第51話 幸福と空腹




 車窓から見える山間部の景色は、薄紫に彩られている。遠目でわかりにくいが、おそらくは菊の花だ。あんなに咲き誇っているのは初めて見たから、俺は窓縁に肘をついて感嘆の息を吐いた。


 汽笛が、轟く。


 俺は汽車に乗っていた。もちろん観光や旅行をするためではなくて、リスケジュールしていた二階堂大佐との会談へ向うためだ。


 赤い高級ソファが、柔らかく沈む。


 隣に座っていた椿が、身を乗り出してきたからだ。


「綺麗な景色ですね」


 感動した様子で目を輝かせる椿。間近に迫った横顔は人形のように綺麗で、絹のような長い髪が俺の指先に触れた。華やかな香りがして、心臓の鼓動が少しだけ速まる。


「ここら辺って観光地らしいにゃんよ。合衆国でも菊の花って人気らしいからね〜。……パンフレットには、品種改良された珍しい品種が植えられているって書かれてたにゃ」


 向かいに座っていたリリーが、みかんの皮を剥きながら言った。ワクワクというオノマトペがついていそうなほどに楽しげな表情で、細い足をパタつかせている。


「あげるにゃ」


「……ああ、ありがとう」


 リリーから渡された一片のみかんを受け取って、口に放り込む。甘い。ほどよい酸味がアクセントになっている。


「いやあ、まさか移動用のゲートが一部使えなくなっているにゃんてね。ゲートがあればすぐにフィーリアに行けたのにさ」


「そうだな。本当に突然、こんなことになったからな」


 リリーの言う通り、ゲートの転送に一部制限がかかるようになっていた。具体的には拠点から拠点への転送が不可能となっている。これもワールドストーリーが展開された影響だろう。


 もともとゲートは合衆国軍のメンターたち以外には使用できないから、流通や交通などに大きな影響が出ているわけではないが、軍にとってはかなりの痛手である。移動が全部、交通に頼らざるをえなくなったからだ。通信や連携上の問題で、どうしたって遅れが出てしまうから。


「不便だけど、まあリリー的には得したにゃんね。おかげで一等車の個室で優雅に旅行が楽しめるんだから。いやあ、最高にゃ!」


 リリーが口にみかんを放る。


「……お前、わかっているか? 遊びに行くわけじゃないんだぞ」


「もちろん! 綺麗なお姉さんに会いに行くんだもんね。どうりでメンターも浮かれているわけだにゃ」


「アホか。相手は上官なんだぞ?」


 ニヤニヤと笑うリリーに、溜息をつきながらそう返した。わかってはいたけど、ここぞとばかりに煽ろうとしてくるからなあ。俺は乗らないけど椿がなあ……。と思っていたら、椿がかなり強い力で俺の手を握ってきた。痛い。めっちゃ痛い。


「……浮気はダメですからね?」


「浮気なんかしないって」


 痛い痛い痛い痛い……。


「本当ですか? 約束できますか? 三秒以上見つめたり一瞬でも触れたりしたらダメですよ? わかっていますね?」


「わかった! わかったから! 約束するからそろそろ離してくれ! 手がつぶれる!」


 ようやく椿が手を離してくれた。赤くなった手をさすっていると、愉悦に満ちた笑みを浮かべるリリーと目が合った。このピンク猫……だから連れてきたくなかったんだ本当は。


 今回、補佐官の椿だけじゃなくてリリーを連れてきたのには理由がある。とは言ってもそんな大層なことではない。猫族狂いの誰かさんが、うちのリリーに会いたがったからだ。「そういえば貴様の拠点にはりりにゃんがいるんだってな! プリストでの私の最推しなんだ! ぜひ連れてきてくれぃ!」と限界オタク特有の押しの強さに負けて、連れてこざるをえなくなった。あの猫族狂い……余計なことを言いやがって。


 一応ネタ枠とはいえ上官の命令ではあるので、下っ端の俺は従うしかないのである。おかげで、何するかわからん愉悦少女と病み病み少女を引き連れた珍道中となってしまった。まだ拠点についてすらいないのに、もう頭が痛い。


