032 『弱小領主のダメ息子、領内調査に向かう(5)』

 フレールの泉は山間部にあるため、三人は馬をふもとに残して徒歩で目指すことになった。

 

「……おーい、お前ら、ちょっとペースが早いぞ……」

 

 軽やかな足取りでズンズンと山を登っていくヤンアルとミキの後方でベルが情けない声を上げた。

 

「大丈夫か、ベル。手を引いてやろう」

「す、すまない。ヤンアル」

 

 ヤンアルが差し伸べた手をベルが取ろうとした時、ミキの喝が飛ぶ。

 

「ヤンアル。あまりベルを甘やかしてはダメだ」

「しかし……」

「人は助け合うものだぞ。なんてことを言うんだ、ミキ!」

「ベル。女性に手を引いてもらって恥ずかしいとは思わないのか?」

「う……、それは…………思う」

 

 ベルが素直に白状すると、ミキは満足そうにうなずいた。

 

「ベル、ゆっくりでも良い。自分の力でやり遂げることが大切なんだ。その上でつまずいた時は俺たちが手助けをする。さあ行こう、ヤンアル」

「……すまない、ベル」

 

 後ろ髪を引かれる様子でヤンアルはミキの後を追って行った。一人残されたベルは額の汗を拭ってなんとか次の一歩を踏み出す。

 

「……幸運値じゃなくて身体能力を上げるバフを掛けてもらうべきだったな……」

 

 

              ◇

 

 

————途中で拾った樹の枝を杖代わりにして斜面を登り切った先には、海と見紛みまがうほどの水源が視界いっぱいに広がっていた。

 

「……おお、これがフレールの泉か。泉というより湖のようだな……‼︎」

 

 汗まみれの顔に感動の表情を貼り付けたベルが思わず口を開くと、

 

「お疲れさん。ホラ、喉が乾いただろう」

 

 先に到着していたミキが皮の水筒を渡してくれた。急いで水筒の中身を喉に流し込むと、この世のものとは思えない格別な味が乾いた全身に染み渡った。

 

「————美味い……! これがカディナの名水か……!」

「フ……。確かに美味い水だがそれだけじゃない。お前が自分の力だけで登り切ったからこそさらに美味く感じるんだ。こういうのも悪くないだろ?」

「……そうだな。たまには悪くないかもな」

 

 ベルは照れ臭そうに水筒を投げ返し、改めて泉に眼を向けた。

 

 透き通るような湖面には其処彼処そこかしこに水蓮の花と葉が浮かんでおり、大層幻想的な雰囲気である。それはまるで、絵画の中に紛れ込んでしまったかと錯覚させられるほどであった。

 

「————ミキ」

「ん? どうした?」

「……この景色もそうだな。自分の脚で登り、自分の眼で見たからこそ、心が揺さぶられる」

 

 そう話すベルの表情は真顔に近いものであったが、その眼はしっかりと湖面を捉えて離さない。ミキは無言で笑みを浮かべた。

 

「————ベル、ミキ」

 

 その時、姿の見えなかったヤンアルが戻ってきた。

 

「ヤンアル。どこに行っていたんだ?」

「ヤンアルには先に泉の周りを見てもらっていたんだ。どうだった?」

「うん、とりあえず一周してみたが私たちの他には誰もいなかった」

「そうか、ありがとう。しかし、そうなるとさほど人気があるスポットじゃないのか。失踪事件とは関係がないのか……?」

「いや、人がいた形跡はあったが、逆にあるべきものが見当たらなかった。それが不思議だ」

『…………?』

 

 ヤンアルの言葉の意味が分からず、ベルとミキは同時に首を傾げた。

 

「どういうことだい? ヤンアル」

「いろんなところに男女のものと思われる足跡や焚き火の跡もあったが、人の出すゴミがまるで無かった。おかしいと思わないか?」

「言われてみれば確かに……。ガラテーアもそうだが、人の集まるところにはどうしてもゴミが出るよな」

「自分たちで持ち帰ったり、管理人が片付けたとかじゃないのか?」

 

 ベルの意見にミキが首を振る。

 

「いや、ここは管理人はいないようだし、そもそも焚き火跡を残していくような奴らはゴミも片付けないことが多い」

「さすが山籠りが趣味なだけあるな、ミキ。となると、消えた人間とその持ち物は…………」

 

 三人はゆっくりと泉へと眼を向けた。先ほどまではあれほど美しかった湖面が、今は何やら不気味な雰囲気を醸し出しているかのように感じられる。

 

「……なあ、なんか急にヤバい雰囲気を感じるんだが、俺の気のせいか……?」

「安心しろ、ベル。俺もしっかりと感じている……!」

「突然『氣』の流れが変わった。ベル、私の後ろへ」

「『キ』って?」

 

 聞き慣れない単語にベルが訊き返した時、穏やかだった湖面が徐々に波打ち始めた。

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