第50話 アイスは溶けてゆく



「あ、メンターじゃねえか」


「……よう」


 夜も大分更けてきたころ、俺は食堂でスノーと鉢合わせた。


「てめえがこの時間に食堂にいるなんて珍しいじゃねえか。……なんだ、腹でも減ったんか?」


「まあ、そんなところだ」


「……ふうん」


 スノーは厨房に入ると、冷凍庫を開いた。ゴソゴソと中を探り、チョコッキーというこの世界のアイスを二本引っ張り出す。


 こんな時間に二本も食べるんだな。


 デリカシーのないことをつい考えていると、スノーがぶっきらぼうに俺の方へ一本差し出してきた。まばたきをする。まばたきをした。


 え? まさかくれるの?


「……んっ」


 俺から反応がなかったからか、スノーは眉毛を寄せて小さく喉を鳴らした。赤い瞳が、こちらを見てくる。


「あ、ああ。ありがとう」


 俺は受け取って、袋を開けた。


「意外とすぐに溶けるからさっさと食えよ。床汚したら面倒くせえし」


「……うん。美味しいな」


 チョコ味の普通のアイスだが、スノーがくれたと思うとなんか感慨深い。


「だろ? 俺のイチオシだ。アイスはこれ一択って心に決めてるくらいだからな」


「そうなんだな。これしか食べないのか?」


「おう。昔から浮気はしたことがねえ」


 スノーは袋を開けて、チョコッキーを口にする。常にいかついスノーの表情が、心なしか緩んだ気がした。いかにも豪快に齧りつきそうなのに、意外と小さく食べているのが少し可愛い。


 ちょっとからかってみたくなったが止めておく。蹴られても困るしな。


 しばし、俺たちは無言でアイスを味わった。厨房の電灯しかつけていなかったので、食堂は薄暗かった。冷蔵庫の駆動音とパチパチと何かが弾ける音が響いている。小さな羽虫が、電灯にぶつかっているのだろう。


 アイスを舐めながら、ふと思い出してテーブルを見遣る。ネコヤナギとココアを飲みながら本音で話し合ったことを。あのときの彼女は踏み込んだ気持ちを教えてくれたが、ひた隠しにせざるをえない秘密のせいで本音を話しきれてはいなかった。あのとき交わした言葉の端々に、彼女の苦悩が滲んでいることを改めて感じる。甘ったるいアイスにはほとんど残っていないはずのカカオの苦味が、少しだけど舌に触れた気がした。


「……てめえよ」


 スノーが、ふいに口火を切った。


「椿に言ったんだよな、責任を取るって」


「……そうだな」


 俺がそう答えると、スノーは「ふぅん」と感情のこもらない声で言って、アイスを舐めた。瞳は地面を向いている。なにを考えているのかは読み取れない。


 言葉は続かなかった。俺たちは再びアイスに集中する。小さく食べるスノーを眺めながら、俺はアイスをかじった。スノーの言葉どおりだ。アイスはすぐに柔らかくなり、口の中で溶けて消えた。


 俺は先に食べ終わった。


「……なあ、メンター」


「ん?」


「……お前、責任を取るってどうするつもりなんだよ? アイツの気持ち、ちゃんと分かってんのか?」


「分かっているよ」


 俺は言い淀むことなく、はっきりと口にする。


「もちろん分かっている。分かった上で、俺はそう言ったんだ。……たぶんお前、そう言ったんならちゃんと態度で示せよって言おうとしてくれたんだろ?」


 スノーの目がこちらに向いた。


「分かってんだな。そうだよ、なんか煮え切らない気がしたから説教してやろうと思ってたんだ。……その様子なら、吐いた言葉にけじめをつける覚悟はできたか?」


「……ああ」


 俺はゆっくりと頷いて、スノーの赤い瞳を真っすぐに見据えた。


「俺は椿にちゃんと伝えるよ。自分の気持ちも、これからどうしたいのかも、俺たちの関係についても」


「そうかい」


 スノーは小さく笑って、アイスを下ろした。


「いい目をしているじゃねえか。……ちったあ、男らしくなったかね」


「……そうだといいが」


「ははっ、来た頃のヘタレていた態度と比べりゃ雲泥の差だから安心しろ。……いいか? 吐いた言葉は飲み込めねえぞ? あいつがどういうやつかはてめえが一番分かっているはずだ」