「……はぁ」


「にゃはは、でっかい溜息だにゃんねえ」


「誰のせいだ、誰の。……いいか? フィーリアについたら絶対に変なことをするなよ? 先方に迷惑をかけることだけは許さないからな」


「わかってるよ〜ん。そこら辺はちゃんとするにゃあ」


 リリーはヘラヘラ笑いながらそう口にした。るんるんと肩を揺らしながら歌を口ずさむ。上機嫌だな……本当にわかっているのだろうか。


「……あのメンター。今回はいったいどのようなご用件で呼び出されたのでしょうか? もしかして」


「ああ、ネコヤナギのことではないよ。最近のマップの難易度上昇についてや、上級エキドナと遭遇した件について情報共有をおこなうのが目的だ」


 ……って、これは出発前に説明していたはずなんだけどな。


 そう思って椿を見ると、彼女の表情は懸念を抱えているかのように少しだけ曇っていた。


 ああ、そういうことか……そうだよな。


 俺は椿の手をとって、微笑みかける。


「大丈夫だよ。椿が心配するようなことなんか何もないからさ。俺はあの人にそういう興味は一切ないし、それはあの人も同じだよ」


「……」


「……信じてもらえないかな?」


 誠意を込めて伝えたつもりだが、椿は目を伏せたままで口を閉ざしていた。もっとちゃんとした誠意を見せたいところだが、それは二階堂大佐との用件が終わってからだ。


 俺は椿を見つめ続けた。


 ごめんな。ちゃんと、この後に伝えるからさ。


「……ふぅん」


 リリーが、俺たちを見ながら意味深な声をこぼした。ニヤつきが一層深くなる。


 汽笛が、再び音を立てた。


 リリーは最後のみかんの欠片を放り込むと、皮を窓際に置いて。


「……ねえねえ、気になっていたんだけどさ」


「なんだよ?」


「んー? メンターって、椿姉と付き合ってるの? 責任を取るって言ったって訊いたんだけどにゃ」


「……」


 やっぱり訊いてきたな。いつか必ずこういう逃げられない状況のときに、確信に迫るようなことを訊いてくると思っていた。


 椿の肩がびくりと震える。触れていた椿の手に、力が入った。呼吸が少し浅くなったのは気の所為ではない。


 リリー。こいつは本当にいい性格をしてやがる。


 だが――。


「ああ」


 俺はリリーを真っすぐに見ながら、微笑みかける。


「そうだよ。ちゃんと言ってなかったな」


 沈黙が降りた。


 ガタリ、と汽車が揺れた。リリーがきょとんとした表情でまばたきを繰り返す。認めると思ってもいなかったのだろうな。本当に、心からびっくりしているようだ。


「――え?」


 椿が顔を上げて、俺を凝視していた。赤い瞳には俺の顔が映っていて、ゆっくりと揺れ動いていく。


 口元に手を当てて、椿が信じられないと言ったような顔をした。


「……いま、なんて」


 本当は、今日の終わりに全部伝えるつもりだったんだけどなあ。三割……いや五割くらいとはいえ、言ってしまったな。


 ピンク猫め。サプライズが台無しじゃないか。


「付き合っているって言ったんだよ、椿。責任を取るって言っておいて、ちゃんとハッキリ口にしてなかったからな」


「……」


「スノーにも注意されたんだ。椿の気持ちにちゃんと応えてやれって。……不安にさせてしまっていたよな、ああやって言ったのに俺が半端に示していなかったから。本当にごめんな」


「……」


「……椿?」


「…………嘘」


 溢れた声には、百色の色鉛筆よりも色彩豊かな感情が含まれていて。


 まるで夢にまで見た宝物を目の前にしたときのような、会いたいと乞い願っていた人物と再会したときのような。そんな、信じられないほどの感動に圧倒されて言葉が出なくなっているような感じだった。


 俺は気恥ずかしさとともに、後ろ暗さを覚えてしまう。


 これほどに想われているのに、俺はずっと応えていなかったのだ。数字上で分かっていたくせに、こうして反応を目の当たりにして、はじめてその好意の深さを本当の意味で実感できたんだ。


 俺は、本当に罪深い。


 応えてもなお、そう思う。


 だって俺は――俺には……。


「……嘘ですよね? 私は、夢を見ているのですか?」


「……夢でも嘘でもないさ」


 そう、これは現実で。時間は流れて止まらず進み続ける。


 椿が、俺の肩に頭を寄せた。


 震えている。声もなく泣いている。


「……嬉しい」


「……」


「……嬉しいです。まさかメンターから言ってもらえるなんて……」


「……」


 俺は何も言わず、何も言えず、椿の頭を撫でた。


 ちくちくと痛む心に蓋をして。


 汽車の振動は、まるで揺りかごのように優しかった。俺たちは寄り添い合う。様々な情念をその腹の中に抱えたまま。


 リリーが溜息をついた。


 失望に濁った深く暗い瞳を窓に向けて。


「……お腹すいたにゃ」

 


 













 ――だから、面白くしないと。


 


 

 





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