第26話 ネコヤナギの罪
「――さん。起きてください」
誰だ。誰かが、俺を起こそうとしている。
俺は、薄っすらと目を開いた。
まばゆい陽光に景色が焼かれていた。俺は、白い視界の中で、俺に微笑みかける誰かの影をたしかに見ていた。
見慣れたはずの影。
だのに、思い出せない影。
彼女は「相変わらず寝坊助ですね」と笑う。
そうだ、彼女はいつも朝の弱い俺を起こしてくれた。両親がいたときも、両親がいなくなったあとも、彼女は変わらずに俺の側にいて――俺の世話を焼いてくれた。
光は彼女の顔を映さない。
俺はもどかしく感じながらも、微睡みに逆らおうとして、しかし逆らうことができず、もう一度目を閉じた。
「――さん」
彼女が、寂しそうに言った。
「どうか思い出してください」
俺は跳ね起きた。
薄暗い部屋に、見慣れた家具。自分の部屋だった。
息を切らしながら、俺は信じられない気持ちになって辺りを見渡した。たしかに自分の部屋であることを確かめると安堵の息をついた。
溢れる汗が顎先でたまり、膨らんで落ちる。
唇を舐めると、なぜか蜜のような甘い味がした。
「……今の夢はなんだったんだ」
悪夢ではない。だが、いい夢でも決してない。
判断はつかないが、ベタベタと纏わりつくような不快感はたしかにあって。なにか忘れてしまったことを思い出しそうになって、どうしても頭に正解が浮かばない。そんな引っかかりが心に残っている。
それになんだ。なんでこんなに甘い味が、舌に残っているんだ?
「……あ、お目覚めにゃ?」
「わあああっ!」
思わず叫んで、毛布を弾き飛ばしながら飛び上がった。
中には猫のように丸まったリリーがいた。
「にゃんにゃ〜。まだ朝早いにゃんよ。もっとゆっくりしてもいいと思うにゃあ」
「な、なんでいる!? この前、こういうことはやめろって厳命したよな!?」
「……? そうだっけ?」
「そうだよ! とぼけるなよ! 絶対お前わざとやってるだろ?」
「え〜。でもでもぉ、私もメンターと寝たかったんだも〜ん。だってメンターってなんか温かくていい匂いがするし」
会話が噛み合わないし、適当なことばかり並べ立てやがる。
リリーは、上機嫌に猫耳を触りながら起き上がった。
「最近メンター、椿姉とばっかり居たでしょ? ほら、二日前だって二人でデートにいっていたし」
「……あれはデートじゃなくて、本部から招集をかけられたから仕方なく出かけたんだよ。ちゃんと説明しただろ?」
「わかってるにゃよ〜。そういう名目のデートでしょ?」
「ちげえよ! デートどころかこってり絞られてきたよ、長いヒゲ生えためっちゃ怖い爺さんからな!」
「にゃはは、そうなんだ」
ヘラヘラと笑いながらベッドを転がるリリー。なんかこいつの相手をしていると、いつもペースに乗せられるな……。つーか、やっぱりこいつ服着てねえ。
朝から疲れる。ただでさえ変な夢で叩き起こされたというのに。
「でもでも、椿姉から聞いていた話だと、ずいぶん楽しそうだなあって思ったにゃんけど」
「……なにをどう聞いたらそんな解釈できるの? 今でも思い出すと胃が痛くなるくらいなんだけど」
猫背気味になりながらそう零すと、リリーは可愛らしく小首を傾げた。
「だって、ものすごい美人のお姉さんと料亭でご飯食べたり、和服の似合う美人なアンサスと会ったりしたんでしょ?」
「いやいや……。たしかに間違ってはないけど……」
なんか言い方が嫌らしいな。
「椿姉がタンポポの花びらを抜きながら言っていたにゃん。また泥棒猫が増えた、泥棒猫に鼻の下を伸ばしていた……って。許さないって連呼しながら花を破壊していて怖かったにゃ。メンター……浮気は良くないにゃんよ?」
「……」
それはたしかに怖い。
俺は苦笑いを浮かべながら、言った。
「……別に浮気なんてしてないよ。つーか、お前が言っても説得力ないよな……勝手に布団に潜り込んでくるし」
「私は正妻だからオールオッケーにゃ」
「オールアウトだよ。つーか、正妻じゃねえよ」
「え、違うの?」
「違うよ!」
俺がでかい溜息をついていると、後ろにあったカーテンが軽快な音を立てながら開いた。柔らかい朝日が差し込んで、リリーが目を細める。
……ん? なんでカーテンが開いた?