「ああ」


 もちろん。百も千も承知だ。


 俺は曖昧さを保った地平に線を引こうとしている。曖昧さが消えないからこそ、より不安に襲われていた彼女のために。そして、俺自身がメンターとして前へ進むために。


 スノーは俺から目を離して、下を向いた。


 溶けたアイスが、一滴こぼれる。


「……祝福するよ、俺はな」


 心なしかその表情は嬉しそうで、寂しそうでもあった。


 そして、なぜだか申し訳なさそうにも見えた。気の所為だとは思えなくて、わずかに感じた違和感を無視せずに俺は尋ねた。


「……なにか言いたいことがあるんじゃないか?」


 スノーがはっとしたように俺を見て、自嘲的に笑う。


「……なんで分かんだよ。相変わらず気持ち悪いやつだな」


 悪態には力がない。


 俺は何も言わずにスノーを見つめた。逡巡をにおわせながら眉根を寄せている。なにを言おうとしているのかは何となく分かっていた。この子が誰よりも仲間思いであることは、もうとっくに知っているから。


 アイスが、まるで涙のように落ちていく。


「……椿のためだけじゃなく、ネコスケのためでもあるんだよな」


 ……そこまで分かってくれるんだな。


 やはりこの子は誰よりも周りを見ていて、誰よりも仲間のことを考えてくれている。


 なんて、優しい子なんだろうか。


「……たぶん、あいつを救えるのはてめえだけなんだと思う。俺には無理だ。どうしても割り切れねえし、そんな俺の言葉は届かないだろうからな」


「……」


「俺は、骸虫スキュラが憎い。どうしようもないくらいに、憎いんだ。てめえらと歩み寄れたからって憎しみが消えるわけじゃねえ……」


「……皆まで言わなくていい。分かっているよ」


 俺はスノーの肩に手を置いた。


 スノーの過去を思えば無理もない。スノーは、家族のように思っていた仲間を骸虫に皆殺しにされた。すべてを理不尽に奪われてしまったのだ。ネコヤナギが仲間であることは分かっていても、ネコヤナギがネコヤナギであることを理解していても、簡単に割り切れるわけがない。


 だが、それでも――シオンのこともあるのに、スノーは自分の気持ちに蓋をしてネコヤナギに寄り添ってくれていたんだ。


 そして、いまも。


 彼女はすべて分かった上で、俺に託そうとしている。


 俺が必要以上に罪悪感を抱え込まなくていいように、言い訳を作ろうとしてくれているんだ。


 スノーは肩に置かれた俺の手に、自分の手を寄せた。目をつむり厳かに頭を下げて。


 彼女は、言った。


「無理を承知で頼む。――どうかネコヤナギを、俺の大切な友達を救ってくれ。きっとお前にしかできない。お前にしか、あいつのこころを守ることはできないんだ」


 冷蔵庫の駆動音が、優しく沈黙をゆらす。アイスはもう溶けきって地面に落ちてしまっていた。チョコの染み付いた薄い棒切が、スノーの手の中で小刻みに揺れている。


 俺が触れているものは、俺が見ているものは、なによりも尊いものだ。そして、切なくなるくらいに美しい情念だった。すべてを奪ったものが、憎み続けてきたものが、こころを通わせたはずの友人と同じものだったとき――人がどんな想念を抱くのか。


 俺は、その中で究極に美しいものに触れている。


「……」


 スノーに、ここまで言わせてしまったんだ。


 俺は、より一層覚悟を決めないといけない。スノーの提案は、その前から俺がしようとしていたことは、とても残酷なことでもあるからだ。


 救うことで、新たに生まれるものもある。俺は最初から知ってしまっていて、スノーはきっと勘づいているのだろう。


 スノーは、俺の共犯者になろうとしてくれているんだ。


 間違いなく、ネコヤナギのイベントは俺が手を差し伸べることで終わりを迎える。それはつまり、ネコヤナギの感情を決定的なものにしてしまうということに他ならない。


 それでも――それでも、やらなければ。やらなければ、ネコヤナギは闇に沈みきり壊れかねない。


「……頭を上げてくれ」


 俺は、ゆっくりと告げる。


「心配しないでいい。俺は、最初からそうするつもりだったんだ。俺は絶対に仲間を見捨てない」


「……そうか」


「ああ。だから抱え込みすぎないでくれ。俺は、お前の優しい気持ちに救われているよ。本当にお前は」


 美しいな。


 俺はその言葉を飲み込んで、スノーに笑いかける。


「あ、でも……椿に頭を下げるときは一緒にお願いしようかな。おっかない目にあいそうだし」


 俺が冗談めかしてそう言うと、呆れたようにスノーは微笑んだ。


 溶けたアイスは、あとで掃除をしないといけない。床に溶けきったそれを見ながら、スノーは優しく悪態をついてきた。

 

「……やっぱヘタレだな、お前」 



 



 

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