東京都知事物語
乙島紅
第1話 同級生、十数年ぶりの連絡。何も起きないわけがなく……
もしも、十数年会っていない高校の同級生から突然、
「ちょっと会って話さない」
なんて連絡が来たら。
絶対、絶対期待することなかれ。
こういうケースは大概、保険営業、ネットワークビジネス、あるいは宗教勧誘と相場が決まっているのだ。
最善策は未読スルー。
つい手が滑って誤って開いてしまったのなら仕方ない、永遠に虚偽の予定あり申告でのらりくらりとはぐらかすべきだろう。
間違っても会ってはいけない。
繰り返す、会ってはいけない。
たとえその相手が、結婚適齢期の異性であっても。
そして高校時代、斜め斜め後ろの席からそっと見つめていた、憧れの人であっても。
カラン。
溶け始めた氷が、コーヒーのたっぷり入った細いグラスの中をくるりと回る。
待ち合わせ時刻十五分前。少々早く着きすぎた。
駅前の大通りに面した開放的なウインドウを見やれば、シミひとつない白のポロシャツと小綺麗なジャケットを羽織った自分が映っている。
誰だこれ。
休日といえば三シーズン目のユニクロのスウェット姿でカーテンすら開けずに自宅警備をしているのが常の男とは、とても同一人物には思えない。
いやいや、これは最低限の武装だ。相手に舐められないための。
俺はキリリと表情を引き締めると、新卒入社式ぶりにワックスをつけた髪を整える。
ヒゲは……大丈夫。剃り残しはない。
見た目は大事だ。人は見た目で八割を判断し、無意識のうちに相手に階級をつける。一度つけられた階級の壁を乗り越えるのはそうそう容易ではないことを、俺は高校時代に痛いほど学んでいる。
だからまずは第一印象で、彼女の中にぼんやり燻っているであろう「冴えないその他クラスメートA」という印象をぶち壊す。
言っておくが、久しぶりに会う同級生にちょっとでもよく思われたいとか、そういう下心からくるものではない。決して。
そしてまだ作戦はある。
地の利をひっくり返すのだ。
そもそも地の利とは?
彼女が待ち合わせ場所に指定したここは、この手の営業・勧誘が常態的に行われていると噂のチェーンのカフェである。
なぜここが悲劇の温床となるか。俺は一つの仮説を立てた。
それは、初見殺しのオーダーシステムだ。
見慣れないメニュー名の羅列、スタッフ間で飛び交う呪文。
そして極めつけは「S」と「T」だ。あの見知らぬサイズ表記がマックに馴染んだ庶民を混乱させる。
万が一にも間違って「S」を「スモール」なんて読んでみろ。
店じゅうから失笑が聞こえてきて、生涯ルノアール以外のカフェチェーンに通えない身体になってしまう。
最近はモバイルオーダーなんかも浸透して、滅多にカフェを訪れない人間にとってはますます異国の地と化しているように思う。
そんな緊張と居心地の悪さで増した不安に、すかさずつけこむ。
それがきっと、ここを根城とする奴らのやり口だと俺は踏んだ。
だから、地の利を逆転させるとっておきの切り札を用意してある。
それは欠けたリンゴを奉じる白銀の神器――そう、MacBookである。
これでどこをどう見ても「カフェでメールチェックするIT系サラリーマン」だ。
もはや内装の一部と化している彼ら以上に地の利を制する者はいない。
MacBookを開いておけば、顔の下半分を覆い隠すこともできる。一石二鳥だ。
今なら背伸びして頼んだブラックの苦さに歪んだ口元を見られることもあるまい。
あの、ミルクと砂糖はどこにあるんですかね……?