振り返ると、笑顔の椿がいた。
「おはようございます、メンター」
「オ、オハヨー」
変な片言で返してしまった。心臓が爆発しそうなくらい音を立てる。
え、いつの間に部屋にいたの? まったく気配がなかったんだけど……。
俺の戦慄を知ってか知らずか、椿は爽やかに笑っていた。笑っていたよ。半分開いた目で俺を見据えながら。
「今日はいい天気ですね。小鳥もよく鳴いています」
「そ、そうだね。……うん、いい天気だ。洗濯物をたくさん干したくなるくらい日差しがいい感じだ」
「それいいですね。洗濯物、干しちゃいましょう」
椿はそう言って、しれっと逃げようとしたリリーを凄まじい速さで捕まえた。首根っこを掴み上げ、光のない目を見開きながら不気味な笑い声をあげる。
冷や汗をだくだくと流すリリーが、こちらに助けを求める視線を送ってきた。
俺は見て見ぬふりをする。
……まあ、自業自得だ。
「たすけてにゃあああ〜〜!」
「あはははは、この洗濯物、洗濯物のくせによく喋りますね! もっと叩いたらホコリも落ちて静かになるかしら?」
洗濯場。
物干し竿にはシャツやシーツと一緒に、リリーが吊るされていた。カカシのような格好で縛り付けられたリリーは、涙目になりながら叫んでいる。
そんなリリーを布団たたきでしばく椿。
なんだこの光景……。
「……え、なにこれ〜? どういうこと?」
ひょこっと現れたネコヤナギが、干場の惨状を見て尋ねてくる。
「お仕置きらしい」
「お仕置き」
「今朝、俺の布団にまたリリーが入り込んでいたんだ。それを椿に見つかって、洗濯物と一緒に吊るされている」
「待って。わかったけど、わからない」
うん、俺も途中で考えるのをやめたからわからないよ。
「なんでそれで吊るすことになったの〜? これってそういうプレイ?」
「知らん。知らんけど、干したかったんじゃないか。いい天気だし」
「あーね」
ネコヤナギも考えることをやめたらしい。思考を停止した顔で生返事をして、眠気を思い出したかのように欠伸をする。
二人とも見てないで助けるにゃああ、と猫の叫び声が聞こえたが、俺たちは知らないフリをして干場の隅に腰を下ろした。
いい天気だ。青々とした空に穏やかな日差し。花風にたなびく洗濯物は陽光を吸って、清潔な輝きを放っている。洗剤の香りがまざった爽やかな匂いが、鼻腔をくすぐる。
「……お昼寝日和だね〜」
「そうだな」
「このままだと本当に寝ちゃいそうだ〜。ねえ、寝ちゃわないようになんか喋ってよイケメンター」
「なんかって……。言い出しっぺが話題を提供すべきだと思うぞ」
「え〜。何も思いつかないから振ったんじゃ〜ん」
「なら、日差しに負けて眠るしかないな」
「昼から用事があるんだよ〜。寝るわけにはいかね〜のさ」
ネコヤナギは眠たげに目をこすって、なにかを思いついたのか耳をピンッと立てた。
「あ〜、そだそだ。聞きたいことあったんだったわ」
「……なんだ?」
「イケメンターってメリアデスに行ったとき、
おそらく椿に聞いたのだろう。
俺は「そうだけど」と頷いて、ネコヤナギの横顔をうかがった。
半開きの目は空を向いていて、相変わらず感情の起伏が読み取りづらい。
しばし彼女はなにも言わなかった。沈黙はゆっくりと動く雲のように穏やかで、リリーの叫びは河川敷の野球の掛け声みたいに遠い。
パタパタと揺れる洗濯物が、ふわりと動きを止めた。
ネコヤナギがこちらに顔を向けた。
「……メンターは……いや、二階堂大佐はさ、いい人だったでしょ?」
「……ああ。優しい人だな」
「うん。そうだよね、すごく優しい人」
ネコヤナギはそう言って、小さく笑う。
懐かしむような、気まずそうな、そして少し寂しそうな。
そんな複雑な感情に濁った声。
「……あの人から私のことを聞いたの?」
嘘をついても仕方ないので頷く。
「そっか……。じゃあ、私がなにをしたのかって知ったんだよね?」
「ああ。……まあ、最初からある程度は知っていたけどな。こっちにはデータベースもあるから」
「でも、細かいことまではわからなかった。だから、二階堂大佐に真意を確かめたんじゃない?」
「そうだな」
「やっぱりね。あ〜、知られちゃったかあ。私が仕出かしたこと」
「……」
ネコヤナギはわざと冗談めかしているような態度をとっていた。その態度があまりにも彼女らしくなくて、無理があって。だからこそ俺には半透明のガラスを通して見るように、彼女の心の輪郭を朧気に捉えられた。
その形はきっと……罪を背負うものが誰しも持つ不安と後ろめたさ。
沈黙が降りた。
風が、再び洗剤の香りを運んでくる。爽やかな匂いは、さざめくような居心地の悪さを少しも慰めない。
青い空はネコヤナギの心など知らないとばかりにどこまでも澄んでいて。残酷なほどに透明で美しい。
