第34話 アイデンティティ




 

「勝手なことをしてすみませんでした」


 食堂について早々、ネコヤナギが頭を下げてきた。


「ああ、わかった。今度からは頭に血が上っても、簡単に手を出さないようにしなさい」


「はい。肝に銘じます」


「わかってくれればいいよ」


 俺はそう言って、ココアをすすった。


「ところで、怪我はなかったみたいだけど、あれから体調とか大丈夫か? 痛むところとかあったらちゃんと医務官に相談しろよ?」


「大丈夫だよ。とくになんともないから」


「……そうか。それはよかったよ」


 俺はもう一度マグカップを口につける。ココアの控えめな甘さと温かさが、安堵した心をさらに優しくほどいてくれた。


 時刻は〇時近くだった。


 場所を食堂に移したのは、ネコヤナギの提案だった。「こんな夜中にメンターの部屋で二人きりでいると、あらぬ疑いをかけられかねない」というのがネコヤナギの主張で、俺としても異論はなかった。たぶん俺たち二人の脳内には、どちらとも椿の姿が浮かんでいただろう。俺は浮かんでいた、うん……。


「……あちっ」


 マグカップを持ったネコヤナギが舌をぺろりと出して、顔をしかめた。猫族だけあって猫舌なのだろう。


「熱すぎたかな」


「いや、大丈夫。ふーふーすれば飲めるよ〜。このココア美味しいね」


「リリーが勧めてくれたココアなんだけど、美味いよな。ココアなのに甘すぎなくて飲みやすい」


「うん、好きかも〜」


 ネコヤナギは息を吹きかけながら、慎重にマグカップに口をつけ、ほうっと息を吐いた。眠そうな目が、少しだけ優しく緩んでいる。


 俺たちはしばし無言でココアを楽しんだ。ゆっくりとした時が流れる。時計の針の音と、冷蔵庫の駆動音。ぱちぱちと弾けるような音は、室内灯にぶつかる羽虫だろう。


 ――そろそろ頃合いかな。


 俺は机に肘をついて、尋ねた。


「……それで、どうしてあんなことをしたんだ?」


「……」


 ネコヤナギはマグカップをぎゅっと握り、俯いた。


「……あいつが椿姉を無視して、仲間じゃないって言ったから」


「そうだな。お前が腹を立てるのも無理はないって思える理由だ。……でも、俺が聞いているのは経緯じゃないってわかっているだろう?」


「……うん」


 しおらしく頷くネコヤナギ。


 口を閉ざした彼女は、頭の中で考えをまとめているようだった。下を向いたまま唇を引き結び、浅く息をするように小さく開いて、また引き結ぶ。言葉を飴玉のように転がしているのだ。きっと苦くて、辛い味のする飴玉を。


 わずかな逡巡ののち、ネコヤナギはゆっくりと口を開いた。


「……私さ、たぶんスノーちゃんに嫉妬しているんだと思う」


 嫉妬。


 意外な言葉に少し驚かされたが、俺は口を挟まなかった。


「あの人は、自分でも言っていたけど特別じゃん? 一人で小隊レベルで対処する敵を圧倒したり、メンターの戦闘許可がなくとも武装を使えたり、メンターのコマンドも無視できたり……色々ありすぎて上げればキリがないんだけど。ほんと無茶苦茶だよね」


 苦笑いをしながら、ネコヤナギは続ける。


「……それに、力だけじゃない。上手く表現できないんだけど、あの一度見たら目を離せなくなるような存在感。すごい綺麗だしかっこいいし、頼りになるっていうか……わかるかな?」


「わかるよ」


 わかりすぎるくらいに。


「そっか……。とにかくあの人は他のアスピスたちの誰とも違うんだよね。すごく華があるんだ。私もさ、あの子が戦う姿を最初に見たときは目を奪われたよ。あまりにも強くて、美しくて。戦いの女神なんじゃないかって大げさじゃなく思わされた」


 ――でもね。


 ネコヤナギの琥珀色の瞳が濁る。


「でも、だからこそ。だからこそ打ちひしがれるものもあった。あんなの、私たち凡夫がどれだけ修練を積んだところで追いつけるわけがないもん。武装解放を体得したって敵うかどうかわからない。……天才って、ああいうやつを言うんだろうね」


「……」


「たしか栄花勲章えいかくんしょうを受章したこともあるんでしょ? アンサスに与えられる最高レベルの勲章。いろいろあって取り消されたみたいだけど、そんなもの貰える時点で上澄み中の上澄みだからね。桜様と同等レベルの扱われ方なんだもん」