五分前。
まだ来る気配はない。
俺はスマホで彼女との連絡履歴を確認する。
開いたのはLINEではなくメールアプリ。
そう。今どき珍しく、彼女はメールで連絡してきた。
それも携帯会社との最初の契約時に発行した、初代ガラケーの時から一度も変えていない、
当時好きだったアイドルソングのタイトルの一部が入っていて、自己紹介も兼ねていたのに、結局誰からも必要とされなかったメールアドレス。
高校三年間で、唯一「メアド教えて」と言ってきたのが彼女だった。
けれど、その後一度も連絡が来ず、卒業以来会うこともなく……。
十数年経って初めて届いたメールが、「ちょっと会って話さない」だった。
いったい、何を今さら。
彼女からメールが来るかもと、毎日そわそわして過ごしていた純真な俺はもういない。
彼女がメアドを聞いてきたのはリア充様の気まぐれであり、か弱い非リアの心を弄ぶためのただの悪戯だったのだと、そう思うことでしか正気を保つことができなかった。
だから今さら連絡をもらっても、正直困る。
そうはっきり突き返せば良かったのに。
……なんでここにいるんだ、俺。
その時、スマホが通知に震えた。
〈もうすぐ着きます〉
メールフォルダに追加された短いメッセージに、俺は慌てて返信する。
〈もう店内にいます。窓際の、白いポロシャツの〉
そこまで打ったところで、送信ボタンを押す必要はなくなった。
「中野くん? 高校の時と全然変わらないね!」
目の前に突然大輪の白い紫陽花が咲いたみたいだった。
ふわりと軽い生地のトップスに、ライトグリーンのスラッとしたパンツスタイル。爽やかな色合いの着こなしに、えくぼの浮かぶ無垢な微笑み。薄桃色の唇の下からのぞく白い歯にはもう銀の矯正器具はついていなくて、それだけが時の流れを感じさせた。
彼女こそ、高校の時と変わっていない。
三十歳になってもどこかあどけなくて、すれてもくすんでもいなくて。全身から発せられる善人のオーラが、俺みたいな人間をちょっぴりみじめにさせるところまで。
喉が急にカラカラに乾いて、どくんどくんと心臓が音を立てる。
ジャケットの内側にじっとりと汗が滲んでくるのを感じた。
俺が黙っているので彼女も人違いだったかと不安になり始めたらしい。整った眉がハの字に曲がり始める。
しっかりしろ、
「と、
なんとか絞り出して、彼女の名前を呼んだ。
すると即座に小首を傾げた微笑みのコールアンドレスポンス。
こりゃかないませんわ。
心の中の俺が白旗をあげた。
ちくしょう、カモにするなりノルマをこなすなりお好きにどうぞ。
肩のところでくるりとウェーブする栗色の髪を耳にかけながら、彼女は俺の向かいの席にふわりと座った。持ってきたドリンクは抹茶のフラペチーノ。
「突然連絡してごめんね。おどろいた?」
「ま、まあ……」
目を逸らしながら、無意識のうちに彼女の左手を盗み見る。
指輪、ないな。
「それで、話したいことって何?」
俺は彼女と目を合わせないまま尋ねた。
良いですか、俺たちはもう三十歳の社会人です。
余暇の時間の過ごし方にはある程度ルーティーンができており、それを乱されることはそこそこにストレスなのです。
たとえあなたが学生時代は高嶺の花で、俺がカースト底辺のその他クラスメートAだったとしても、この歳になれば相手のルーティーンに割り込もうとする方が下手に出なければならないのです。
俺には本来、休日は推しのVTuberの動画をチェックし、推しが好きなものをチェックし、イベントがあればグッズ購入のため開場二時間前には並ぶという大切な任務があるのです。
今日はたまたま推しが炎上による活動自粛中で暇だったからであって、普段からあなたに声をかけられたらすぐ馳せ参じるような男ではないのです。
……というメッセージを精一杯態度に込めている。
やっぱり、舐められたくなかった。
素直な彼女は俺のメッセージを額面どおりに受け取ったようだ。
少し気まずそうな表情を浮かべて、「忙しい中ありがとう」なんて前置きをしながら、
「それじゃ、単刀直入に言うけど」
と、トートバッグの中を漁る。
取り出したのは一枚の書類だ。
はいはいはいはい、来ましたよ。
ここまでテンプレどおりだといっそ清々しいな。
ただ、ちょっぴり興醒めだ。
彼女みたいに青春を毎日キラキラ過ごしていた人でも、社会の荒波に揉まれるうちにつまらない大人になってしまうのか。
……と、思いきや。
テーブルの上に出された書類、そこに書かれている文字を見て俺は目を見張った。
「立候補、届出書……?」
たどたどしく読み上げると、彼女は力強く頷いた。
「うん。私ね、今度の都知事選に出馬しようと思うんだ」
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