第35話 尻尾は感情を表す



 ネコヤナギと話をした日の朝。


 俺は廊下を歩いていた。


 まぶたが少し重く、足も重い。あれから眠ることはできたけど、十分な睡眠を確保することはできなくて、そのつけを身体で味わうことになった。久しぶりの寝不足。ブラック企業に勤めていたときは寝れないことなんて珍しくもなんともなかったのに、眠れる今となってはわりとしんどく感じられた。


 あとで仮眠を取らないとな。


 そう思って欠伸をすると、隣にいた椿が話しかけてきた。


「眠そうですね、メンター」


「うん……。あまり眠れなくてさ」


「そうですか」


 にこにこと笑う椿。


 窓からこぼれる陽光が、すうっと陰った。雲の流れがはやい。そしてなぜか俺の心臓の鼓動も少しはやくなる。


「……えっと、椿さん?」


「はい、なんでしょう? 寝不足のメンターさん」


「なんか怒っているように見えるんだけど、俺の気の所為かな?」


「いいえ。私は怒ってなどいませんよ。別に怒るようなことなどありませんでしたから」


 にこにこしてるね。


 うん、怒っているよね。


「……あの」


「怒ってなどいません。別にメンターの寝不足の理由が、可愛い女の子と二人きりで遅くまで話していたことだとしても、私には何の関係もありませんから」


 やっぱり怒っているじゃないか。ていうか、なんとなく予想していたけど、やっぱり知られていたな……。


「なんというか……違うからな?」


「なにがでしょう?」


 笑顔が怖い。


「別にネコヤナギとは何ともないぞ? 椿が誤解するようなことなんてないからな。ただ、喧嘩した理由をヒアリングしていただけだし」


「ふうん……。ヒアリングしていただけなのに、女の子があんな真っ赤な顔をして廊下を走るのですか? いったい何を聞いたら、どんな質問をしたら、そんな顔をするのでしょう?」


「……」


 なぜか脇から冷たい汗が流れる。


 落ち着け俺。本当にやましいことなんてないだろ?


「……いや、本当に何もないんだって。俺はネコヤナギが喧嘩をふっかけた理由しか聞いてないし、ちょっと本音を語り合ったりはしたけども……それだけというか」


「本音? いったいなんの本音ですか?」


 かくん、とブリキのように小首をかしげる。呪の市松人形みたいな迫力があるのはなんなんだ……。


「……えっと」


 ビビりあがった俺はしどろもどろになりながら、ネコヤナギと話したことを言い訳……もとい説明した。


 ネコヤナギがスノードロップの才能に嫉妬をしていたこと、そのわだかまりを解消できず不満が爆発してしまったこと、そしてネコヤナギ自身もスノードロップに対して誤解があったこと。それゆえにすれ違い喧嘩に発展してしまったのだと。


 俺は傾聴しながら、そんなネコヤナギの気持ちに寄り添うように言葉をかけて諭しただけだ。


 説明を終えると、なぜか椿は深いふかい溜息をついた。


「……この女たらし」


 ネコヤナギと同じことを言われた。


 呆れたような憤慨しているような椿の鋭い眼差しは、まるで刃物みたいに俺を萎縮させる。


「気をつけてくださいと言ったはずです。メンターは本当、油断するとすぐにそういうことを無自覚にしちゃうんですから」


「……そんなこと言われても」


 俺はモニョモニョと言って、苦し紛れに言葉を重ねる。


「でも、必要なことだったと思うんだよ。誰かが向き合わないとネコヤナギたちは誤解し合ったままになってしまうだろ? それは人間関係にも悪影響を及ぼすことになるから、メンターとしては放っておけないというか」


 ええい、なんでこんな言い訳がましい言い方になるんだ。


 椿の瞳は冷たいままだった。何ともいたたまれない空気に廊下は包まれる。彼女はしばらく何も言わず、じっと俺を凝視してくる。瞬きすらしないし、瞳も暗い。


「……そう」


 椿が小さく言った。


「メンターはやはりお優しいんですよね。優しすぎて困るくらいです。普通、私たちアンサスのためにそこまでしてあげる人なんていませんもの」


「……そうなのか?」


「はい。私たちは人間ガーデニアンではありませんから。今回の件だって、普通の指揮官なら体罰を加えた上で牢屋に閉じ込めるでしょう。もっと厳しい方なら連帯責任で隊全員に罰を与えます」


 俺は思わず息を飲んだ。


 なんとなくわかっていたことではあるが、こうして椿から話を聞くと、自分の対応が他のメンターたちと比べていかに甘いのかを思い知る。俺たちが所属するのは軍隊なのだ。しかも、普通のそれとは掛け離れた特殊な関係性で構築された歪な軍隊。


 それはアンサスの位置づけがもたらす歪さで。こころを持ったものを「兵器」と定義することへの無理と矛盾が引き起こす、狂気にも似た砂のように脆い秩序で。二階堂大佐のやるせない表情を、机の上で握られた拳を、どうしても思い浮かべてしまう。