 ネコヤナギは諦観の漂う笑みを浮かべ、やがて苦々しく表情を歪ませていく。耐え難いなにかを思い浮かべ、吐き出そうとする気持ちに自分自身で嫌悪するように。


 わかるよ。


 醜いと思える言葉を吐くときは、自分が汚れているように感じるものだよな。


「……なんで、私はああなれなかったんだろう。あの子は、私の目には眩しすぎるよ。アンサスなのに……アンサスなのに、まるで普通のアンサスじゃないように振る舞っているあの子を見ていると、どうしても苛立ってしまうんだ。だって、私は……」


 ネコヤナギはこれ以上耐えきれないように、吐き出そうとした言葉を飲み下す。


 私は……なんだろう?


 なにを言おうとしたんだろうか。


「私は……」


 もう一度吐き出そうとして、ネコヤナギは唇をかんだ。マグカップを握る手が震えている。


「言いたくないことは無理に言わなくていいよ」


「……うん」


「ゆっくりでいい。俺は、いくらでも話を聞くから」


「……わかった。ありがとう」


 ネコヤナギはきゅっと目をつむって、震える唇から息を零していく。時計の音は、緊張を刻むようにはっきりと響いた。


 長い沈黙ののち、ネコヤナギは言った。


「……私は許せなかったんだ。普通なのに特別でいられる彼女が、特別だからこそ孤高でいられる彼女が……眩しくてどこか鬱陶しかったんだ。仲間なんかいらないってあいつの言葉。きっと色んな意味があるんだよね。わかってるんだよ。だけど……それでも許せなくて」


「……」 


「……私は、一人で生きていく強さなんかないから。普通にも特別にもなれない私では、あんなに強く輝くことなんてできないから……」


「……ネコヤナギ」


 俺は立ち上がって、ネコヤナギの肩に手を置いた。彼女は顔を上げなかった。上げられなかったのだろう。顔を見せないようにしたって、彼女の表情はわかる。


 何も言わず肩をさする。


 ネコヤナギの言うことには引っかかるところもあった。スノードロップを特別としながら「普通」と定義する言い回しを使ったり、普通にも特別にもなれないと自分のことを決めつけてかかったり。


 まるで、「普通」という言葉の置きどころに迷っているかのような。


 自分自身を定義することを避けているかのような。


 そんな印象を受けた。


 だが、それはここで指摘するようなことではない。指摘すれば、彼女の本音をもっと引き出せるかもしれないが、下手をすると傷つけてしまう可能性もある。


 俺はネコヤナギを傷つけたいわけじゃない。それは、寄り添うということとは離れてしまう。


「……ありがとうな。気持ちを聞かせてくれて」


「……」


「話しにくいことだったよな。でも、すごく大事なことを話してくれたと思う。俺は、お前の気持ちを知りたかったから」


「……お礼を言われるようなことなんかじゃないよ。だって、すごく醜いことを言っているじゃん」


「そうかもしれない。でも、そういう気持ちは誰でも持っているもので、普段は腹の底で煮えさせているような感情なんだ。……表に出しづらいものなんだから、それを話してくれたことはすごいことだよ」


「……そうかな」

 

「そうだよ。それにお前は今回のことを反省して、どうにかしたいと思ったからこそ、話してくれたんだろ?」


 ネコヤナギは小さく頷く。 


「その気持ちがあって、正直に話してくれたお前が醜いわけないじゃないか。……それに、お前の気持ちは少しだけどわかる。俺も、たくさんの挫折を味わってきたからさ。人と比較して、打ちひしがれてきて、何者にもなれない自分に絶望したこともあった」


「……私とは違うよ」


 ネコヤナギはボソリと言った。


 俺は聞き逃さなかった。


「そうだな。俺とお前は違うよ。お互いの事情も経験も、まるで異なるものなんだからな。だからこそ、こうして話をしてすり合わせることが大事なんだ。それがわかり合うってことだし、相手を尊重するってことなんだと俺は思う」


「……わかり合えないことだって、折り合いのつかないことだってあるかもしれないじゃないか」


「それはそうだろう。わかり合うっていうのはなんでも肯定することではないんだし、そんなのはそもそも不可能だ。だけど、だからといって相手と向かい合わず逃げる理由にはならない。そう思わないか?」


「……」


 俯ききったネコヤナギの表情は見えなかった。マグカップに添えられた手には力がない。


 ネコヤナギは力なく声を出した。


「わからないよ……。私は、逃げてきたんだもん」


「……お前が?」


「うん。のらりくらりやってきて、みんなとそれなりに仲良くしてきたつもりだけど、向き合ってはいなかったと思うんだ。私はさ、たぶん人を理解することからも人から理解されることからも逃げていたんだ」