罪人の見る空は、雲っているとは限らないのだ。
「軽蔑したでしょ?」
ネコヤナギは、かすれた声を落とした。そして俺が口を開くよりも先に、俺の言葉を聞くことを避けるような遮り方で、言葉を紡いだ。
「軽蔑しないわけないよね。私は、ナノハナを……あの子を殺そうとしたんだからさ。本当は処刑されていてもおかしくはないんだ」
「……」
「そんなやつなんだよ、私は。ここに堕ちてきたのも必然だね。ねえ、どうするの? 私の後ろ暗いことを知って、私を廃棄処分にでもする?」
「しないさ、そんなこと」
俺はきっぱりと告げた。
「たしかにお前のしたことは許されないことかもしれない。だけど、過去のことを裁く権利は俺にはないし、すでにお前は裁きを受けているだろ? 追い打ちをかけるようなことをする理由が、俺にはないんだ」
「……そうかもしれないけど」
「お前の過去はどうあれ、この拠点で問題を起こしてはいないんだし、お前がそのことを真摯に受け止めて考えているなら、俺から言うことはないさ」
「……」
「それに、二階堂大佐が言っていたぞ。死ぬことは許さないって」
ネコヤナギが微かに目を見開く。
尻尾がふわりと揺れ、猫耳が立ち上がった。瞳を落ち着きなく彷徨わせたネコヤナギは、動揺を押し殺すように目を閉じて息を吐いた。
「……二階堂大佐が、本当にそう言ったの?」
「ああ。たしかにそう言っていた」
「……。……そう」
ネコヤナギは囁くように声をこぼして、緩慢な動作で立ち上がると、空を見た。その琥珀の瞳は、どこか無感情で。感傷的な気分を拒絶するような頑なさすら感じられて。
喜ぶことも、悲哀を感じることも、許そうとしていないようだった。
「……教えてくれてありがとう。私、そろそろ戻るね〜」
「……ああ」
違和感を覚えながらも、俺は去ろうとするネコヤナギを止めなかった。きっと、諸々の思いや感情を飲み込むのには、時間という薬が必要となる。
彼女は、まだ――言葉を素直に受け止めることはできないだろうから。
「……」
ネコヤナギは軽く手を振って去っていった。
彼女の背中はどこか小さく感じられて。
少し、悲しかった。
「こらああああ! リリーのこと忘れてシリアスやってんじゃないにゃああああ!! はやく降ろしてくれにゃあああ」
「……」
…………あ、忘れてた。
「……死ぬことは許さない、か」
廊下を歩きながら、ネコヤナギは独り言ちる。握りしめた拳は力を込めすぎて、少し鬱血し冷たくなっていた。
「私も、死にたくはないよ……。でもさ〜」
生きていていいのだろうか。たまに、そんな疑念がどうしようもなく頭をよぎるのだ。当然、生きたい。生きたいけど、普通に生きられるかどうかわからない。普通という枠組みは本来曖昧なものだが、ネコヤナギの場合は明らかに普通の枠からは逸脱しているから。
だからこそ「普通」でいようとしている。自分のスタンスを崩さないように、のらりくらりとしながら、「普通」のアンサスとして振る舞おうと。「普通」の自分としての居場所を手に入れようと。頑張って、うまく立ち回ろうとしてきたのだ。
だが、それが――予想外の事態が重なって崩れつつある。
「なんとなくゆるく上手く立ち回ろうぜ」作戦が、瓦解しようとしている。
「……」
過去のことを知られる分は、まだいい。どうせ、いずれは露呈することなのはわかっていたから覚悟はできていた。それを理由に排斥されるのなら、受け入れることができる。納得もできるだろう。それだけの罪を犯したのだから当然だ。
だが――問題は自分自身のことだ。
そちらがバレて排斥された場合、たぶん自分は自分の生を呪いながら死ぬことになる。それだけは……それだけは絶対に嫌だった。
でも……。
でもだ。自分は、生きていていいのだろうか。
二階堂大佐や今のメンターにかけてもらった言葉は本当にありがたい。だけど自分の存在そのものが、かけてもらった言葉に対する裏切りになるとどうしても思ってしまって。どうしようもないほど、自己嫌悪を感じてしまう。
そう、だって自分は――。
ネコヤナギは、廊下に設置された鏡の前で立ち止まる。
両目を瞑り、ゆっくりと見開くと、自嘲的な笑みを零してしまった。
そこに映った自分の姿。
赤く染まった右目の強膜。そして、複眼のようになった網目状の瞳。
それはどう見ても、アンサスのそれではない。
【キャラクターイベント】
・ネコヤナギルート開放
アンサス「ネコヤナギ」の個別キャラクタールートが開放されました。
同時に『ルート1 ネコヤナギの罪』をクリア。『ルート2 猫の秘密』が開放されました。またネコヤナギの情報の一部が閲覧可能となります。
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