 人が兵器とみなされることが悪いのか、兵器が人の形をしていることが問題なのか。


 これらの命題テーゼは、これらの問題は、ゲームでもシナリオの根幹を成すものとしてプレイヤーに提示されてきたものだ。


 ゲームをしていたときも考えた。そして、彼女たちとこうして現実に触れ合って、その考えをさらに深めることができた。


 俺の結論はすでに出ていて。


 それは言うまでもなく、彼女たちに対する態度で示されている。


「……俺は甘いって言いたいのか?」


「はい」


 椿は即答する。


「ですが、その甘さがあなたの良さなんですよね。それに救われる子も居るのですから」


「……」


「だから、それを否定することはできません。他の子にまで向けてしまうのは正直、ちょっと……いやけっこう嫌ですけど……」


 椿はそう言って、困ったように笑う。


「……でも、忘れないでください。あなたのその優しさは、本来私たちがなかなか受け取ることができない人の温かさそのものなんです。それは、きっと毒にも薬にもなると思います」


「……毒にも薬にもなるか」


 俺にとっては普通の、当たり前の思いやりでしかないんだけどな。


 だけど、椿の言いたいこともわからなくはない。優しさは孤独を癒すが、だからこそそれを中々受けられないものにとっては劇薬になりかねない。


 俺が与えるものは大したものではない。だけど、彼女たちにとってはそうではないのかもしれない。


 本当に、歪んでいる。


 ――俺は間違えたことをしているのか?


 そうは思わない。目の前で寒さに震えるものに毛布をかけてあげることが、誤りであっていいわけがない。ネコヤナギにしたことが、エゴだとは思いたくなかった。

 

「……すみません。出過ぎたことを言いましたね」


 俺の沈んだ表情を見たせいか、椿が粛々と頭をさげた。


「いや、いいよ。気にしないでくれ。椿の意見もわからなくはない。俺にとっては何も特別なことをしていたつもりはないんだけどな」


「そう言えてしまうのが、あなたですよね……」


 椿は、柔らかく笑う。懐かしむような、何かを諦めているかのような、そんな曖昧な表情だった。


 窓の光が明るくなっていく。椿の整った顔が、悲しいくらいに優しい笑顔が、陽の光の温かさを孕んでいくように、微かな赤みを帯びていく。


「私はそんなあなたのことが……」


 そう椿が言いかけたときだった。


 背中に衝撃が走った。


「あたっ!」


 ――いきなりなんだ?


 背中を押さえて振り返ると、黄緑色のボブヘアーの猫耳少女が立っていた。ひび割れたままの赤縁眼鏡、そこから覗く琥珀色の瞳はあいかわらず眠そうに細められている。


 尻尾が、勢いよくブンブンと揺れていた。


「……ネコヤナギか。びっくりした」


「……」


「……ネコヤナギ?」


 なぜか返事がない。ネコヤナギは少し目を細め、俺たちをじっと見つめると、ブンブンと振るっていた尻尾をふわりと下ろした。


「おはよ〜。なんかボケッと突っ立っているのが見えたからつい驚かせたくなっちゃった〜」


「なんでだよ。普通に声をかけてくれたらいいのに」


「んにゃ〜、それじゃつまらないじゃん。ネコヤナギの流儀では、突っ立っているやつには普通の声かけは選択しないのだよ〜。だから叩いたんだよ〜」


「なに一つわからんのだが……」


「そりゃそうだろうねえ。適当に言ってるからね〜」


「……おい」


 ネコヤナギはヘラヘラと笑った。


 俺は呆れながらも、少し安堵していた。昨日はしおらしくシリアスな様子だったが、いつもの調子を取り戻してくれたようだ。ネコヤナギ自身が言ったとおり、少し話して楽になってくれたのだろうか。なら、いいんだけど……。


「ああ、ごめんね椿姉。話の邪魔をしてしまったみたいだよね〜?」


「……ううん」


 椿は、にっこりと笑う。


 その声は、とろけるほどに優しい響きがあった。


「……大丈夫よ。ちょっと大事な話をしていたけど、別に今じゃなくてもいいことだから」


「あ、そうなんだ〜?」


「ええ。私たちには、いつでも二人で話せる時間があるからね。ちょっと遮られたくらいなんでもないわ」


「……へ〜」


 再びネコヤナギの尻尾がぶんぶんと揺れ動いた。二人は微笑む。


 陽の光はいつの間にか薄くなり、そのせいか少しだけ空気が冷たくなった気がした。それなのになぜか汗が流れた。冷たい汗。


 つばを嚥下したのは、無意識だった。


「……それよりさ〜。昨日は話を聞いてくれてありがとうね〜。イケメンターが優しく聞いてくれたから、すごく話しやすくて安心したよ」


「……そうか。それは良かった」


「うん。イケメンターって、みんなに優しいよね〜。椿姉にも、私にも同じくらいさ」


 椿の目尻がぴくりと動いた。


 だけどそれはほんの一瞬で、水面に浮かんだ波紋が消えるように、すぐに朗らかな表情となる。


「……ええ。メンターはみんなに優しいわよね。そこが素敵なところだと思うわ」


「同意だね〜。椿姉と同じ意見で嬉しいなあ」


「私もよ」


「……」


 俺は乾いた笑みを零すしかなかった。


 この後、集会なんだけど……ちゃんと自分の考えていることを話せるだろうか。


 ……スノードロップと向き合うって言い辛いな。 


 揺れ動くネコヤナギの尻尾を見ながら、そう思った。

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