「そんなこと」


「あるよ。だって、私はそうせざるをえないからさ」


 ネコヤナギは俺の言葉を遮って、意味深なことを吐いた。どういうことか真意を確かめようとすると、口の前に人差し指を置かれる。


 顔を上げた彼女は「言いたくない」と弱く微笑んで、ため息を吐いた。


「ほんと……ままならないね。上手く立ち回ろうと思っていたんだけど、どうしてだろ……最近上手くいかないや」


「……」


「私にも、独りでいられる強さがあったらよかったのに。やっぱりスノーちゃんみたいには、到底なれそうもないよ」


 ああ――。


 ネコヤナギの言葉を聞いて思い知った。


 たしかに俺たちはみんなすれ違っている。ネコヤナギと話してみて、すり合わせをしたからこそわかったことだ。

 

 ネコヤナギがスノードロップへの嫉妬や羨望とは別の、口に出せない葛藤を抱えていること。


 だからこそ俺が、ネコヤナギの苦悩の本質にはたどり着けていないこと。


 そして、ネコヤナギにも俺たちを理解しきれていないがゆえの誤解があること。


「……スノードロップみたいにはなれないか」


 俺はネコヤナギの言葉を拾いあげる。


「そうだな。きっと、誰もあの子のようにはなれないし、あの子のようにはなってはいけないと思う」


 ネコヤナギの目が揺れた。


 琥珀色の瞳には、戸惑いと少しばかりの不安がにじんでいて。俺は優しく肩を撫でた。


 大丈夫。俺はお前を否定しないさ。


「……あの子はたしかにすごいよ。でも、そんなに強いわけじゃない。ああやって強い態度に出たりするのも、仲間の存在を否定するのも、きっとあいつの抱える孤独と恐怖の裏返しでしかないんだ」


 ネコヤナギは馬鹿じゃない。ここまで言えば、自分が見ようとしてこなかったスノードロップの葛藤の正体が理解できるはずだ。


 思ったとおり、彼女は目を見開いた。


「スノードロップの過去は、知っているな?」

 

「……うん。ちょっとだけだけど。クロノスの崩壊はアンサスたちの間でも噂になっていたから」


「そうか……。なら、スノードロップの気持ちはわかるんじゃないか?」


 ネコヤナギは気まずそうに目を伏せて、頷いた。少しの間黙した彼女は「……馬鹿だったな」と呟いて、口を開いた。


「……私は本当に向き合ってなかったんだね。思い知ったよ」


 自嘲するように笑う。


「自分のことばかりで、ちっとも、これっぽっちも……。ちょっと考えれば、あの人の言動の理由なんてわかりそうなものなのに」


「……仕方ないさ。たぶん、お前はそれだけ余裕がなくなっていたんだ。俺も余裕がなかったときは、憎んだり怯えたりするばかりで、人のことなんか欠片も考えきれなかったから」


 思い出すのは灰色の日々。ブラック企業にいた俺は、誰のことも思いやることができず、そして最終的には自分さえも蔑ろにして線路に飛び込んだ。


 だからこそ、そういう視野狭窄に陥ることはあると、俺は知っている。とくに嫌いな人間のことなんて、そんなときに深く考えようとは思わないものだ。自分にとっての都合の良い部分だけを切り取って、相手を過度に神格化したり邪悪にみたりして、自分から遠ざけようとする。


 わかるのだ。だから、俺はネコヤナギのそうした性質を否定しない。否定するわけにはいかない。


 ただ、誤解を抱えたままで居てほしくはない。それだけなのだ。


「……あの子のことを嫌うなとは言わないさ。でも、少しだけでいいから分かってやってほしい。誤解を抱えたままなんて、遣る瀬無いと思うから」


「……」


 ネコヤナギは静かに目を閉じた。


 彼女がなにを思っているのかはわからない。だが、彼女は彼女なりに飲み込んで、考えてくれている。


「……ネコヤナギ。俺たちはきっと、あまりにも言葉が足りなかったんだ。本当の意味で分かりあえる日が来るのかどうかなんて、先のことはわからないけど……でも、だからこそその未来に近づく努力は大切なんだと思う」


