたいのは、選挙活動の手伝いなの」

「手伝い? 何で」

「だってほら、自己紹介の時に『総選挙に命賭けてる』って話してなかったっけ?」

「え? あ、ああああっ……!」


 瞬間湯沸かし器もびっくりの勢いで俺の頭から湯気が噴き出した。

 それは政治の選挙じゃなくて、アイドルの総選挙!

 当時まだ一般認知されてなかったせいでアイドルのって伝わらなくて、政治ガチ勢と思われてダダ滑りしたやつ!

 俺の高校生活が灰色になるきっかけを作った入学初日の自己紹介!


 当の本人ですら忘れかけていたのに、まさか彼女が覚えているなんて。

 十数年の月日で風化し始めていたはずの黒歴史の箱がおもむろに開くのを感じる。

 やめてくれ。これ以上は、俺のライフにダイレクトアタックだ。

 本能的逃走心に駆られ、俺は無意識のうちに立ち上がっていた。

 ワスレテクダサイ。

 そう言い残して、足早に去ろうとする。


 しかし。


「中野くんしか、頼れる人がいないんだ」


 その言葉に、足が根を張ったように動かなくなった。

 ああ、我ながらなんてチョロい。

 冷静に考えて、選挙の手伝いなんてできるわけがないのに。

 普段政治のニュースなんてまったく見てなくて、自分の国の内閣がどういう顔ぶれなのかすら把握していない。

 選挙だって、いつも他人事だ。

 誰が立候補しているのか調べるのが面倒で、だいたい名前を知ってる無難な候補に入れることが多いし、ここ最近はそれすらも億劫でスルーした選挙がいくつかある。

 そんな俺が、選挙の手伝いなんて。


「正直に言うとね、まともな選挙事務所を設置するお金の余裕はないんだ」


 ええい聞くな聞くな。情に訴えようったって、そうは問屋が


「だから、わたしの家を事務所にして、そこに来てもらうことが多くなると思うんだけど」


「やります」


 考える前に、口が滑っていた。

 まあ、だって仕方ないじゃないか。

 俺は昔から頑張る女の子には弱いのだ。


 決して見え透いた下心のためではない。……ないはずだ。


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