「……」


「俺は、お前とも分かり合いたい。だから話ができて本当によかった」


 俺がそう言うと、ネコヤナギは目を開いた。尻尾がゆっくりと波打つように揺れている。こちらを向いた琥珀の瞳には、俺の頼りなさ気な顔が映っていて。


 ネコヤナギは、優しく微笑んだ。


「私もだよ。……いつか、私たちにとって明るい未来が来るといいって思う」


「ああ……」


「話ができて本当によかった。まだ色々考えないといけないことはあるけど、少しスッキリしたよ。……本当、イケメンターはイケメンになったよね〜」


「いやいや、そんなことないって。俺は本当に当然のことをしたまでだから」


「またそういうこと言って……。当然なんかじゃないんだぞ〜」


 ネコヤナギは呆れたように笑って、俺の胸元を指でつついた。


 そして壁の時計に目をやると、さっと立ち上がって伸びをした。


「さて、そろそろ帰るよ。もう時間も一時超えたしさ。ちょっと眠くなってきた」


「……そうだな。そろそろ寝た方がいい」


「うん。たくさんお話聞いてくれてありがとう。最後にお休みのちゅ〜してくれる?」


「……するわけないだろ。リリーみたいなこと言ってからかうんじゃない」


「あはは〜、つれないね〜」


 まったくこいつは……。真面目な話をしていたと思ったら、すぐに飄々とからかってくるんだからな。


 そんな掴みどころがないところも、ネコヤナギらしいとは思うが。

 

「はいはい。ちょっとでもゆっくり寝ろよ。……明日の起床時間は一時間遅らせて構わないから」


「え、まじ? わーい。イケメンターやさしいな〜」


「……わかったよ。おやすみ」 


 俺が手を振ってそう言うと、ネコヤナギは少し寂しそうに微笑んだ。

 

「うん、おやすみ」





 

 


 自室の扉を閉めて。


 扉に寄りかかりながら、ネコヤナギは天井を見つめた。室内灯はつけていないのに、天井についたシミの形までよく見える。この目には闇が馴染むのだ。光なんかなくとも、平気なほどに。


 そんな明るい闇の中で、浮かんだのはメンターの顔だった。雑誌の表紙を飾るモデルのように顔立ちの整った美丈夫。あの優しくて、綺麗な顔が忘れられない。


 ネコヤナギは胸元に手を置いて、熱い吐息をこぼした。身体が異様に熱かった。まるで風邪を引いたときのように。

  

「……あんな優しく聞いてもらったら、勘違いしちゃうじゃんか」


 そうだ。あの男はズルい。


 こちらはけっこう勇気を出して本音を話したというのに、醜い部分も見せたというのに……それなのになんでもないように柔らかく微笑んで、包み込むように受け入れてくれた。


 こんなこと今までなかった。人間ガーデニアンはこちらを下に見ているやつばかりだし、あの優しかった二階堂大佐でさえこれほどまでに話を聞いてくれたことはない。


 あの人は、やはり何かが違うのだ。私たちは兵器なのに、それも壊れているとレッテルを張られた不良品なのに……どうしてこんなにも優しくしてくれるんだろう。


「……ダメだよ、ネコヤナギ。勘違いしたらダメなんだ」


 そう自分に言い聞かせ、ネコヤナギは自分の身体を抱きしめると、ずるずると腰を下ろした。


 あの優しさはあまりにも心地よくて、浴び続けるとおかしくなる。


 さっきも半ば逃げるように話を切り上げて帰ってきた。少し強引かとも思いながら終わらせたから、訝しく思われたかもしれない。でも、あれ以上居たらたぶん耐えられなかった。


 耐えられず、言ってしまっていたかもしれない。


 自分が、普通にも特別にもなれない理由を――。


「…………っ」


 ネコヤナギは膝を抱えてうずくまる。


 勘違いしたらダメなのだ。あのメンターなら、自分の正体を知っても受け入れてくれるだろうと。そう信じてしまったら、身を委ねたくなってしまう。


 自分がアンサスじゃなくても、みんなと同じように愛してもらえると。


 そんなことあり得ないのに――。


「……優しくしないでよ」


 期待なんかしたくない。


 「普通」に振る舞えるようになったと思っていたのに。シオンが来たせいで、あのメンターと出会ったせいで、ネコヤナギのアイデンティティは激しく揺れ動いた。


「……もうこれ以上、壊れたくなんかないのに」


 あの温もりを失いたくない。


 そう思ってしまっている自分自身が、どうしようもなく怖かった。 

 

 



 

【通知】

ネコヤナギの好感度が85まで上昇しました。個別キャラクタールート「ネコヤナギ」攻略後に、アンサス「ネコヤナギ」の好感度が限界突破します。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る